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京都市の中心祇園四条から電車で1駅、鴨川沿いの道を1本入って歩いた先にLITALICOジュニア京都三条教室はあります。
京都生まれ、京都育ち、柔らかい京言葉が混ざった関西弁が印象的な城戸は、この教室で活躍する指導員。元気で親しみやすい人柄に加えて、LITLICOジュニアの中でもひと際異彩を放つほどビジョナリーでパワフルな城戸ですが、その唯一無二のキャラクターがつくられるまでにどの様な半生があったのか。常に社会の課題と向き合っている城戸はこの先どんな展望を描いているのか。今回はそんな城戸のお話をお届けします。
※LITALICOジュニア(https://junior.litalico.jp/)は、LITALICOジュニアはお子さま一人ひとりの得意や苦手を見つけ、それぞれの特性に応じた指導をおこなうソーシャルスキル&学習教室です。
「私の人生って本当にこれでよかったのかな?って思たんです。」卒業間際に気づいた本当にやりたかったこと
LITALICOジュニアの教室で目の前のお子さまと向き合いながら、常に社会の課題にも目を向けている城戸。教育や社会課題への強い関心は、彼女がこれまで生活をしてきた環境から芽生えたものでした。
学生の頃から、「そもそも今の日本の教育ってどうなんだろう?」と疑問に思っていました。妹が軽度の知的障害、母がうつ病という環境で生きてきて、そうした境遇にある人の中でも、潰れていってしまう人とそうでない人がいるということを目の当たりにした時に、「いったい何が違うんだろう?」と思ったんです。
自分なりにいろいろと考えた結果、教育がすべての原点にあるのではないかと思いました。結局、親も学校の教育を経て大人になっている。だから、学校が変われば、人の人生は何か違うものになるんじゃないかと考えたことから、将来は教育に関わりたいと思うようになりました。
教育の仕事を通して、困っている人達の力になりたい。
大きな目標が出来た城戸ですが、早くも壁が立ちはだかります。
教育関係の仕事につきたいって思いは強かったんですけど、一方で、自分が家計を支えないといけない状態だったので、私には、そこまでお金を使って挑戦できるほどの余裕はないと思っていました。当時は教育と言えば学校の先生だと思っていて、先生になるためには大学に進学しなければならない、その中でも、先生になれるのは一握りだという話をたくさん聞きました。
そこで、大学に進学することは諦めて、国立の看護学校に入ることにしたんです。
家庭の事情で、高校時代からアルバイトを掛け持ちして、学費や進学費も自分で稼いでいた城戸。教育の仕事に未練はあるものの、看護師になれば、お給料も安定しているから、家族を支えることができると悩んだ末の決断でした。
ところが、看護学校に進学してから2年生の頃、晴れて就職先の病院も決まって、後は卒業を残すのみとなったタイミングで転機が訪れます。
看護学校2年生の時病院の内定をもらいました。素直に、ようやく努力が報われた。これで将来安泰やと喜んでいました。でも、いざ約束された未来があると思った瞬間に、「私の人生って本当にこれでよかったのかな?」という思いが浮かんできたんです。
内定先の病院から届いた一週間以内に承諾の連絡をしてくださいという手紙を前に城戸は迷っていました。そして悩みぬいた末に、内定先の病院に辞退の連絡をして、看護学校を退学するという選択をします。
大胆な決断の背景にあった当時の複雑な心境をこう話します。
私、ずっと自分に言い訳をして逃げてたなって思ったんです。
本当はずっと教育関係の仕事につきたいって思っていたのに、教育の道で食べていく自信がなかったから、家庭環境とかお金がないとかを言い訳にしてたことに気づいたんです。ほんまにやりたいことやったら、自信を持って「それでもできるんや」って突き通せばよかったのに、高校3年生の時の自分はそれができなかったんです。
進路に悩んでいた当時、アルバイトをしていた先で出会った先輩との対話の中で、城戸はずっと押し殺していた自分の本音と向き合うことになりました。
看護学校に入学することが決まった時に、母親もまわりもすごく喜んでくれて、私の人生これでいいんだって思ってたんですけど、それって言い訳して逃げてただけで、誰のための人生なんやろうと思ったんです。看護学校を辞めるという決断をした時、当然、まわりはみんな反対したんですけど、みんなの正解が、必ずしも私の正解ではないと思ったんです。
専門学校を中退して、自分が本当にやりたいことに向き合おうと決意した、働く先を探します。ところが、一番やりたかった教育の仕事は応募の要件が、大卒や専門卒以上のところが大半。また、一方で福祉関係の仕事は門戸が広く開かれてることに気づきました。
社会の普通からこぼれ落ちてしまう人への支援の経験は、将来教育の仕事について時に子どもと関わる上でも応用出来るのではないか。
そう考えた城戸は、障害者自立支援施設の生活支援員として働くことを決めました。
