吉田 昌弘(Yoshida Masahiro)
教育事業部/加美町team
1997年1月21日生まれ。宮城県出身、両親が転勤族だったため、愛知県名古屋市→石川県金沢市→静岡県静岡市と転々としながら高校生までを過ごす。商業科の教員になるため、千葉県にある千葉商科大学へ進学、卒業後目標としていた商業科の教員として千葉県で採用される。4年間の教員生活の中で担任として生徒の卒業までの伴走、部活動顧問として日々の活動に従事した。その後、2024年4月にFoundingBaseに入社。現在は宮城県加美町にて高校の魅力化コーディネーター業務に従事
「出身はどこ?」に答えられない
初対面の人と話をする時に大抵話をするであろう「出身はどこ?」という質問に今でもすぱっと答えられません。幼少期(生まれたのは宮城県)は愛知県名古屋市で過ごし、小学4年時に転校し、小学校の卒業までは石川県金沢市に住んでいました。その後、中学校に入学と同時に静岡県静岡市に転校、高校卒業までの6年間、青春時代は静岡県で過ごしました。小学校の時に思ったのは「新しい友だちが増える!!」くらいの認識でしたが、思春期になるにつれ新しい環境で孤立したくない、自分の気持ちよりも周囲を優先することで誰にでも好かれたい。どうにか自分の居場所を確保したい、そんな思いが強くなっていきました。
「うまくいかないのは全部親のせい」
心のどこかに孤立感があり、常に人の目を気にして生活をしていました。なかなか自分の素を出せない。というより、隠すのに慣れてしまいました。そんな経験から段々と中学校、高校と休みがちになり、学校に行く意味を見出せませんでした。勉強は好きではなかったし、一人っ子という事も相まって家でゲームをしている時間の方が居心地が良かったです。ただ、ゲームをしている時は楽しくてもふと我に返った時に感じる焦燥感、「明日は学校にいかなくちゃいけない」、勉強にもどんどん遅れていって、友達の話題にも付いていくことができない。「どうしてこうなってしまったのか」、「自分の何が悪かったのか」、未熟だった自分には整理をつけることが出来ず、最終的に落ち着いたのは「うまくいかないのは親のせい」と外部の要因に理由を見つけるようになりました。確かに一つの要因ではあったかもしれないけれど、その事を嘆いた所で眼の前の問題は解決はしない。それもわかっていたけれど、そう考えることでしか、逃げ道がない、納得のできない自分がいました。
「やっぱり不安はつきまとう」
高校時代から早く自立して、自分の力で生きていきたいと思っていました。当初は卒業後、就職を希望していましたが、両親にその話をした際に「本当にそれでいいのか、金銭的な面は気にしなくて良い」と言われ、ふと立ち止まって自分の「やりたいこと」について考えました。本当にやりたいことは何なのかと問われ、ぱっと出てきたのは「教師」でした。恩師がいる、すごく良くしてくれた先生が居たわけではないのですが、何かを教えることが好きだったこと、漠然としたイメージから教師という言葉がでました。そして両親はそれを応援してくれました。金銭的には苦しかったので、奨学金を利用しましたが教員(高校商業科)になるために千葉県にある千葉商科大学に入学します。一人暮らし、アルバイト、遊び等よく居る大学生を過ごして来ましたが、3年次に漠然とした不安を感じます。果たして、このまま教員になっていいのだろうか、ろくに社会人経験を積んだこともない人間が教壇に立てるのか?そんな疑問を抱えると同時に、これまで人に頼られ、人が欲しがりそうな言葉を掛け、自分の居場所を確保するために色々な事をしてきたけれど、本来の自分ってなんなんだ?軸ってあるのか?周りの人達は就活をして、順風満帆そうに見えるけど、本当にそうなのか?という疑問も持つようになりました。結果として大学を1年休学する選択をし、悩む時間を増やす事になりました。
「人に恵まれた」
