トップセールスが語る、ツクリンクが建設業界に必要な理由 [ 営業・村上 ](後編) | 株式会社ハンズシェア
インタビュー前編では、村上さんがハンズシェア、そして内山代表に出会うまでのお話を伺いました。https://www.wantedly.com/companies/handsshare/post_...
https://www.wantedly.com/companies/handsshare/post_articles/146900
子供の頃、新築で実家を建てる時のワクワクがきっかけで、建築の仕事をしたいと考えた村上さん。
けれど、新卒で入社したハウスメーカーは想像以上に過酷な環境で、体調を崩し退職に至ります。
自分が、本当にやりたいことは何か?
改めてそれを見つめ直し、少しずつ、求めるものに近づきながら、村上さんはハンズシェアに辿り着かれました。
営業として“ツクリンクの顔”となる彼は、徐々に、どうしたらツクリンクを買ってもらえるか、に気づき始めたと語ります。
彼が思う、ツクリンクが建設業界に必要な理由とは。
激動の人生譚と共に、前編/後編の2部構成でお届けします。
-お仕事について教えてください。
ハンズシェアで、ツクリンクの営業をしている村上です。
営業部の立ち上げとして、今年の4月に入社しました。
- もともとはどういうご経歴で入社を?
話すとすごく長いんですよ(笑)
建設業には以前から興味を抱いていたのですが、ハンズシェアに入社するのは結構後の話なんです。
- では、まず村上さんのご経歴から伺わせてください。
-いつ頃から建設業界を意識されていたのでしょうか。
僕は、大学で建築学科を出ていまして。建築家になりたかったんです。
でも、いざ入学してみると、図面を描くことが好きだというよりも、みんなで協力して何かを作り上げていくことが好きだと気づきました。
なので、新卒ではハウスメーカーに入社したんですね。
- 学生時代から不動産・建設系だったのですね。
はい。ここで、全国で一番売り上げが大きかった千葉支店に配属。
僕の上司がトップセールスの人でした。
僕自身は、大学卒業したてで、茶髪で、若者気質が抜けてないやつで。
まぁ、怒られましたよね…毎日のように、悔しくて泣いていました(笑)
厳しい職場環境で、深夜勤務、休日出勤…運転中に居眠りをして、事故を起こしたことも。
でも、社会とはそういうものなんだと思っていました(笑)
一番辛かったのは、そこではなくて。
内勤だと、作業ベースでお給料が出ますよね。
でも、営業というのは売上を立てなければ無価値なのだ、と毎日刷り込まれました。
お前は何をしているのだ、給料泥棒といった言われ方もして…今月の目標を達成しても、来月の数字が不安で休みも取れない。
「売れない営業と口を聞くな、うつる」ということも言われ、同期との連絡も禁じられて。
そんな状態でしたが、やがて、その上司の異動が決まりまして…
初めてその鬼上司と2人きりで飲みに行って、上司の想いを聞いて、そこでもまた泣きました(笑)
今となっては、自信過剰でクソ生意気な僕に社会人としての基礎を叩き込んで矯正してくれた上司には感謝しかありませんが、当時は毎日が必死でした。
そして上司が異動となり、同期と自由に連絡を取れるように。
他支店の同期と1年以上ぶりに話をしてみて驚いたのが、なんと、みんなせいぜい1~2時間残業で、普通に週2日の休みをとっていたんですよ!!僕と同じ環境の子はいなかった。
そこで疑問を持つわけです、「あれ、僕の今までって…」と(苦笑)
- なかなかハードな環境だったのですね。他の世界と触れて、改めて価値観を見直したと。
そうですね。
この時、環境に対しても疑問を持つキッカケになったのですが、僕は、それまで何も考えずにガムシャラに売上を追ってきた自分の今後の人生にすら疑問というか、嫌気がさしてしまったんですね。
それが悪化して、鬱病になり、家から出られなくなってしまった。
「人はなぜ生きるのか、なぜ働くのか…」ということを、ずっと、ぐるぐる、考えていました。
じゃあ、僕は、何がしたいのだろう。
- 大変な経験が逆に、本当にやりたいことを見つめるきっかけになった。
今思うとそうなのかもしれませんね。
ここで僕は、建築の仕事を志した理由を思い出したんです。
子供の頃、親が家を建てた時のワクワク感。カーテンや壁紙を選ぶ時のドキドキ。
きっと、数字を追いかけるより、最後にお客さんがどんな顔をするかまで、見たいのだと。
なので、2社目はもっとトータルで関われそうなインテリアの設計・施工会社に転職しました。
ハンズシェアは、まだ結構、後の話なんですよ(笑)
2社目は、1社目と比べると小規模の会社で、なんでもやらせてもらえました。
一方で、1社目が大企業だったこともあり、どうも、いろんな仕事が中途半端に見えてしまって。
