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「お互い、生きてここで喋れてよかった」壮絶な闘病からサバイブした2人に聞く「病気と仕事」

将来のことは誰にも分からない。「病気」もまさにそう。特に若い人だと、自分が病気にかかって、突然働けなくなる日が来ることなど、リアルに想像するのは難しいでしょう。

デジタルエージェンシーTAMには、死も頭をよぎるような病気にかかり、その後サバイブして活躍するメンバーがいます。Webディレクターの大内千佳さんとWebディレクターの中牟田怜士さんに、自身の体験とその前後に起こった変化についてお話を聞きました。

その日は、突然に

大内:お疲れ様です。

中牟田:お疲れ様です。大内さんの雰囲気がすごい変わってる。

大内:本当?術後(に会うの)初めてでしたっけ?

中牟田:そうですね。

大内:なんか「お互い本当、生きてここで喋れてよかったな」みたいな(笑)

中牟田:サバイバー同士みたいな。

ー中牟田さんはどんなご病気だったんですか?

株式会社TAMTO 取締役 東京副マネージャー兼福岡拠点主管
Webプロデューサー&プロジェクトマネージャー。前職のSIerで、マーケティング、営業支援、法務、システム開発など多岐に経験し2013年にTAMにジョイン。TAM東京で7年間を過ごし、現在は地元福岡で活動中

中牟田:僕はどうなんだろう。「命の危険がある」とかのレベルで言うと、そこまでではなくって。でも一応、お医者さんから「年齢も含めて考えると、2割ぐらい死ぬかもしれないからね」みたいなことは言われました。

大内:2割は十分シリアスですよ(苦笑)

中牟田:急性膵炎で。重症だと慢性化するし、生活にもかなり影響が出てくるんですけど、僕の場合はその重症の上の中みたいな。検査してもらったんですけど、内臓がなんかもう「しわしわのパン」みたいになっている様子は見ました。

大内:どうしてそうなっちゃったんですか?

中牟田:膵臓って、膵液っていう消化液を出すんですけど、それが結構強力で。本来必要でないタイミングで過剰に膵液が分泌されることによって、膵臓自体を溶かしてしまう。内臓が溶けるんですよ。基本的に外科的な手術ができなくって、もうただ自分の腹わたが溶けていくのを見ながら待つしかないらしくって。

大内:ええっ。それにいつ気づいたんですか?

中牟田:仕事中に急にみぞおちのあたりが痛くなってきて、「これちょっと普通の痛みと違うな」と。近くのクリニックに行ったんですけど、原因が分からなくって。家で一晩過ごそうとしていたんですけど、あまりに痛くって、痛み止めも何にも効かなくって。翌日、朝方一番にちょっと大きめの病院行ったら、急性膵炎って診断を受けたっていう。

大内:中牟田さんは入院して、集中治療室にも行ったんですよね?

中牟田:そうなんです。とにかく検査と点滴くらいしかできる治療がなくって、膵液を薄めるために点滴をめちゃめちゃ打たれるんです。生理食塩水とか、ブドウ糖とか、それを「何リットル」っていうレベルで。

大内:それ、ヤバくないですか?

中牟田:点滴でお腹も肺も圧迫されて、一時期、酸素濃度が79%とかヤバい状態になって(平常時は90%台後半)。そのあたりからもう記憶がおぼろげなんですけど、ナースステーションの目の前で、点滴を自分でぶち抜いて血まみれになって倒れていたらしくって、そのあとICU(集中治療室)に直行させられました。

ー大内さんはどんなご病気だったんですか?

株式会社TAM 取締役 韓国事業責任者
16年間Eコマースを追求し続けるECマニア。株式会社ニッセンでプランナー兼ディレクターを経験し、2016年にTAMに戻りEC事業を立ち上げる。支援者・事業者両サイドの経験を活かしクライアントの売上拡大を目指す。2024年韓国事業を開始

大内:私の場合、卵巣がんのステージ1のCだったんですよ。最初、お腹の下のほうだけめっちゃ出てて、「なんかお腹張ってんな」みたいな感じだったんです。それから一気に食欲がなくなって、3カ月経って10キロくらい痩せたんですよ。

そしたら、そのころ通っていたエステの先生に、「これはもう明らかに異常だから、年内に病院行ってください」って言われて。それで会社の近くにある大きめの病院に行ったら、普段はピンポン玉くらいの大きさの卵巣が、「横幅30センチ」とかになっていたんです。摘出したときには3キロくらいの重さがあったんですけど。

中牟田:そんなことがあるんですね。

大内:病院に行ったら、先生が「あ、来週手術できます?もう入院の準備しましょう。今週末、親御さんとかに説明する会を設けていいですか?」みたいな。それで、MRIを撮った後に、先生から「症状から推測するに卵巣がんです。将来子どもを産みたいですか?子宮ごと全部摘出しますか?」って、究極の選択みたいな。

中牟田:将来のことなんて分からないですよね。

大内:はい。それで「とりあえず半摘(半分摘出)でお願いします」って言って、その場で1週間後の手術が決まりました。

中牟田:「卵巣がんです」って診断されたときは、どんな気持ちだったんですか?

