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音楽家、船主、CTOを経て、私がハッカズークにジョインしたわけ

はじめまして。
ハッカズークのテクニカル・ディレクターの時藤資樹(ときふじもとき)です。

12月からハッカズークのメンバーとなりました。
改めましてよろしくお願いします。
前職のイレブンナイン株式会社では受託開発及び技術コンサルティング・外部技術顧問、CTOをやっておりました。

ハッカズークの事業・マインドに共感し、是非ゲームチェンジングの立役者・目撃者になりたいと想い新しい一歩を踏み出してみました。

アメリカ→日本、多様な価値観に触れた幼少期時代

8〜14歳までアメリカにいましたので、14歳で中2という微妙なタイミングもあり、受験でも帰国子女枠が利用できず、結果的に日本語のリカバリーが追いつかず、合格を満たす程の学力も追いつかず、単願推薦で私立の高校に入学しましたが、言語や学力だけではなく、文化的にもかなり乖離が生まれてしまい、17歳で高校を中退しました。

17歳からアルバイトを転々としながら、この日本という国で生き残るための“自分探し”をしていました。コンビニのレジ打ち、ファミレスのウェイター、バイクの整備工など常に2つは掛け持ちで働くようにしていました。
アルバイトで稼いだお金で今度は解体屋を回って廃車になった原付を安く入手し、他の解体屋で代用部品を探したり、部品がなければメーカーから入手したりして最終的に自分で市役所に行って書類提出をしてナンバープレートを再発行してもらったりすることで、当時はバブル崩壊直後の不景気で中古車ブームなどのトレンドもありレストアした中古原付が自宅の駐車場に何台も置いてあって、赤字にならない程度の安い価格で友達や知り合いに販売して、またその売上金で次のレストア候補の原付を解体屋で探す…みたいなサイドビジネスを友達2〜3人とで情報交換しながら行ってました。
楽しかったということでもなかったですが、“手に職をつけるしかないということ”もあり、整備工のアルバイトの工場長にわからないことをシレっと休憩中に聞いてヒントをもらったりしながらバイク整備の腕を磨くということをしていました。
自室内にエンジンを持ち込んで洗浄剤(オイル)で洗浄したりしていたので、かなりオイル臭いと母からよく文句を言われてました(笑)

プログラミングとの出会い

一方でアメリカにいた頃からバンド等の音楽活動もやっておりました。
帰国子女ですので高校に入ってからしばらくは洋楽のコピーバンドでボーカルをやらせてもらったりしている内に、ギターを触るようになりました。
バンド仲間が普通に教えてくれるので楽しくなってしまいどんどんハマっていきました。
ギターに目覚めたところで今度は宅録(自宅でレコーディング)することにハマり、そしてバイクで得たノウハウを応用して友人と粗大ごみの日に軽トラックを借りて捨てられたギターたちを拾って帰っては修理して売るというスモールビジネスにも手を出していました。(笑)

音楽についてはその後、渋谷にあるMI Japanというギターの専門学校に入り本格的に勉強させてもらいました。
そこで練習用の課題曲のオケ(ギターパートを除いた箇所)を作ったりするためにシーケンサーという音楽用の機材について学ぶ必要が出てきました。
当時、アルバイトして稼いだお金でシーケンサーを中古で入手して、練習のための課題曲を自分で手打ちして利用していたのですが、これがとても効率が悪い作業だったので”楽したい”という思いから今度はDTM(Desk Top Music)に手を出してしまいました。
MIには当時Digital PerformerがインストールされたMacintosh(まだMacという略称じゃなかった)が1台だけあったのですが、そういった所謂レコーディングエンジニアリングを専門にしている先生がおらず、なんとなくカチカチ触って“これで何ができそうなのか?”を手探りで覚えていきました。

そして、今度はまたアルバイトして貯めたお金でパソコンを購入し、自宅でPCを利用したレコーディング環境の構築と、オケ作りのための打ち込みの技術を独学で磨いていきました。
なんとなくプログラミングっぽいことをやり始めたのはこの頃からで、シーケンサーで手打ちしていたころに比べるとかなり“楽”できてクオリティも上がっていました。