休学中、日本に居るだけではもったいないと考えていた所、ふとした縁で大学の職員さんから「海外ワークキャンプボランティア」というものを知りました。せっかく海外に行くのであれば、ただの旅行で終わらせるのはもったいない。そう考えた自分にはピッタリのプログラムでした。早速、主催している団体に連絡を取り、説明会に参加、その年に行われた「モンゴルキャンプ」に参加しました。ボランティアというと奉仕作業というイメージが強く、過酷なイメージがありました。環境の変化や文化の違いで苦労する面もありましたが、そこまで大変な印象はありませんでした。それ以上に一緒に参加したメンバーとの関わりが強く、年齢、身分を超えて知らない土地で一緒の活動を行う。同じご飯を食べ、夜には満点の星空で語り合う、そのような経験の中で、人に合わせて生きてきた自分の素の部分が垣間見え、本来の自分を受け入れることができるようになりました。ここでの出会い、経験がその後の考え方、行動の指針に今でもなっていると思います。たまたま海外ワークキャンプボランティアの存在を知り、参加し、偶然集まった参加者から色んな想いや経験を聞く中で、自分自身の軸を定まってはいないけれど、方向性を知ることができた。そもそも大学に行ったのは両親の一言があったからで、その経緯をふと振り返った時、「自分は本当に人に恵まれていたんだ」そう感じるようになりました。
「しんどい学校」
その後、念願だった教員として千葉県に採用されました。元々、学校現場はしんどいものという認識があったので長時間労働等には驚きませんでした。一番しんどかったのはその環境です。先生によって異なる教育観、教育に対する熱意、自分ひとりではどうする事も出来ない環境に虚しさを感じました。もちろん、熱意のある先生、このままではいけないと思っている先生もたくさんいらっしゃいます。ただ、そんな先生こそ仕事がたくさんあって忙しい。アイデアや思いがあってもそれを形にする時間と気力がない。そんな現状を目の当たりにし、学校現場は逼迫していて現状維持が精一杯。教員の数は減っているが、対応が難しい子ども、教えなくてはいけない内容、実施しなくてはいけない行事等、もう先生方だけで全ての業務を行うのには限界がある。そう感じるようになりました。メディアでも取り上げられているようにこれからは学校と民間が協力していく時代だ、そう思った時、確かに一部の学校ではそういった事例が取り上げられている。だけど、全ての学校がそういった形になるのはいつなのだろう?外部が変わってくれるまで自分はどれだけ待てば良いのだろう、本当に変わるのか?疑問に思いました。ただただ待っていても誰も変えてくれない。であれば自分で変えるしかない。年齢的にもまだ動ける、クラス担任として卒業生を出すタイミング、変えるきっかけは揃っていました。
「変えるには自分が変わる」
そんな想いで転職活動していく中、受験対策がしたいわけではない、校種を変えて教壇に立ちたいわけではないとうことに気付きました。自分自身がプレイヤーとしてクラスの生徒一人一人と向き合うのも好きだけれど、理想は「先生方全員が生徒や授業に費やす時間が増え、しんどいから→ハッピーな状態で教壇に立つことだ」そう考えました。学校の外で関わりを持つのではなく、学校の先生方と近い距離で、共に創り上げていくような仕事はないのだろうか、探していく中で、一番自分の描いているものに近いのがFoundingBaseでした。このタイミングで知ったのも何かの縁、今は「ここしかない」そう思って飛び込みました。
「自分の可能性に向かって、挑戦を愉しむ人」
「仕事って辛いですか?」以前、子ども達に聞かれたことがあります。その時は業務的にも気持ち的にもギリギリな状態で、言葉では「辛いことだけではないよ」と言っていましたが実際はそうでもなかったと思います。大人になった時、24時間のうち8時間は仕事をするわけで、それが辛くて苦しい8時間よりも、やりがいがあって自分の成長を実感できる8時間の方が絶対に愉しいです。せっかく一歩踏み出して民間企業に転職したのだから、子ども達に胸を張って「愉しいよ」と言えて、愉しさを体現しているような人間になりたいです。そういう想いで今を頑張っています。