山本 裕子(Yamamoto Yuko)
1991年生まれ。明治大学、東京モード学園メイク学科夜間部卒業。
在学中はゼミで青森県にて村興しに関わらせてもらったり、ヘアメイクの専門学校でWスクールをしたりと、自分の好きを突き詰め自由な生活を謳歌。4年次にヘアメイクアップアーティストのアシスタントとして弟子入り。CM、雑誌、PV、ライブ等幅広い現場を経験し、働き方の基礎を築いた。
その後、2016年より(株)FoundingBaseにて活動開始。
東京→大分→北海道で現場経験を積みながら、地域にコミットした事業作りに従事。
自分の感性を表現するのが好きだった幼少期
小さい頃は、手で何かを作るのが好きだった記憶があります。
粘度や、土、プラスチック。様々な素材や色を感じながら自分の感性を表現することに楽しみを見出していました。
特に、色の配色を考えるのが好きで、ビーズに手を付け出したら止まらず、何時間も正座して没頭する様な子供でした。
作っては壊し、「この色の組み合わせの方が良いんじゃないか・・?」そんなことを考えながら、最後に自分の好きな色が合わさった作品を眺めるのが大好きでした。
自分の生き方を開拓した学生時代
敷かれたレールに沿って受験をし、一体、自分は何をして生きていくんだろう?と漠然とした不安を抱えていた大学時代。
好奇心旺盛な性格もあり、関心のあることには臆せず飛び込んでいました。
そんな中で、その後の人生に大きく関わる大学3年次の2つの転機について、お話します。
1つ目は、ゼミで地方創生に関わり始めたこと。
2つ目は、専門学校でヘアメイクを学んだことです。
ゼミでは、青森県で一番小さな村の活性化に関わらせてもらいました。
ドキュメンタリー番組を制作する為、夜行バスで東京ー青森間を往復すること、1年。
当時を一言で表すと、 “夢中”という言葉が一番当てはまるかもしれません。
関東の住宅街で育った私にとって、青森の大自然と、1400人の家族の様な村は、求めていたものが凝縮された世界でした。
22歳で初めて知った、美しい日本の姿。
のめり込むように取材を続けるうちに、「こんなに美しい自然と、温かい人の繋がりがあるのに。いつか無くなってしまうの?そんなの、勿体ない。」という強い感情が芽生える様になりました。
地域を存続させるって、どういうことなの?
ここで生まれた気持ちが、今の仕事に繋がっています。
また、在学中は東京モード学園の夜間部にも通い、ヘアメイクの勉強をしていました。
「敷かれたレールに乗って大学まできたけど、私は表現をする仕事がしたい。」幼少期から持っていた、何かを創り出し、表現する仕事への憧れから始まったダブルスクール。
パーソナルスペースに入り、その人が大事にしている髪や肌に触れ、一緒に変化を分かち合える仕事に魅力を感じ、胸をときめかせて入学しました。
1年間の通学後、「業界のコネもツテもないけれど、私は自分の道を歩みたい。」と考え、当時ゼミでお世話になっていた映像編集の方、編集者の方に頼み込み、一流ヘアメイクアップアーティストを紹介してもらいました。
在学中ではありましたが、大学4年生から私のファーストキャリアがスタートします。
覚悟を決めて始めたアシスタント生活。
昼は練習or現場アシスタントに行き、夜は毎日ヘアセット現場へ。その後、夜中0時から3-4時まで週5でアルバイト。お風呂に入る時間もなく、水道で頭を洗っていました(笑)
人とは違う道を選んだことに後悔はしたくない。
その一心で、全力で臨んだ仕事でした。
しかし、技術もなく、社会の常識も知らない私は、全てのことに躓きました。現場に入る時は、緊張で手汗をかき、ハンカチが手放せませんでした。
週2日布団で寝れたらいい。雑居ビルの中、ソファーで寝た日々。
今となってはどれも大切な思い出ですが、当時は日々戸惑い、複雑な感情を抱えて仕事をしていました。そんな時でも、私を絶対に辞めさせることをしなかった師匠に、感謝してもしきれません。
最終的には、描いた夢を追うことが出来ない自分に対し、諦めに近い感情を持って、業界から離れることを決意しました。
その後、出会ったのがFoundingBaseです。
もう一度ゼロに戻って、私が一番輝いていたときはいつだろう?と考えた時、頭に浮かんできたのは、学生時代に役場職員さんや仲間と村を駆け回っていた姿でした。
本質的なまちづくりを学んでみたい。もう一度、まちづくりにチャレンジしてみたい。
その想いで、FoundingBaseの扉を叩きました。
「今の私では、ここにいてはいけない。」
そんな感情を抱えていた私に、
「ありのままでいいんだぜ。」という言葉をかけてくれた仲間たち。
当時はまだ6人しか社員がおらず、社内では妹のような存在だったと自負しています(笑)
兄のような上司たちが、時間をかけ、角度を変えて問いを投げ続けてくれました。
「裕子ほど手間がかかった人材はいない。」
そう断言されるのは間違いありません(笑)
それほどお世話になり、色んなことを教えてくれた組織だと思っています。
勇気を持って飛び込んだ、ビーチリゾート開発
入社後は、自分の力だけでは決して及ばない難易度のプロジェクトを任せてもらい、求められている基準に達するためにがむしゃらに働きました。
そんな中、一つの転機になったのは大分県豊後高田市での新規プロジェクトです。
東京での勤務もやっと慣れてきたある冬の日、突如代表からこんな言葉がかかりました。
「裕子さ、大分で新規事業作ってきてくれない?」
「!?・・・・いいですね。笑」
冗談交じりで返答して2週間後、私は大分のビーチにいました(笑)
地域が衰えていくのを見ているだけでいいのか?
