実家を全員敵に回してでも、孤独に戦った創業期
インターン時代に安易に営業で1番になったからとの理由だけで「起業する」と決めてしまって私の社会人生活は始まりました!
元々魚のBtoB向けのECサイトを運営していた企業でインターンをしてたので、私が一番最初に立ち上げようと思ったのは精肉卸売をやっていた実家の肉を販売するための肉のBtoC向けのECサイトです。ただフーディソン時代はすでに作られたサイトがあって、そこにはたくさんの社員の方々がいて、エンジニアもいて、デザイナーもいました。
ただ当たり前ですが、自分で起業したら誰もいません。サイトを製作するために実家に帰ったのですが、目の前にあったのは、実家のお肉、パソコン、大学のビジコンの景品でもらった一眼レフカメラのみです。
もちろん肉とパソコンとカメラがあればECサイトは製作することはできますが、肝心のそれを製作するためのスキルがありません。
でも大学卒業してすぐ実家に帰ったので、収入もなければ社会人1年目なので大して貯金があるわけではありません。ただこのなけなしの貯金をもって、まず最初は大学時代からお世話になっていたサイト製作会社の社長のところに行って、この貯金で作ってもらえないかと相談しましたが、当然断られました。ただそこの社長さんは私にあるアドバイスをくれます。
「若いんだから自分で作ってみたらいいよ」と
自分でつくる!?いくら学生時代にデータを抜き出すためにSQLというプログラミングを学んではいましたが、ECサイト製作を学んでいたわけではありません。当然カメラも持ってはいますがいつか転売しようかと思っていたので、使ったこともなければ、デザインツールも触ったことがありません。
本当にできるのだろうか?と思いましたが、ただ待ってても仕方がないので、すぐに本屋でECサイト製作の本を買ってサイトを製作することにしました。
そしてサイト製作と並行して肝心の商品づくりも必要でした。商品づくりといっても、すでに最初からある実家の製品を売ればいいやと安易に考えていましたが、実家の商品は量り売りで販売していたため、通販用の資材もなければ、商品のパッケージもない状態でした。
そして同じ実家で売ってる味噌ダレホルモンの商品を真空機械で真空したらタレが吹き出てしまって、結局は自分で調味料の配分も調整することになりました。材料はありますが、サイト製作に並行して初めての商品づくりも始まりました。
実家の部屋に一人でこもって、朝は商品を作って、昼はカメラで撮影をして、夜はサイトを製作するというルーティンを繰り返しました。同じような生活を毎日のように繰り返していました。
ちなみに起業してから一番この時期が辛かったです。もちろん全て一人でやらないといけないというのも辛いのですが、最も辛かったのはこの時期、誰も味方がいなかったことです。
ただ一人でやっていたら「孤独だな。」で済んだ話ですが、私はあくまでも実家に帰ってやっていたため、実家の社員さんは誰も私のことをよく思っていないという状態でした。
それは当たり前です。実家に帰ったので、実家を継いだと思うかもしれませんが、私は実家を継いでません。自分で会社を立ち上げるといって、実家の自分の部屋で実家の仕事も手伝わず、一人でサイトを作っていたからです。
実家も創業60年続く精肉会社です。そして私は長男です。当然、実家の古くからいる社員さんは長男が継ぐと誰もが思っていましたが、継がないので「社長の息子は大学まで出て何をやっているんだ」といつも影で言われているという状況です。さらには地方の中小企業なのでECサイトなんてやって本当に上手くいくのか?と常に疑問を思われてもいました。
父、母、弟も私の件で「おたくの息子は何をやってるんだ」と言われていたと思います。それを考えると申し訳なくて申し訳なくて、実家に大変居づらい状況でした。
周りの大学の同級生は新卒で入って入社式やガイダンスをやってるタイミングです。ただ私に関しては実家の部屋に一人引きこもってサイト製作をするという、周りから見たらニートみたいな社会不適合者です。周りの目がとにかく辛くて、毎朝起きて人と会うのが本当にしんどかったです。
創業してから大変なことがたくさんありましたが、この時代が長期的に最も病んでいた時代ではないかと思います。
味噌とアヒージョの親子喧嘩で家出を覚悟!?
