モノサスでは自分たちのWebサイトにスタッフが交代でコラムを書いています。
今回はその中から、タイで働くメンバー・町山を紹介した記事をご紹介します。
こんにちは。モノサスタイランドのマネージャー、宮川です。
先月、6月のMVP受賞を紹介する記事で褒めちぎったばかりの、モノサスタイランド所属、町山百合香。入社=海外移住だった彼女だが、初の海外生活スタート以来、気づけば2年半が経とうとしている。
私は町山の採用を担当し、過去にはサポート役として最も長い期間、彼女と接してきた。仕事終わりに飲みに行く機会も多かったため、タイに来てからの町山のことは社内で一番よく知っている。
今でこそタイにも慣れ、仕事ぶりの評価も高い町山も、採用当時は26歳で Web 業界未経験。海外旅行も過去一度きりで、東南アジアへは行ったこともなく、一人暮らしも初体験。普通に考えれば、今の環境に最も遠い存在だったろう。なのに、だからこそ入社を望んだという。
今回はそんな町山の、普段の働きぶりの根底にある価値観について、探ってみたい。
タイ行きを決意するまで
町山とのタイでのファーストコンタクトは、アパート探しのためのバンコク到着直後のスワンナプーム空港だった。眠そうな表情で現れた町山を到着ロビーで迎えた私が、スーツケースを持ってあげようと荷物の方へ「ようこそ」と手を差し出すと、町山は何故かとっさに拳を当ててきた(!)。
まさかのグータッチ(原監督のやつ)と勘違いされたことに気づき、対面早々和んだのだが、そのノリさえあれば、初の海外生活でも充分やっていけると確信した瞬間だった。
友人の手も借りながら、HTMLにチャレンジしてみました。
採用当時、町山から届いた応募メールにはWebページへのリンクが貼られていた。44名の応募者の中で、自ら HTML / CSS で自己紹介ページを作ってきたのは町山ただ一人。
言われるから取り組んだり、教えられるのを待つのではなく、当事者として主体的に物事を実践する姿勢が、このページがあったことで感じ取れた。
町山は東京で生まれ育ち、高校は優秀な進学校へ進み、大学は女子アナを輩出するようなマスコミ系の学科に入った。本人はサブカル系なキャラのため、大学では周囲の女子とのギャップに苦しんだそうだ。その後、どうせなら好きなことをやろうと、建築の空間デザインを学ぶ専門学校へ進む。そして、お洒落な建物が好きだったこともあり、日本の働く空間をより良くしたいと、オフィス向けの不動産営業となった。
不動産の仕事に楽しみもあったが、20代も後半に差し掛かり、日々の成長の実感や、何かを成し遂げていない感覚に物足りなさを感じ始めた町山。また、東日本大震災以後は東京で暮らし続けることへの不安も感じていたらしい。移住先と、暮らす場所にとらわれないための新たな仕事を探すうち、モノサスのタイ行きの採用記事と出会った。
「その発想はなかった」と、タイ行きの転職を志望した理由は「これまで行きたいと思ったことがなかったから」だという。
新たな生き方を模索しつつも、ふと、見たいものしか見ずに価値観を狭めていた自分に気づいたのだそうだ。「生き方の幅を拡げたい。月並みな人生はつまらない。見知らぬ土地へ行けば、これまでにないものの見方や発想が得られるのではないか」。
頭の中の検索窓に、おそらく自分では一生打つことのなかった「タイ」というキーワードに心惹かれ、町山は転職を決意するのだった。
入社当時の町山。まだ初々しい。
町山百合香の仕事ぶり
町山は入社以来、病欠なしの皆勤賞を続けている。未経験からのスタートで、研修が終わり案件デビュー以降、私のメール添削は8ヶ月間続いたが、スパルタな指導にもめげることなく、気がつけばいつの間にか一人前を通り越してエースになっていた印象がある。
クライアントや社内のコーダーからの信頼も厚い。クライアントからの要望を分かりやすく整理し、コーダーに丁寧に説明する。疑問点をくまなく洗い出し、分かるまで調べ、納得できるところまで確認する。本当に出来るのか、本当に出来ないのか、自ら検証し、安易に結論を出さない。次々と降りかかる課題に対しても、その多くは自分で調べることで解決し、プロジェクトを成功に導いてきた。
ジェスチャーも交えながら英語とタイ語を駆使してコーダーに説明する町山
普段のキャラクターからは自由奔放なイメージがある町山だが、意外にも小学生のときには生徒会長を務めていたりする。中学ではバスケ部部長、高校は応援団の副団長と、リーダーシップを発揮してきた過去がいくつもあった。
本人曰く、確かに奔放なところもあるようで、あまり制約は受けたくないらしい。リーダーシップは、とる人がいればとりたくはない。出来れば二番手の副〇〇ぐらいの立場が良く、トップに立ちたくはない。ただ、求められると引き受けてしまうし、期待には応えたくなってしまう性分らしい。