という学生時代に感じた思いもあり、今の自分が出来ることをやってみたいと飛び込んだ大分。
そこで、30年前に出来た人工海岸の活性化を目的とした事業に加わることになりました。
当初、私を含め2名の社員が現場に配属されていましたが、どちらも宿泊業の経験はなく、本当に0→1での立ち上げでした。自分がここにいる意味を見出すために、ただただ汗をかいて、足を動かして泥臭く事業を作ってきたという感じです。
何をやるかも、どうやるのかも、全て自分たち次第。
小さなことの積み重ねを大切に、101%の積み重ねを意識して、1日1日を過ごしていきました。
大分の一画から、奇跡を起こしたい。
大きな希望と、やってもやっても変わらない目の前の現実とを行き来しながら、可能性をひたすら模索する日々。
自分がコトを前に進めなければ、変化も奇跡も起きはしない。
一体、私達が作る観光地から、どんな世界が見れるのか。
常にそんな問いを突きつけられている感覚でした。
「ここで成功したら、全国各地の活用されていない土地の利活用モデルを私達が実現できるかもしれない。」
「人が育つ仕組みを、地域から作れたら面白いと思う。」
「町の人と一緒にやってこそ、まちづくりだ。」
どこかで聞いたことのある理想を語ることすら憚られる、一向に変わらない現状。
世の中は、そう簡単に変わらない。
地域に入って最初に感じた大きな壁でした。
でも、自分達が動かなければ、何も生まれない。
やり続けることで、小さな変化は起きる。
仲間と声をかけ合いながら、活動を続けていきました。
点が線になり、徐々に見えてきた新しい世界
1年が過ぎる頃には、徐々に思い描いたことが実現し始めました。
幼少期から抱いていた、“自分の感性を活かして、何かを表現する仕事がしたい”という夢は、思わぬ形で実現されていきました。
海沿いの風景も変わり、有難いことに立ち上げた事業は少しずつ軌道に乗り始め、多くのお客様に利用していただける場所に。
また、活動を続けるうちに、町の人からも少しずつ声をかけてもらえるようになりました。
事業のことばかり考えて内に籠ったり、お客様との関係性作りに徹してばかりだと、町の人との繋がりが生まれず、根本的な町作りには繋がらないのでは。
そんな不安を抱えていた日々もありましたが、真摯に目の前の人に向き合っていれば、伝わる日がくるということを実感しています。
追い求める夢の着地点
現在は結婚を機に、思い出が沢山詰まった大分を離れ、北海道安平町に拠点を移しました。次に取り組む新しい活動を模索する毎日です。
ヘアメイクを目指していた当時、ヘアメイクの技は一度身につけると、私がそばにいなくても実践できる最高のツールだと思っていました。
勿論、美容が持つ力は今も信じています。あんなに強く抱いていた夢。
もう後悔はないのか?と聞かれると、数年前の私は答えを出せずにいました。
ですが、今の私であれば、違う答えを導くことが出来ると思っています。
今、私はこのFoundingBaseという組織の可能性を感じています。
東京→大分→北海道と拠点を移してきましたが、どの地域においても感じるのは、ゼロからプロジェクトを構想し、立体的に組み立てていく人材の重要性。
自分を取り巻く状況の変化を感じ、社会に対して貢献できることを見つけ、広い関心と深い知識を持って実行していく。そんな人材を、私たち社会は求めています。
そんな社会を変える人を、FoudingBaseは今ここから育んでいける組織であると本気で思うのです。
その組織の一員として、“感性を表現する”という自分の夢を実現しながら、自分が出来ることを見つけていきたい。今はそう考えます。
諦めた夢をそのまま放置するのではなく、自分がこれまで学ばせてもらったこと、見てきた世界を今後の仕事に昇華して、更に自分らしい取り組みを生み出していきたいです。
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