ただそうはいっても前に進まないといけないので、サイト製作や商品づくりを続けました。そして3ヶ月くらいかけて人生で初めてサイトをつくることができました。
サイトといっても自社サイトでは作っても売れないと思ったので、60万を払って楽天市場に出店した形で、ホルモン専門のサイトをオープンすることができました。
ただそんな甘いもんじゃないです。予想はしていましたが、サイトを作ったからといって売れるわけではありません。初めてサイトをオープンした月は友達20人と新規オープンキャンペーンで10セットの30セットしか売れませんでした。売り上げで言えば5万円です。当然5万円では生活をすることもできなければ、広告費を払うこともできません。当たり前ですが、起業したからといってすぐに上手くいくわけではないなと痛感しました。
ただ当時の私は考えが安易で、味噌のホルモンは世の中にいっぱいあるから売れるわけがないんだと思って、母がアヒージョをよく家で作るのですが、そのアヒージョにホルモンを入れて食べたら美味しかったので、「ホルモンでアヒージョ」を作ってみたらどうかと考えました。
ただこのアヒージョがきっかけでまさか私は実家を出ることになるとはこの時思ってもいませんでした。
母もアヒージョを入れたホルモンが美味しいと言っていたので、私の商品開発に協力してくれました。
ただある日事件は起きました、、、
それはいつものように母と一緒に夕食後に商品開発をしている時です。突然父が帰ってきました。父は私たちがアヒージョを作っているのをみて、「お前ホルモンでアヒージョでも作る気か?」とどこか怒り口調で伝えてきました。
「味噌は売れなかったからアヒージョを作る!」と父に伝えたら、父はその瞬間、とんでもない勢いで私に「そんなの絶対に許さない!何がアヒージョだ!うちは味噌が看板なんだ」「通販をやるのはいいが、味噌しか認めない」と怒鳴りつけてきました。
もう私はパニックでした!?「味噌しか認めん!」って一体どういうことやねんと!ただ父は怒りが収まらず「アヒージョなんか作るなら、夏目家の恥だから家を出てけ!」と言ってきます。
もう私は頭の中が真っ白です。「ホルモンで、アヒージョ作るなら家を出てけ!」だと???
理解が不能でした。ただ冷静に「〇〇だからアヒージョじゃないとダメなんだ」と伝えたら、今でも覚えているのですが、食卓の椅子をものすごい勢いで父が蹴飛ばして、椅子が私に降ってきました!まるで写真にある昭和のちゃぶ台返しのような展開です。
問題は味噌かアヒージョかということだけなのに、、、
ただここまでくると私の沸点も上がります!そして父と私の大喧嘩になり、私は前から思っていたのですが、父と一緒にはできない、本気で家出するしかないと思って、洗濯カゴに服を大量に詰め込んで喧嘩から20分後には家出を決意しました。
父と私がものすごい勢いで討論してるので、母もパニックになっていたかもしれません。ただ私が「本気で家出をする!父とは分かり合えない」と言い放つと、母は私に自分の車の鍵を渡して、父にバレないように裏口の扉を開けて「ここから出てきなさい」と言って私の家出を見送ってくれました。ドラマのような展開ですが、紛れもない実話です。
近くにいたらまた戻ってこいと言われると思って、味噌アヒージョ論争のわずか20分後には。大学時代を過ごした300km離れた金沢の地に母の車で向かっていました。
結果的に、味噌とアヒージョをきっかけに私は社会人になって初めて本気で家出をしたのです。
本田圭佑さんにホルモンを食べてもらったら何かが変わると信じて、運命を掴んだ学長室
アヒージョの商品を作るのとサイトのデザインもアップデートしようと金沢に逃げてきた私は、まず一番最初に仲間探しに取り組みます。この時期には一人でやることに限界を感じていたため、仲間が必要だと思って大学時代の友人から先輩、後輩に片っ端から一緒に起業しようと連絡をとり、社会人の先輩1人と大学生の後輩2人の3人の仲間を集めます。
そして商品開発担当の先輩、エンジニア、デザイナーの後輩が仲間に加わり、ECサイトが再始動します。そしてこの頃にはサイトの再始動とともにアヒージョの開発が終わり、新商品として販売されていました。
ただアヒージョを作れば、たちまち大ヒットだと思っていたのですが、当然ですが売れません。むしろ味噌のホルモンより売れないということが起きました。
ただそんなタイミングの時に私に運命の出来事が起きます。それは私の母校金沢大学に本田圭佑さんがゲスト講師として講義をするとアナウンスがありました。