大内:先生がすごい穏やかな声の、いい先生だったから、なんかもう淡々と。だから悲しくもなく、手術後、抗がん剤を3カ月間することになったんですが、そのときも「年齢的に再発リスクが下がるから」って、逆に良いような感じで言われましたね。

抗がん剤って、「髪が抜ける」って言われますけど、それで先生に聞いたのは、「私ハゲてもかわいいですかね?」と(笑)。そしたら、「かわいいです」って言ってくれたんで、「じゃあやります」っていう話をして。

「絶対生きろ」、病気がもたらした影響

ー中牟田さんの急性膵炎、原因はなんだったんですか?

中牟田:これは大内さんのいる前では恥ずかしいんですけど、お酒です。先生からもはっきり、「酒だ」と言われました。毎日、結構な量を飲んでいましたから。35歳になったぐらいからお酒の量がすごい増えまくって。

大内:なにかあったんですか?

中牟田:そのころに親父を亡くしてですね。それで結構、メンタル的にも動揺した時期がしばらくあって、たぶんその時期に酒に依存するようになったんじゃないかな、という気がしています。

親父とは仲が良くって、性格とか外見も親父に結構そっくりで。親父が亡くなった原因も膵臓だったんですよね。

大内:なるほど。

中牟田:親父は膵臓がんだったんですけど、膵臓がんってもう発見したときにはだいたいかなり進行している状態なので、分かってから死ぬまでの期間が短くって。

実家に帰るたびに親父が衰えていく様子を直視せざるを得なくって、しばらくしてコロッと死んじゃったんです。そのときはもう、「自分の半身が失くなっちゃった」みたいな。

気を紛らわすために、酒に頼るような生活を送る羽目になったっていう感じでした。それで膵炎になって、膵臓の病気って結構遺伝するらしいんですけど、「ついに自分もそうなってしまったか」と。

父親が死んで、病気になって、結構死について考えたというか、死生観がある程度固まった感覚はもう35、6歳のときからありました。

ー大内さんのご病気は突然だったんですか?

大内:私、24歳のときに一回、右卵管の手術をしてて、それと元々、子宮内膜症なのもあって、婦人科系の病気になりやすい体質だったんですね。

一回、婦人科検診で卵巣に腫瘍が見つかったんですけど、そのときにはまだ大きさが5センチ未満とか、「今はまだ(小さすぎて)処置のしようがないから」って、それからちょっと甘く見ていたんです。「こんなことになるなんて思いもせずに」みたいな。

ー中牟田さんはご病気によって生活や仕事にどんな影響がありましたか?

中牟田:先生から言われたのは、「もうとにかくお酒はダメです」と。あと、「タバコも控えてください」。それから食事もいろいろ制約があって、「ラーメンとか油っこいもの、野菜も根菜類とか食物繊維が多いものは控えてください」とか、いろいろ言われて。

最初の1カ月ぐらいは、「お酒が飲めなくなった」っていう喪失感や、気持ち的にはかなり動揺があって、プチ鬱みたいにはなりました。

手術して、入院は1カ月くらいだったんですけど、2週目ぐらいからは少しずつ痛みも収まってきて、冗談も言える余裕が多少出てきて。意外とやることもないので、少し控えながらも仕事したり、あとは勉強、本を読んだりとかして過ごしていました。

ー大内さんは生活への影響は?