その後、レコーディングスタジオでレコーディングエンジニアのアルバイトなどをやりながら、自作曲を受託で制作したり、また、曲の制作などを請けるためのウェブサイト制作もこの頃から始めていました。1998年頃だったと思いますけど、これは凄い時代になったと思いました。

2000年代、エンジニアとしてのキャリアがスタート

2000年頃に大阪の叔父のSI会社のプログラマーとして働いてみないか?と誘われてお給料が嘘みたいによかったので2つ返事で東京から大阪に飛びました。(笑)
時代は“IT革命”などと森喜朗総理もいっていました。
ただし、当時は実際にそういった恩恵を受けていたIT技術というものは金融機関や証券会社などの本当にお金を持っていた一部の業界のみで起こっていて、Webの世界はまだまだビジネスにならないと言われていました。
それでも基本的なノウハウで共通する部分はあり個人的にはかなり勉強になり、例えばRDB(Relational Data Base)というモノを初めて知り、触ったのは事務的でしたが、仕事で利用していたRDBは商用でライセンス費も新築戸建が建つような恐ろしい値段を年間単位で払わなければならないので、とてもじゃないけど個人で買って研究できるようなものではありませんでした。
そこで当時は“フリーウェア”(今風に言えばオープンソースソフトウェア)と呼ばれるアプリケーションが沢山出てきて、自分も公私共に業務で楽させてもらったプロジェクトもあったりして、Webの世界でフリーなRDBをどこか作っていたりしないだろうか?自分のホームページの管理を楽にするためのシステムを作ろうか、ん?コンテンツ管理システム(CMS)というものがあるのか?など、英語には不自由しないので海外(特にアメリカ)から情報を仕入れては業後の時間を利用してWeb開発の研究のようなことをしていました。

2002年頃に東京にいた父が視力をどんどん失っていくという原因不明の病で若くして20年務めた東証一部上場の薬品会社を退社し、マンションも売り、両親の出身地でもある山口県にIターンすることになり、出身地とはいえ新天地での隠居生活を視力の乏しい状態で強いられたり、また、父は失明前にPCはそこそこ(といってもメールのみですが)使用していた方だったこともあり、目は見えなくなったけどメールするぞということで、彼の生活支援も兼ねて、また、自分も結婚したり当時の三六協定前の過酷な就業環境で蓄積した疲れを取るために一旦新しい実家に戻ることにしました。
それと、東京で介護していた祖母が最後は“山口で死にたい”と言い出したり、時藤家としてはもう、あれ以外の選択肢はなかったのではないか?というところでした。
山口のハローワークに行けば車で1時間前後であればどこかでシステム開発をやっている会社があるだろうと思っていました。
これでは家族を養えないぞ、ということになり1年程フリーランスで東京の友達などに声をかけてWebの受託開発をやるようになりました。
大阪にはなかったはずのWeb開発の案件が実は東京にはあったのです。

船会社の海務監督→そしてデザイン会社のCTOに

しばらくすると両親の知り合いの伝手で船会社の社長から社内システムに関する”コンサルティング”の依頼をいただくことが増えたりして、そちらの船会社にシステム管理者兼海務監督として正社員で採用していただきました。
世界中を飛び回る“海務監督”というお仕事も長く続くと疲れてくると言いますか、世界中を飛び回っていると改めて“日本って安全で豊かで良い国だな”と思うようになりました。
そして、5:5だったシステム管理者:海務監督業務の割合も1:9くらいになっていました。

システム開発の仕事がしたい。Web開発の会社に行きたい。」

そう思うようにエンジニア採用している企業に山口からエントリーしまくって“居住地が山口ですけどお間違いないですか?”と聞かれながら“内定いただければ転居します!”という感じで月に2回くらいの周期で面接スケジュールを埋めて上京するといったことを1年位続けていました。

その頃にたまたま自分も利用していたGmail for your domain(現:G Suite)のリセラーをしている会社に拾ってもらいました。
今では当たり前かもしれませんが