私はその情報を聞いて、これだ!このタイミングだ!と閃きます。「本田圭佑さんがアヒージョを食べてくれたら大ヒットするのではないのか!」と何とも安易な発想です。
ただ私は全力でした!人生最大のチャンスだと思って急いで金沢大学に向かいました。ただ授業すらまともに時間通りに入ったことのない自分が30分前に着いて、1番前の席に座って学生に忍び込んでホルモンを渡そうと考えたのです。発泡スチロールに保冷剤を入れてホルモンを持って私は全力で向かいました。
ただワールドカップイヤーの2017年です。本田圭佑さんの人気は凄まじかったです。200人しか入らない講義室に入るために学生が1500人ほど来ていました。ちなみに30分前の時点で私は1200番目くらいでした。着いた瞬間に講義室に入ることは諦めようと思ったくらいです。
ただ諦めてはダメだと思って、講義室に少しでも近づこうと1200番目からどんどんくぐり抜けて少しずつ講義室に近づいていました。しかしそうこうしてるうちに最後列からとんでもないほどの歓声が生まれます。本田圭佑さんが講義室に向かって警備員に守られながら通路の真ん中を歩き始めていたのです。
私はこの瞬間講義室に入ることを諦めて、何かをせねばと思って咄嗟に自分のノートの1枚を破って名前と連絡先を書いて手に握りしめました。
そしてロープの最前列について、本田さんがきたタイミングで全力で手を伸ばして、本田さんも気づかぬうちに本田さんの左ポケットに自分の連絡先を入れました。
なんとも奇跡的に私は本田さんの胸ポケットに自分の連絡先を入れることに成功しました。
そして講義が始まりました。予定では私が下記の写真のように今頃本田さんに質問しているはずだったのですが、私は連絡先を入れることしかできませんでした。
しかしよく考えてください。本田さんは気づいてないですが、この写真の胸ポケットには紛れもなく私の連絡先が入ってます。ある意味、歴史的瞬間です。
ただ私は講義が始まってすぐ重大なことを忘れてることに気づきました。それは連絡先に肝心の何をやっているかを書き忘れたことです。名前と連絡先しか書いてないってただのラブレターじゃんってことに気づきました。
これは完全なやらかしです。ただ時間は30分あります。まだ諦めるな何かできるはずだと私は頭をフル回転させました。
まず一番大事なのは本田圭佑さんと1分でもいいからしっかりと話す時間を作らないといけないということです。帰りも同じようにロープの前で他のみんなと同じように待っていても話すことはできません。
どうにかして1対1で話す方法はないのか。私はこういう時に異常な冷静さを取り戻します。本田圭佑さんの動きを逆算してみようと考えて、私はある一つの賭けに出ることにします。
そもそも、普通の人間であるならば、大学から出る時に最後に学長に挨拶して帰るのでないのか?という仮説を立てました。
ってことは講義室の前で待つのではなくて、金沢大学はキャンパスが広いので、車で向かわないといけない少し離れた違う塔の学長室の前で待てばいいのではないかと思いました!
ただもし学長室に現れなかったら私の賭けは失敗です。念のために車で追いかけられるように後輩に近況を報告してもらうように頼んでいました。
そうこうしてるうちに30分の講義が終わって本田さんたちが講義室から出てきました。帰りも同じように歓声の中、通路を歩いて本田さんたちは自分たちの車に乗り込みました。
では果たして本田さんたちはどちらに向かうのか!?
そこで後輩から連絡がきます。
「莞士さんの予想通り、本田さんたちは学長室の塔に向かってる」と連絡がきました。
私の予想は当たりました。そして連絡から約5分後。
私が本田さんの方に向かうのではなく、もちろん私のためではないですが、本田さんが私のいる学長室に向かってきてたのです。
そしてついに直接お会いすることができました。
もちろん周りに学生はいません。私と本田さんとマネージャーの方だけです。
私は大チャンスだと思って本田さんに「日ハムに勝つために起業しました!」「今はホルモンでアヒージョを作っています!」「私に出資してください!」「そしてこのアヒージョをぜひ食べてください!」と伝えました。そしたら本田さんは面白がってくれて、
出資はすぐには回答できないですが、「夏目さんの連絡先を教えてください」と言ってくださりました。
しかし、ここで前の話に戻ってください。
連絡先?