大内:私の家族って、一家離散してるんですよ。親が離婚していて、両親とも連絡は取るんですけど、二人とも持病があるし、昔から自分にとって親は頼る存在ではないから、病気の件で連絡を取るのは極力避けたいな、と。

それで、病気が分かったとき、病院からの帰り道に連絡したのが、そのときに付き合っていた彼氏と、それと、TAMの爲廣さん(代表)だったんですね。「病気が分かりました。今からちょっとオフィス行っていいですか?」って。

ちょっと今、涙が出そうなんですけど、そしたら「お金で解決できることは全部解決するから、『絶対生きろ』」って言ってくれて。「お金の心配はするな、絶対なんとかしてやるから」って。ひどい人なんですけど、良い人なんですよ(泣き笑い)。

中牟田:うんうん。

大内:そのタイミングで初めて、両親と疎遠なことを爲廣さんに伝えたんです。そしたら、「俺が身元引き受け人になったるから、サインでもなんでもしたるから(書類)持ってこい」って言ってくれて。なので、私、7回入院したんですけど、7回とも私の保証人と緊急連絡先には、毎回爲廣さんがサインしてくれたんですよね。

爲廣さん、ひどいんですよ。私の席に書類にサインしに来るときは「お前、汚い字やな」とか言うのに。最初の手術の前日に、「明日手術してきますね」って言ったら、「おう!行ってこい」って軽いノリでちょっと冷たいくらいの返事だったのに、その晩にDMが来て、「さっき神社でお祈りしてきたから、絶対お前は大丈夫や」って。そういう人なんですよね、ツンとデレの差がひどいんです。

死生観に変化、やっていてよかった「備え」

ー大内さんはお仕事への影響はありましたか?

大内:病気になる前に、「もしかしたらいつか妊娠出産するかも」と思って、私がやっているリーダー業務をいかにチーム内で分散させるかっていう体制作りを、その一年前くらいからやっていたんですね。

そのために作ったNotionには、「こういうときはこの人に判断を仰いでください」っていう権限譲渡の話とか、「私が(病院にいて)連絡が取れないときはこういうフローでお願いします」みたいな。

私が抜けることで、1on1ミーティングもできなくなるし、メンバーのモチベーションが心配だったので、「一人で抱えないでね」「なんか困ったら相談したり、頼ったりちゃんとしてね」とか。その「無理しないでね」っていう意味で、「息抜き代」として一人5000円まで使っていいよ、とか。

あと、「タッグ表」っていうのも作ったんですよ。「自分がしんどいときに相談する相手」と、逆に「自分が普段から気にかけてあげる人」の表を作って。

私のお見舞いもある意味、「チームビルディング」のいい機会だと思って。「いつ、この3人で、私のお見舞いに来る」とかも勝手にマッチングさせてもらってました。見舞われる側なのに(笑)。

そういう備えをやっていたので、仕事で「マジでヤバい」みたいな状況には、一度もならなかったですね。もちろん頑張ったメンバーたち、協力してくださったクライアントや関係者のみなさんのおかげではあるんですけど。

ー中牟田さんは先ほど、お父さまの死とご自身の病気で「死生観に変化があった」とおっしゃっていましたよね。

中牟田:「自分の残り時間」を意識するようになったというか。今、僕45歳なんですけど、これまでの不摂生からして、「80までは生きないだろうな」と思っていて、「人生半分はもう行ったかな」と。

これから自分の残り時間を捧げていくことを考えたときに、大義がある仕事、自分が腹落ちした仕事をしていく必要がある。

うちの会社(TAM)って、本当入社したときからの印象が僕にとっては変わってなくって。人を縛るルールがない、人がやろうとしていることを陰ながら支えてくれるような職場。変な不正を働かなきゃいけない場面、お客さんを裏切るようなことをしなきゃいけない場面が、もう「一切ない」と言い切っていいぐらい、なくって。

自分の半生を振り返って、いろいろ人様に迷惑をかけてきた人生を送ってきたなとは思うんです。その代わりと言ってはなんだけれども、なにかしら誰かの役に立つようなことに自分の時間を使っていきたいな、と。

会社でもベテランになってきたので、若い方々に対して、自分が四苦八苦しながら培ってきたものがなにかしらあるのであれば、それを還元していこうっていうふうに思っています。そうすれば、ハッピーな死に方ができるんじゃないかなと。

ー大内さんはご自身の内面で変化はありましたか?

大内:変化したことと、変わっていないことがあって。

これちょっと変な話なんですけど、私、Eコマースの仕事をしているんですけど、「Eコマースの神様がいる」と思っていて。その神様が私を必要としているかぎり、私は生かされている、みたいな感覚があるんです。これは、自分の中でずっと変わっていないこと。

逆に変わったことで言うと、昔は福祉に関する仕事をいつかやりたいと思っていたんですけど、今はなんだか、「人のため」というより「自分のために」「チャレンジしたい」って思うようになりましたね。病気とか、そのあと仕事で追い詰められてから、「ただただ楽しいことをやりたい」に変わりました。

中牟田:それぞれ違う変化がありましたね。大内さんの考え、すばらしいです。

[取材・文] 岡徳之 [撮影] 蔡昀儒

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