1社目で感じていた不満は解消されているはずなのに、まだモヤモヤしている。これはもう、自分でやるしかないんじゃないかと、独立を視野に入れ始めました。
そして、ここで、リーマンショックがくるのです。
- 退職ラッシュが始まったのですね。
そうです。リストラもあり、仲間がどんどん辞めていった。
残った人に相談をするも、価値観が合わなくて、もう残る意味を感じなくなって。
個人事業主として独立をしたのです。
でも、今度はここで、2011年の東北大震災が襲ってきたんです。
個人事業主になったことで収入が不安定になり、収入の不安からネットワークビジネスを始めたりして(笑)、友達もだいぶ離れていき、当時の恋人ともうまくいかなくなった矢先でもあった。
僕は、死ぬ決意までして、やりたいことをやってしまおうと思い、海外に行ったんです。
タイに行ったんですが、ここで今度は、詐欺にあう(笑)
まぁ、ヤケで丸坊主にして、でっかいバックパック背負って、“地球の歩き方”を開いてキョロキョロして…完全にカモですからね。
もう、お金ってなんだろうって、また人生ってなんだろうってところに戻りました(笑)
そして、最初は新鮮に思えた海外にも、1ヶ月もいれば徐々に慣れ始める。どこにいても人はある程度変わらず、生活としてサイクルも変わらない。なんだか虚しくなって日本に帰ることにしました。
- なんだか激動の人生を送られていますね。
言われてみると、そうかも(笑)。
とにかく、お金がない。やりたいこともわからない。
それでも、僕は何か大きいことを成したかったんですよね。なぜか?
僕は、途中まで、いわゆる“いいレール”に乗っていたんです。
上位の学校、大手企業への就職。
それが崩れた。
だから、“いいレールに乗り続けた自分”というベンチマークがずっと残っていた。
これを超えてやらないと、自分を、きっと、信じてあげられない。
- 帰国後のお仕事はどうされたのでしょうか。
海外で撮り溜めた写真をポストカードにして販売したり、押し屋と言われる満員電車の乗客整理のアルバイトやビラ配りなどをして食いつなぎながら、フルコミッション(完全歩合制)の求人広告の仕事をやり始めました。なんとか逆転しなければと、どんどんアウトローに(笑)
当初は稼ぎたい一心でしたが、段々と媒体やお客さんに愛着も湧いてきて、自分の収入しか考えていなかったトゲトゲしい奴だったのが、顧客満足や会社の人たちのことを多少は考えられるようになり、気づけば7年ぐらい続け、最後は営業部長までやらせて頂きました。
その後、単一の媒体だけで、顧客ニーズを満たし営業をやりきるということに限界を感じ、“いつかは社長に”という夢もあったので、株式会社を設立しました。そして、キャリアコンサルタント国家資格を取得するなどをし、様々な角度から採用・定着支援に取り組みました。しかし、それでもリーチできる範囲の限界のようなものを感じ始めていたところでした。
そんな中、5年ほど前に国土交通省の知人を通じて知り合った建設業組合の会長さんから、「大阪に来る気ないか?一緒に建設業界の根本を変えよう」というお声がけを頂いて。
念願の、“大きなこと”、でした。僕はこれを、チャンスだと思った。
この方に連れて行かれた会食で出会ったのが、(社長の)内山だったんです。
- ここでやっとハンズシェアの話に(笑)
だいぶ長い人生譚ですね(笑)
彼は僕がやっていた媒体を知っていて、別日で飲みに行くことになりました。
その頃、建設業組合の会長さんから誘われていた大阪行きのお話がなくなってしまったこともあり、それならば一緒にガッツリやろうよという話になったんです。
せっかく作った自分の会社を大きくしていきたいという気持ちはありながらも、自分の力で影響を与えていける範囲の限界を感じつつあったタイミングでもあり、当時、有難いことに引き抜きのお話もたくさん頂いていたんですね。お金など様々な打算条件がある中で、内山とは、お互いの最適解を探していくという対話が続きました。
対話を繰り返す中で、自分自身のこれまでの経験が生かせて、自分がこのまま会社をやっていくよりも、より多くの人たちを幸せにできると、悔しいですが確信しました。
この時のハンズシェアの課題は、顧客ニーズを探り、より良いサービスをつくり売上を立てていく、営業強化ということだったので、僕はここで自分の力を使わせて頂こうと決めたのです。
以前は、絶対に社員になんか戻るものか、という意地があったのですが、内山との出会いの中で、そんなくだらないプライドはなくなっていました。
- 内山さんのビジョンへの共感、が入社に至るきっかけだったのですね。
後編ではハンズシェア入社後の話、建設業にツクリンクが必要な理由、一緒に働きたい人などのお話を伺います。