連絡先はもうすでに本田さんの元にあるはずです。
私はそこで「連絡先は本田さんが今着てる胸ポケットにあります」と伝えました。
そしたら本田さんが胸ポケットに手を入れて私が入れたノートの1枚をみて、びっくりして「マジックや!」と驚きました。そして私は本田さんに連絡先を渡すことと自分のプチプレゼンに成功しました。
後日、本田さんのマネージャーの方から連絡がきて、自分のプロフィールの詳細を送ったら、本田が話したいと言っていますと言ってラインを交換することができました。
そしてこの時期、本田さんはメキシコにいたので、メキシコと日本の時差の中、直接ラインをして出資の交渉をしていました。
結果的には出資には繋がらなかったですが、この時の経験が私を助けれくれることになるとは私は気づいてもなかったです。
元旦に母の登場で奇跡を生んだライブコマース
私の起業1年目はそうこうしてるうちに、春に起業したのですが、冬を迎えていました。
もちろん本田さんにホルモンを渡したからと言って何かが変わることはありません。相変わらず楽天市場のサイトの売り上げも月々5万円くらいです。
当然この売り上げでは給料もまともに払えません。最初はほぼ無料に近い金額で手伝ってくれていた後輩たちも就活が忙しくなって徐々に稼働が減ってきた時期でした。起業してもうすぐ1年が経とうとしていましたが、何もうまくいってない状況です。
そんなある日「母からあんた元気かい?お母さんTVで見たけど、今はライブ配信でものが売れる時代なんだね」とガイアの夜明けでメルカリ社のライブコマースが取り上げてるのを見た母が私に電話してきました。
「あんたもライブコマース始めたら?」と母に言われました。私はなんだかインターネットも知らない母に言われたのがムカついて「ライブコマースなんてまだ時代が早すぎて売れないわ」とライブコマースに詳しくないのにさも知った口調で言い返しました。
そうこうしてるうちに初めての正月を迎えました。家出してからすでに半年近くが経過していました。流石に帰らないとまずいと思って、実家に帰りました。
そしてあれは忘れもしない2018 / 1 / 1、元旦です。母はその日も私に「あんたライブコマース始めたら」と伝えてきました。私は又してもムカついて「うるさいわ」「そんなに言うならお母さんが売ってくれよ。僕が売るよりお母さんがやったほうが売れるやろ」と言い返しました。
そしたら母は「絶対に嫌に決まってるでしょ」と言い返してきました。私はそれなら言うなよと咄嗟にムカついて、メルカリのアプリを開いて、試しにと思って商品もまともにないのにライブコマースをその場で始めて母を映してみました。映りたくない母は家の中を逃げ回ります。そして私はその母を追いかけてライブ配信します。
その日は視聴者が元旦ということもあって視聴者は多いが配信者は少ないタイミングで、なんと私が母を追いかけるライブ配信が視聴ランキング1位になり、ランキングに載って視聴者がどんどん増えてきました。
そして視聴者も息子が家でお母さんを追いかけ回して放送してるのが面白かったのかどんどんコメントが増えました。
そしてコメントの中には「何を売ってるの?このお母さんが何か作るなら買いたい」というコメントがちらほらあったことに気づきました。
私は試しにライブ配信をしながら商品を出してみたら、商品がなんと出品して10秒で売れました。私はこの体験に衝撃を受けました。今まで友達に頼まないと買ってくれなかったり、安売りしないと売れない商品が出品10秒で売れるのです。
なんだこれは!?!?という衝撃体験です。
その日はライブ配信を終えたのですが、これに手応えと可能性を得た私は母を本気で説得しました。散々断れましたが最後は「このまま商品が売れなくて野垂れ死ぬ息子を見捨てるきか!」と伝えたら母は仕方なくライブに出る決心をしてくれました。
そしてむかえた次の日です。
正式に母の名前をホルモンを売るお母さん「ホルモン母ちゃん」という名前にしてメルカリでライブコマースを開始したら、この日も2018/1/2で視聴者が多くて、配信者が少ないタイミングでした。
またしても配信開始と同時にランキング1位になって、老眼でスマホの画面があまり見えてない母がなんて書いてある??と画面アップで見る動作が視聴者の方々に受けて「この親子の掛け合いが面白い!」とコメントも大盛り上がりでなんと、今まで1ヶ月かけて5万円しか売れなかった商品が1時間の配信で10万円も売れました。
そしてこれだと完全に掴んだ私は、正月を開けてもライブ配信を定期的に母と続けて12月に5万円しか売れなかったサイトが1月には50万円、2月には200万円売れました。起業して1年、まさかの大ヒットです。
そして商品が飛ぶように売れて、実家の工場は大パンクしました。そして父から電話が来て、自分で売れた分は自分で作れと言われて、私は売り上げの上昇とともに実家に帰ることになりました。
ちなみにこの時売れた商品の人気1位は先代から続く実家の味噌ホルモンで、2位は私の作ったアヒージョでした。結果的にどちらの商品も売ることができました。
誕生日に迎えた最初の挫折!母からの借金300万
1月の勢いのまま私は、3月は500万売るぞと行き混んで実家に帰ってきました。そしてこのタイミングで後輩2人は大学卒業で抜けて、引き続き先輩1人にプラスして、私の予備校時代の友人のデザイナーが入社してくれました。
しかしまたしても事件はおきます。
忘れもしない私の誕生日3/3に私は休日をもらって出かけていたら、メルカリ社から1通のメールが届きます。
その内容は、、、
「本日から生鮮食品のライブコマースを禁止します」という内容です。
生鮮商品のライブコマースを禁止するだと!?!?