履歴書はPDFでいいよ
面接はSkypeでいいよ

みたいなところが当時は“先進的だな”と思ったりしたものです。
入社前のテスト?っぽいものをやったり、受託開発のポートフォリオなどを送って程なくして内定をいただき、12年ぶりに東京に戻ってきました。
システム開発に本腰をいれて復帰するのは6年ぶりでした。
G Suiteのリセラーでアドオン提供などもしていたのですが、最初に自分が配属されたのはECサイトの受託開発部門でした。
システム開発の仕事感に慣れていくには良い環境でした。
しかし、年齢もあったのか自分をより営業窓口やマネージャーの位置に置きたいという会社側の要望もあり、1年でG Suiteのアドオンや導入支援などのプロジェクトマネージャーに任命されました。
一応、社内では花形のポジションだったので当時は大変喜んだのですが、開発をさせてもらえなくなりました。
もっと開発をしたいと思いが日々大きくなる反面、どんどんそこから離れていく感じでした。

その後、2014年に前職のイレブンナインに入社し、現場常駐で開発するSESを初めて経験しました。
自分のスキルを正しく表現できず、上手くSES案件を獲得できないといった事もいくつか経験しましたが、1年もすれば自分で案件を獲得できるようになっていました。
皮肉なことに自分が嫌っていたクライアントフェイシング(営業)の経験が活きてしまい、苦労は多かったかもしれませんが、なんとか途切れずに案件を受注できる状態を作ることができました。
短い案件だと半年、長い案件だと3年という現場常駐開発を経ると色んなアーキテクチャや言語・フレームワークの知見が溜まり、技術者としてはそれなりに充実していました。

2017年にイレブンナインのCTOとなり、今度は技術で事業にコミットする役割に任命していただきました。
このような機会はそうそうあることではないので頑張りました。
派遣法改定に伴いSESを続けることができなくなる未来が確定し、自身も含めて所属していたエンジニアたちをSESをから外す必要がでてきました。
受託から事業への事業転換を行う時期が来ていました。
自社の“CO-DESIGN(伴走して一緒に課題解決する)”というスローガンでサービスとしてエンジニアリングを提供してきましたが、今度はそうして溜まった知見を応用したサービスに転換していく必要が出てきました。
気がつけば自分が持っていた“MVPで素早くシステム開発して検証できるエンジニアリング組織を作りたい”というwillをイレブンナインで達成できていました。
そろそろ、新しいことをやりたいと思うようになったのが今年の夏くらいのことでした。

波乱万丈の人生を歩んできた私がハッカズークにJOINした理由

通常は次の職場を決めてから辞意表明をするものだとはわかっていたのですが(笑)、もう新しいことをやりたいし、やると思ったらもうその事しか頭にはなくなっていました。今年の10月頃に代表の渡邊に辞意表明し、そして、11月に入ってから公開の場でも辞意表明をしました。

その時にSNSの共通の友人(とても尊敬しているエンジニアさん)を通じてハッカズークのことを知りました。その方から代表の鈴木氏を紹介していただき、“アルムナイ”という言葉すら知らなかったのですが、会って話を聞いてみてこれは新しいし面白いぞ!って思いました。

前職のイレブンナインではかなり自由に仕事をさせていただき、恐らく初めてポジティブな退職経験をしたのではないか?と自分では思っているのですが、本当はもっと色んな人がこういう経験をしたほうが良いのではないか?そういった世界がこの日本にもっと広まるべきなのではないか?と思うようになりました。残念ながら他の会社ではネガティブな退職経験しかしてこなかったし、むしろそれが当たり前だとさえ思い込んでしまっていました。

それはなぜなのか?と考えたときに“会社は社員を評価・査定するけど、社員が会社を評価することがないからなのでは?”と考えるようになりました。

Official-Alumni.comではアルムナイの匿名性を担保し、会社が望めばアルムナイたちに退職理由を聞くことができるのですが、このような機能をB向けに売るとなったときに一番試されるのは企業になるのではないかと思いました。
企業が初めて株主以外に“評価される側になる”というのは本当はまだなくても良い機能なのかもしれませんが、これから更にもっとスケールしたい!そのために客観的な評価が欲しい!等といったような、一昔前の小泉内閣のときの“痛みを伴う改革”のような荒治療と言ってしまうとネガティブになりかねないですが、企業の成長を促進する“刺激”としてかなり社会的価値があるし新しいし面白いのではないかと思い、ハッカズークにやってきました。

