quodという会社が何をやっているのか、一言で表すの少し難しいかもしれません。
端的に説明するなら、「地方でエリア開発や企業の事業企画を行いながら、そのPRまで手掛ける」となるけれど、事業内容は多岐にわたります。東京の大きな企業のPR支援をしているかと思えば、サッカーチーム・松本山雅FCの事業PRを手がけていたり、福岡・糸島や富山では地方都市の新たな価値を開拓するデベロッパー的な役割も果たしています。
現在、6人のコアメンバーを中心に、プロジェクトごとに外部のパートナーを巻き込みながらさまざまな活動を行うquod。
「地方から新しい社会の可能性を広げる仕事をつくりたい」という想いで、ふたりの共同代表飯塚洋史と中川雅俊がquodを2017年に立ち上げました。そして2021年からは、2人自身やコアメンバーが地方に移住し二拠点生活にチャレンジするなど、暮らし方・働き方の面でも新しいステージを迎えています。
飯塚 洋史
東京大学大学院(都市工学専攻)にて、Creative classと都市の関係、third placeについて研究。(株)日本政策投資銀行に勤務した後、quodを中川と共同創業。2018年度は東京大学大学院工学系研究科共同研究員をつとめる。
スポーツチームや新規事業チームのマネージメント経験、ファイナンスの知識を生かし、新規事業企画チームのビルドアップ・マネージメントやエリア開発のプランニングやディレクションを行う。現在は富山と東京の二拠点生活を実践中。
中川 雅俊
2007年より飯塚と共にNPO法人 plususを創設・運営。PR会社(株)マテリアルではIT・航空・レジャー施設・飲料・菓子メーカーなど幅広い分野のマーケティングPRを担当。 コミュニケーション設計からコンテンツ開発、メディアアプローチと実績が豊富で、現場のリアルな感覚から逆算したプランニングが得意。地元福岡の糸島に土地を購入し、何か面白いことができないかと画策中。
2人が考える、quodの現在地と未来を、共同代表2人の対談形式でご紹介します。
偶然の出会い初日、ベッドで夜通し語った未来
── 改めて、共同代表である2人の出会いからお話を聞きたいと思います。quod設立からは4年ですが、もう15年の付き合いになるんですよね。
飯塚 もうそんなになるね(笑)僕たちの出会いは、15年前の福岡・久留米。当時、僕は大学院で「Creative Classと都市との関係」について勉強してたんだよね。Creative Classっていうのは、クリエイターやナレッジワーカーのような自ら価値を創造する仕事をしている人のことなんだけど、そういう人ってどうしても大都市東京に集まってしまうよね。だけどこれからは、彼らのような人が地方の経営者と結びつくことが大事だと思っていて。
中川と出会ったのは、「そんな社会システムデザインができたらな」とビジョンや知識は持っていたけど、自分単体でできることはたかがしれているからチームで動かないとな、と思っていた頃だった。
中川 僕は当時大学生。在学中に地元・久留米の街づくりプロジェクトをひとりで立ち上げて、久留米の学生や大学全体を巻き込んで、NPOとして活動し始めていた頃だった。それまでも「地方活性化」の活動をしてきて、やっとフルに向き合って、ビジネスとしてやっていきたいという気持ちが大きくなっていたんだよね
飯塚 「地方活性化」とか「地方創生」とか、そういった活動をやってきた共通点があってすぐに意気投合して。出会ったその日に、男ふたりで同じベッドで寝たのがいい思い出だよね(笑)。
中川 その前日にたまたま僕が同棲していた彼女と大喧嘩しちゃって、飯塚さんの部屋に泊まらせてもらったんだよね。それで同じベッドに寝て、地方に対して感じてきたことや将来やりたいことを夜通し語った。あの日、彼女との喧嘩がなければ、quodができていなかったかもしれない(笑)
飯塚 たしかにね(笑)若い頃って、「こんなことやりたいです!」ってビッグボイスであれば注目されるし機会も与えてもらえる。だけど、自分たちにもっと実力がないと物事は変えられないなというのが、当時ふたりで確認しあったことだったかな。
「ここから5〜10年はそれぞれのフィールドで技を磨いて、力をつけてからこういうことできれば良いよね」というふんわりとした目標を思い描いた。そんな出会いの夜だったな。
中川 僕らの世代は高度経済成長期の恩恵で、ありがたいことにそんなに苦労はしないで生きてこれた。じゃあ、僕らが果たすべき役割は?と考えると、社会を支えている地方の資本や文化をしっかりと残していくこと。それが僕らのミッションだね、と話した。
それは「お手伝い」「ボランティア」ではなく、「仕事」「ビジネス」として成り立たせないといけないんだけど、当時の僕たちには力が足りなかった。じゃあ自分たちに何が必要?地方に何を持っていけばいい?というのを考えて、まずは東京でお互いの分野でスキルを磨こう、と社会人としてスタートすることにしたんだよね。
それぞれの分野で「チームとして役立つスキルを」
── 出会った当初から想いは共通していたけど、まずは就職をしたんですね。どんなことを意識してスキルを磨いていったんですか?
