(2015年、新オフィス移転パーティーでの一コマ)
2017年2月25日。いまこれを書きながら37歳の誕生日を迎えた。今日は会社設立からいまに至るまでの、悪戦苦闘の日々を振り返ってみようと思う。
前編を読んでいない方はこちらからどうぞ。
カラフル・ボードの創業秘話 前編:AI(人工知能)エンジニアから一転、飛び込みセールスマンへ。異常な決意を支えたキャリアビジョンとは?
社名に込めた想い
2011年11月25日、7年間の社会人経験を経て、必要なスキルをすべて身につけ、満を持して僕は会社を設立した。人脈も経験もお金もなかったが、会社を通じて実現したいビジョンだけは明確だった。それだけで僕のこころはワクワクが止まらなかった。
社名は、3日間悩みまくった結果、「カラフル・ボード株式会社」にした。
素晴らしいアイデアやコンテンツがきちんと評価され、必要な人にきちんとくことで、世の中を「彩り豊か」にしたい、という想いを込めた「カラフル」。一方、「ボード」には2つの意味がある。彩り豊かな世の中を、僕たち一社ではなく、みんなで対話しながら作っていく、「会議する」という意味。そして、日本発のコンテンツやテクノロジーを世界に届ける「船に乗る」という意味。
つまり、彩り豊かな世界を、みんなで作って、グローバルに社会を良くしたい。それが社名に込めた想いだった。
満を持して創業!のはずが・・・
創業して1ヶ月たった頃、早くも大きな壁にぶつかった。最初の事業を始めるための資金が足りなかったのである。
カラフルボードは、創業時100%自己資金、自宅をオフィスにして、なけなしの300万円で立ち上げた会社だ。創業後からWEB開発会社をいくつか当たった頃に、事業立ち上げには3,000万円程度必要なことが分かってきた。なんと手持ち資金の10倍である。。今思えば、もう少しきちんと見積りして始めれば良かったが、当時は初めてWEBサービスに触れることもあり、見込みが甘かった。
そこから、当初の計画にはなかったが、最初のファイナンス活動を始めた。経験や実績もなく、プロトタイプすらない、想いだけを書き込んだ事業計画書を片手に、投資家を回った。
幸いにも複数のエンジェル投資家から資金を集めることができ、開発のスコープを必要最小限に抑えて、まずはプロトタイプ開発に着手した。計画していた訳ではなく、結果的にLEANなスタートアップに成らざるを得なかった。
初期サービスをリリース、人工知能研究を本格スタート
そんなこんなで、最初のサービスである「COLORFUL BOARD」が2012年3月にスタート。サービスリリース直後からメディアに露出したこともあり、そこそこ順調な滑り出しだった。大きなアライアンスもいくつか決まり、サイトも順調に成長して行った。
同時に2013年頭頃から、本格的に「ディープラーニング」と呼ばれる人工知能技術の研究に着手した。大学の先生と議論しながら、昔没頭した人工知能アルゴリズムの研究に計らずとも戻ってきた。初期の研究には、約1年半の歳月を費やした。その間、世間では、アカデミックな領域でホットだったディープラーニングが、少しずつ市民権を得るように認知を広めて行っていた時代である。
全ての人々に、人生が変わる出会いを。
そして2014年11月5日、「人工知能SENSY(センシー)」を世の中に発表した。「全ての人々に、人生が変わる出会いを。」をコンセプトとして開発したSENSYは、人の生活に関するあらゆる情報と、人の出会いを最適化することを目指した。
人工知能を発表したタイミングも良く、多くのメディアにSENSYは取り上げられた。ユーザー数も初期から爆発的に伸び、多くのデータが集まり、また人工知能研究に活かされて行った。
その頃の僕たちは、外から見るととても順調な会社に見えたに違いない。。
そして訪れた、過去最大の恐怖
2015年2月、そいつはジワジワ近づいてきた。「バーンアウト」と呼ばれる、資金の燃え尽きのことだ。一見順調に見えたSENSYだが、いくつか致命的な課題があった。
- 初期の開発コストに大きな投資をしたこと
- 想像以上にユーザー数が増え、システムコストが膨れ上がったこと
- まだマネタイズまで至っていなかったこと
この3点だ。
もともと小さな会社だったが、それまでとは比べ物にならないスピードで資金が目減りしていた。もちろん、僕自身が公認会計士でもあり、お金には明るかったが、このスピードは想定外だったのだ。
正直、焦った。どう考えても事業でキャッシュフローを黒字化するには時間が足りない。大型のファイナンスしかなかった。それからは、相手を大手事業会社とベンチャーキャピタルに絞り、金策に奔走した。でも、お金を出してくれるならどこでも良かった訳ではない。僕たちが描くビジョンはIPOとかではなく、もっともっと先の、世界を変革するプロダクトを創ることだからだ。
最も底まで資金が減った時は、銀行の預金残高がわずか2万9000円。桁は間違えていない、個人ではなく会社の口座に5桁のお金しかなかったのである。投資家とはあくまで対等な立場で話をしていたが、内心はヒヤヒヤだった。でもここで折れたら絶対に後悔するはずだし、これまで一緒にやってきた仲間にも申し訳ない、と自分を奮い立たせた。
幸いにも、世の中的に人工知能自体が注目され始めていて、目先のお金を出してくれそうな先は幾つか見つかった。30社程度とは具体的な話をしただろうか。最終的に、いくつかの投資家と合意に至り、ビジョンを共有できた投資家から2015年4月に1.4億円を調達することができた。
この時の通帳のコピーは今でも大事に取ってある。これからもこれを忘れず、いつも謙虚に、でも夢は大胆に追い掛け続けたいと誓った日だ。
(預金残高わずか2万9000円の通帳)
少し長くなったので、続きはまた次回に。
後編:運命的な出逢いと非連続な成長へ へ続く