ハッカズークにおける私の使命

現在は“テクニカルディレクター”という役割で働かせていただいています。自分は特にラベル的に役割を捉える方ではありませんが、大きく分けて以下があると思っています。

フィリピンの開発チームと日本のアルムナイ・リレーション・パートナーたちとのブリッジ
技術面においてチーム全体(フィリピンと日本)に安心感を与える
ハッカズークのカルチャーを作る

私のハッカズークでのコミットメント

それは大きく分けて3つあると思っています。

1. 事業としてのコミット
システム開発には明るいのですが、まだまだHR領域における業界的な知識や経験が足りないと感じています。まずはシステムが今こうなっている経緯に至った思想やハッカズークの今の段階での文化を理解する前に理解しておく必要があるなと強く感じていますので、技術だけではなく業界的な理解度を継続的に増やしていきます。“そうしたい”ではなくて“そうしなくてはならない”というレベルで捉えています

2. 文化形成のためのコミット
ハッカズークにいる人の多くは、かつて自身が所属した企業のアルムナイ・リレーション・パートナーとしてかつての職場に出入りし、アルムナイ・コミュニティの活性化のために日夜コミットしてくれています。アルムナイ・リレーション・パートナーたちにもっと安心してコミットしてもらえるように、自分のなし得るあらゆる側面からハッカズークに貢献したいと思っています。

3. 実現したい未来を作りたい
ハッカズークの事業が社会に与えうるインパクトはかなり大きいと思っています。
自身が2児の父として働いていますが、このままでは自分の子ども達に良い未来を残せないのではないか?と不安になることがあります。
毎晩、親が辛辣な表情で会社から帰ってきたら“仕事ってそんなに辛いのか。働きたくないな。”と思われてしまうかもしません。

私のような職能・職能をもつタイプの人材は比較的昔から企業というグルーピングにそれほど影響を受けなくなっていました。
しかし、それは賃金的に満足を得られているように一見思えるかもしれませんが、体調を崩してしまった場合の保証であったり、困った時に誰にも助けてもらえないかもしれないといったような孤独感であったり、やはりまだどこかで不安感は拭えません。

私たちの子どもたちが働き始める頃はおそらく10〜12年後でしょうか。
その頃にはRPA(Robotic Process Automation)が進み、大企業に属している人たちも恐らく❛❛本来フォーカスするべき課題と向き合う❜❜といった目線やそれに則したコミットが求められるようになっていると思いますし、そういった仕事がメインになっているのではないかと思います。そしてそういった仕事をするのは正社員である必要もなくなっているのではないかと思います。

更に私達の孫たちが働き始める頃、恐らく20〜25年後くらいでしょうか。
どこでどんな仕事をした人なのか?という履歴(実績)が発注者・雇用主がアルムナイを認める(レコグナイズ)社会になっているのではないでしょうか。(あえてブロックチェーンのことは言いませんが(笑))
社会人は文字通り“社会(にコミットする)人”となり、ジョブホッピングもカジュアルに行われ、そして古巣へ戻ったりまた出ていったり、その人たちのライフスタイルやライフステージに合わせた柔軟な就業状態が保てている社会になっている。
従来の会社員もそういったワークスタイルとして残ると、なお良いと思います。

つまり未来の人たちにもっと選択肢を残したいのだと思っています。
それは働くことに関することに制限しているわけではなく、人という種のライフスタイルを制限しうるものであれば、何であれそういった制限をできるだけ緩和していき、あらゆる選択肢を与えたい。
“通勤電車が無理”な人は多いと思いますけど、もし、交通機関が重度に発達して通勤電車が苦痛じゃない世界が実現できたら、今までリモートの仕事しかしてこなかった人たちが“それなら出社して正社員やりたい”と思うかもしれません。
内容としては違うかもしれませんが、そういった選択肢を増やすという事が自分の使命であり、実現したい未来だと思っています。

そして、ハッカズークはその可能性を持った事業を持っている人たちと思想の集まりだと思っています。

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