2年前の案件デビュー以来、誰よりも遅くまで働き、最大限に貢献し続けてくれている町山。さすがに体調が心配になることは何度もあった。それでも、ディレクター不足や、町山がやり遂げてくれるおかげで、案件は町山に集まってしまう。
その責任感ゆえに、キャパオーバーの業務量を引き寄せてしまう部分もあるが、引き受けたからには全力でやり遂げる頼もしさがあり、それがまた更なる業務を引き寄せる…。
そんな町山からは、体力的にきついこと以外にネガティブな発言を聞いたことがない。ストイックに仕事と向き合う姿勢は、一体どこで身についたのか。
町山百合香の原点
町山から面接時に聞いた話題の中に、私が最も印象に残った、小学生の頃の恩師の話があった。5,6年の担任の先生で、とても厳しかったけれど「その人からいろいろと学んだことで今の価値観がある」という話をしてくれた。直接的に正解を教えるのではなく、生徒に「自ら気付かせ、考えて行動させる」のがとても上手かったそうだ。
例えば算数のテストの満点は100点ではなく、答えを出すまでの工夫を回答に書くと加点される方式。国語の音読の時間は「噛まない限り読み続けていい」というルールで、皆がゲーム感覚で率先して手を挙げるような仕組みがあった。
また、教科書に書いてある内容や、世間で常識だと言われていることも、鵜呑みにせず、自ら調べたり分析するまでは分かった気になるなという姿勢を、課外授業での調査の体験から自然と学んだという。
中でも町山の心に一番強く残っている出来事は、6年生の夏休みの自由研究課題。
先生から「化石採集についてレポートを書いたら、化石を採りに連れて行ってあげる」というお達しがあった。やるもやらぬも自由。ただ行きたい人だけがやればいい。町山はすぐに、絶対にやる…!と心の中で思った。
しかし実際に取り掛かってみると、まずレポートとはなんぞや?と、小学生にとっては思っていたよりハードルが高かったようで、諦めそうにもなった。しかし「やる/やらない」の自由が与えられている中で、やらなきゃいけないからではなく、自らの意思でやり遂げることに意味を感じた町山。諦めるのは簡単だけれど、「この体験は絶対に身になる」と直感的に思ったらしい。
結果的にほとんどの生徒はレポートを書かなかったが、諦めずにがんばって書き上げた町山は、約束通り念願の化石採集に連れて行ってもらえた。
この経験から町山は、「道が拓けるのは、やった人だけなんだ」ということ、「やるもやらないも自分次第でしかない」ということを学んだ。「習うより慣れろ」「とりあえずやってみる精神」が、そこで身についたらしい。
「あのレポートを書いてなかったら、今の町山はないんじゃないですかね」と今でも自分自身で振り返る通り、彼女の物事への取り組み方の原点になっていると言える。
細かいことは気にしない
そんな町山も、仕事以外のことになると割とざっくりで抜けている部分がある。
「イカ墨」と「唐墨」は同じものだと思っていたり(これは知識の問題か)、近所に出来た「サマー・ヒル」というショッピングモールのことは、いつまで経っても「サニー・ヒルズ」と言い間違える。映画のタイトルや芸能人の名前なども、一発で正しく言えたことの方が少ない。もっと赤っ恥な言い間違いがあったはずなのに思い出せないのが悔しいが、彼女と話していると、突っ込みどころが満載で周囲は大いに和むだろう。
水かけ祭りで有名な4月の旧正月(ソンクラン)前日の一枚。名物のディンソーポーンという白い粉を顔に塗られる町山。
充実したタイ生活への課題
根が真面目で業務については心配性な町山は、飲みに行った際の話題も仕事の話が8割くらいで、オフィスを離れても責任感の強い性格は抜けない。
ただ、職場とは違い、立場を越えて同じ目線でざっくばらんに何でも話せる時間が、貴重だったりもする。そんな時間があるからこそ、弱音は吐きながらも励まし合い、お互いの考えを共有することで、これまで何とかやってこれているのではないかと思う。
平日の仕事が忙しすぎると、週末は好きな漫画とアニメと読書に浸るため家にこもるらしいが、本来は休日も町山は活動的だ。面白そうなイベントを見つけると、目を輝かせて出かけていく。外国人の友だちも積極的に作ろうとしていて、英語があまり話せないからこそ、話すために交流を持つようにしている。タイの生活環境にも自然と適応し、多様な価値観を受け入れられる町山は、どんな人種の人達とも上手くやれるだろう。
以前は英会話レッスンも、ダンスレッスンにも通っていた筈だが、やはりなかなか毎日が忙しすぎて全てをオフる週末になりがちだと嘆かれると、マネージャーとしては心苦しい。
毎晩遅くまでがんばってくれている姿に感謝しつつも、町山のアフター6と週末を充実したものにしなければと、頭を抱える日々はまだ続きそうだ。
(2018/7/30 ものさすサイトに掲載)