「施設で働く中で障害って社会の側がつくっているって実感しました」障害とは何かに気づいた原体験
城戸が当時働いた施設は、自閉症や、ダウン症等の方々が日中通われる場所でした。ここでの経験は城戸の中で、「障害」に対する考えや価値観をかたちづくる上での原点となってると話します。
そもそもこの社会における障害ってなんだろう?って思いました。
そして、施設で働く中で、「障害って社会の側がつくっていた」ということを実感したんです。
一体、どんな経験を経て実感したのでしょうか。
施設の活動の一環で買い物にいくことがありました。私は、できるだけ本人にやらせてあげたい考えの人間なので、お会計等も任せていたんですが、店員さんによっては、ちょっとゆっくりなことにイライラしたりする人もいて、こちらが「すみません。すみません」って姿勢で買い物にいかなきゃいけないわけですよ。その時に「ああ、社会の側ってそういう風に見てるんだな」ってことを肌身で感じました。
それでも城戸の「できるだけ本人にやらせてあげたい」という考えはずっとブレませんでした。例えば、字を書くのが苦手な人には点線を付けることや、数字の読み取りが苦手な人にはイラストを活用すること等、1人1人に合った最適な環境設定や提示を、試行錯誤しながら自ら編み出していきました。
もともと「できない」と思われていた人が、その人に合った環境を整えてあげると、どんどん成長していきました。その姿を目の当たりにして、できない人じゃないんやって気づいたんです。練習したらできるし、時間をかけたらできる。私達が勝手にできないと思い込んで、やらさへんだけやって思いました。
福祉施設で濃密な日々を過ごす中で、改めて教育に関わる仕事への関心が膨らんできた城戸。働きながらネットで求人を探していると、ふと教育関係で学歴不問
の求人が目に留まりました。HPを見て、自分の考えと近いと感じ思い切って飛び込むことに決めました。今年で4年を越える城戸のLITALICOジュニアでのキャリアのはじまりです。
「現状に不満があるということは自分が環境を変えられるチャンス」お子様を中心に最適な環境をつくるための取り組み
初めて配属されたのは、LITALICOジュニア新大阪教室。その後、地元の京都の三条教室に異動。開設メンバーとして参加した新大阪教室で初めてリーダーを経験した城戸さん。時には環境が整っていない状況に悩むこともあったそうですが、ずっと心がけていることがありました。
私が新大阪教室でリーダーをやっていた時は、どのみち日々大変なんやから、とにかく楽しく仕事しようぜって考えていました(笑)スタッフのモチベーションは、授業のモチベーションに繋がり、その先の子どもの成長に繋がると考えると、一番最初に大事にすべきは一緒に働く仲間やって思いました。
とりあえず、楽しく、元気よく、失敗しても、それは大丈夫大丈夫って。ある意味、入社して数年間は失敗してなんぼやと思ってました(笑)いざとなったら、教室長(施設長)が守ってくれるから、今のうちにたくさん挑戦して、たくさん失敗させてもらおうって。
「助けてって言えない人達も誰も取りこぼさない社会にしていきたい」障害のない社会のために私にできること
揺るぎない信念を持って真っすぐにお子さまや保護者さまと向き合い続ける城戸に今後の目標を聞いてみました。
社内でのキャリアは正直分からないんですよ。(笑)
色々役職についても考えたこともあったんですけど、どれでもない気がして。
でも、やりたいことはたくさんあるんです。親御様との連携も、地域との連携も、頑張りたい。子どもへの支援も頑張りたい。その時々で、自分の目指したいビジョンを追求できる環境を探していけたらと考えています。
私は、これから生きていく人達が、幸せだと感じられる人に育っていける社会をつくることを目指してるんです。日本全国にいる今は取りこぼされてしまっている人達も全て、誰も取りこぼさへん社会にしていきたいという思いがあります。
大きなビジョンを持っている城戸は、自分なりにそれを実現するための手立てについても考えています。
やっぱり、小さいところからやっていかんとアカンのやろうなって思います。
ほんまは、困った人はみんな私のところに来て相談してくれたらいいよってしたいんですよ(笑)全部受け止めてあげるし、誰か助けてくれる人を一緒に探したるやんって。
日本にはたくさんの福祉の資源がありますが、存在を知らなければ活用することはできません。城戸は、ご家族を支える時に、誰に相談すればいいのか、どんな制度が利用出来るのか、何も分からなくて辛い思いをしたという過去の経験から、そんな人を1人でも減らしていきたいと考えています。
助けて欲しい人が助けてって言えない環境だなって。
だから、その人達をこちらから見つけに行ってあげたいなって思っています。
見つけに行って、自立出来るまでは、ちゃんと寄り添ってあげられる社会をつくりたいです。育児放棄とか虐待とか悲しいニュースを見ると支援の網から抜け落ちてしまう人が日本にはまだまだいるんだなって。私はそういう人達の救いになりたいと思っています。