飯塚 僕は会社でしか経験できないこと、そしてチームになった時に役立つスキルを身につけようという気持ちで、金融の世界に飛び込んだ。
世の中の仕組み的なことにお金や価値をつけてビジネスにしていく「社会システムデザイン」をやりたかった。でも日本政策投資銀行で最初に配属されたのはM&A(企業・事業の合併/買収)。これが個人の力を発揮する業務だったので、実は、今一番役立ってる。
中川 僕はいろんな企業・団体のPRをサポートするPR会社に入って、「一匹狼」でやってきた。PR会社ではチームの一員として専門性を極める道もあるんだけど、あえてそうしなかったのは、将来地方の仕事をするなら、1人で10個の仕事を回さなきゃならないと思っていたから。「地方に行ったら、これくらいできないと通用しないぞ」という気持ちで、がむしゃらにやってたな(笑)。
飯塚 中川は5〜6年前(2015年頃)から独立する準備が整ってたんだけど、僕は全体をデザインできる能力が強みなので、自分たちが会社をやれる、というのがまだイメージできなくて。まずは金融の仕事を続けながら、報酬は頂かずにお手伝いとして、いろんな人にやりたいことをやってみた。その中で「これは価値があるな」と思えるものを、ゆっくり見つけていった。
そこからようやく、大企業ではできないこととか、自分が実現したい事業のためにどう働けば良いのか、どう仕事を選べば良いのかなというのを考えられるようになって、quod立ち上げを現実的に考え始めたんだよね。
中川 でも1年間くらいは、お互いに仕事が忙しすぎてしっかり話したり考えたりする時間が取れなかった。そこで「もう一緒に住もう!」となって、どうせならと思って都心のめちゃくちゃ家賃高いマンションに住んだんだよね(笑)。ほとんど寝るためだけに帰ってたけど。
週末に時間ができると、壁に貼った大きなホワイトボードにいろいろアイデアや構想を書き出して。まだ会社名も決まってないし、事業計画と呼べるほどのものではなかったけど、会社としてのビジョンや事業の立て方を時間をかけて考えた。
飯塚 しばらくはそんな感じだったけど、起業を決意したときのことは今でもよく覚えているな。ある週末の夕方にリビングで、「「中川、決めました。会社辞めます」と宣言したんだよね。その日から本格的に動き出した。
中川 よし、会社を立ち上げようって決めてから、長野の善光寺にふたりで行った。設立にあたって、社名とかビジョンとか、会社のことをいろいろ決めるための合宿。善光寺一帯をリノベーションして、街づくりをしている会社の方に宿を貸してもらって。
街を散歩したり、温泉に入ったりして、ただのんびり過ごして何も決まらないまま時間が過ぎていったけど(笑)でも、あそこがスタート地点だったね。
飯塚 もともと「3年やってこのチームに意味がなかったら解散しよう」と2人で決めて起業した。それを4年続けてこれて、変わったこともたくさんあるし、ずっと変わらないこともあるかな。
5年経って変わらないもの、変わるもの
── 3年をひとつの節目にスタートして、ここまでやってきて。変わったこと、変わらないことを振り返りながら、quodの現在地を教えてください。
中川 僕らが出会った15年前、quodを創業した4年前、そして昨年からのコロナ禍が続く今。社会状況は大きく変わっているけど、quodのベースになっているビジョンは変わらないかな。
飯塚 地方に眠る日本の価値を掘り起こしたい、という思いは全く変わってないし、ボランティアではなく持続可能なビジネスにして地方が自立する循環を作りたいということも。むしろ「ここなら自分たちが役立てるな」という解像度が上がってきてる。
「個として立つ」「チームとして力を発揮する」ということは考えていたとおりに実現してきたし、それを両立させるギルド的な構想も、quodにジョインしてくれた個性豊かなメンバーたちのおかげですごくうまくいっているのかなと。
変わったことで言うと、「地方」でビジネスを作れるようになるまでの計画かな。当初はquodメンバーが個々人で稼ぎつつ、事業を作るところに投資していこう、というマインドだったけど、事業ってそんなに簡単なことじゃない。
設立1年目に、2000万円出資した地方プロジェクトがあった。建設会社が農業をやりたいというアイデアを形にして、うまく大学の共同研究につなげたり、メディアに取り上げてもらって...…とやっていたけれど、その事業自体はうまくいかなかった。
中川 でも目指すモデルとしては悪くなかったかなって。僕らの実力不足もあったし、やるならもっと内部まで踏み込んでやらなきゃいけないんだなって学んだよね。2000万円かけた価値はあったし、良いチャレンジだったと思ってる。
飯塚 外からいろんなアプローチをしても、なかなかうまくいかなかった。会社の中に入るだけでなく、その地域で過ごす時間を取って、一緒に考える時間を増やさないとやっていけないというのを痛感した。だからこそこの数年は、まずはquodのビジネスを確立させる、というフェーズでやってきた。
ここ数年でquodのビジネスを確立させることができてきたから、ここから僕らが考えるのは、「これからどうする?」ということ。ただこの4年間の積み重ねで、「こうやったらうまくやれるかも」という仮説はできてきたので、中川の「ここなら自分たちが役立てるな」という嗅覚と組み合わせて、ようやく具体的な事業に落とし込むフェーズになったかな、と。
中川 quod全体のビジネスとしては、とてもうまく回せている。これまでの4年間にやってきた経験値で、「ここは役立てる」「ここは無理だ」というのが明確になってきたよね。「その先のチャレンジ」を今やっと見据えられるようになってきたと思う。
もともと目指していた「地方の在り方」に対して、このチームではどんなことができるのか?がよく見えてきたから、今後は、さらにパワーをかけて突っ込んでいこうという、というタイミングです。
(後編に続く)