驚いても現実は変わりません。500万売るぞと大量に作った在庫は全て残りました。5万、50万、200万と増えた売り上げはまたしても5万に戻り、私は起業してから初めての大きな挫折を体験しました。
ただ挫折以上に私にはもっと大きな悩みが降りかかります。私はもちろんまだまだ大した金額ではないですが、生活できるくらいにはと先輩と新しく入ってくれた友人の給料の金額をあげていたのです。給料は売り上げが下がったからと言って下げるわけにはいきません。
そして私はこの日から自分の給料をもらうどころか、皆の給料が払えなくて、母に借金をすることになりました。
そしてこのまたECサイトが売れない暗黒時代はここから1年弱しばらく続いて起業して2年目が終わろうとしていました。
起業して2年、自分の給料は発生することもなければ気づけば母に借りた金額は300万まで膨れ上がっていました。
何をやってもうまくいかない。もう地獄のような日々でした。
そして2年目の終わりに早稲田を卒業してGoogleで働いてる友人が「副業でアパレルブランドを立ち上げて、インスタグラムで売って大ヒットしてる」と、別の友人づてで聞きました。
天は二仏も与えるとはまさにこのことだなと思いました。かたや「私は何をやっているんだろう」と私は内心思いましたが、どうやってやっているんだろうと気になってその友人に聞きにいきました。呼ばれた場所は六本木ヒルズのgoogleオフィスです。地方の実家の工場の1室でやってる自分との大きな違いを痛感しました。自分が恥ずかしくなりましたが、必死に友人の話をメモを取って聞きました。
そして実家に帰ってすぐ同じようにインスタグラムに挑戦しました。元々大学時代にSEOのWebマーケをやっていたので、インスタグラムも同じ原理だと思い、すぐにアルゴリズム覚えていき、
自分がインフルエンサーになって肉を販売しようと始めたアカウントは数ヶ月で瞬く間に5万フォロワーまで成長していました。そしてフォロワー数と同時に売り上げが300万円まで増えていき、1年ぶりに事業が再度復活してきました。
ただインフルエンサーとしての活動は本当に大変でした。毎日日記を書いたり、お肉を買ってくださった方のDMを返したりと。再現性もなければ事業の拡大性も難しい課題にぶつかっていました。
そうこうしてるうちに起業して早くも3年目を迎えていました。そんな時にたまたまインフルエンサー界隈で親しくなった先輩から1本の電話をもらいます。
「かんちゃん、焼肉屋オープンしたんだけど、知り合いしか来なくて集客助けてくれない?」と言われました。
私は正直SEOはすでに飽和してるし、どうしたらいいだろうかなと考えて、仮説ではあったのですが、インスタグラムは通販だけではなく、店舗集客にも使えるんじゃないかと思っていました。結果的に試しにと思い、無料で引きうけることになりました。
そして運用を始めると、私の仮説は当たっていて、インスタグラムのアルゴリズム読解とインスタ用に開発した「ステーキ丼」がヒットして元々60万しかなかったお店がインスタグラムの集客効果で4ヶ月で360万に売り上げが増えたのです。
さらに興味深かったのは売り上げが増えた時は500フォロワーしかいなかったのに300万売り上げが伸びたのです。
私のアカウントは5万人いて300万円通販で売れるのに対して先輩の焼肉屋さんは500フォロワーで同じ300万円です。さらに属人的なやり方でなく、再現することができます。
これはすごい!と思って私も飲食店業界に参入しようとこの時に決めました。