【前編】事業失敗から家を失い、人に助けられた人生|この想いを糧に日本経済を成長させる【CMOインタビュー】
こんにちは!SALES GO採用担当です!
今回は、SALES GO株式会社の執行役員CMOの福谷へのインタビューを前編・後編に分けてお届けします!
前編では、以下の内容をご覧いただけます。
- 福谷が14歳で起業を決断したきっかけ
- 起業してからの道のり
- 事業失敗から学んだ“ご縁”の大切さ
これまで多くの活躍をしてきた福谷ですが、波乱万丈な人生を歩んできました。どのようにして乗り越えてきたのか、起業を経て得られたものは何だったのかを知っていただける記事となっていますので、ぜひ最後までご覧ください!
■プロフィール
福谷学
19歳で独立を果たし、株式会社東栄テクノとして機械設備等のメンテナンス会社を経営。2016年2月、特殊製品の開発と他様々な製品を扱う商社であるAllCreationJapan株式会社を起業。同時にドローンを用いたEDGE JAPANを起業。2018年6月、複数の会社の新規事業立上げのコンサルティングとして活躍。2022年9月、執行役員として株式会社コミクスの経営に参画し同年11月に取締役に就任。2024年CMOとしてSALES GOに入社。
“未知の世界”にワクワクし、14歳に起業を決断
ー起業を意識しはじめた背景を教えてください。
起業を決断したのは、14歳のときです。私は「公務員」である父と、「経営者」である父の兄、2人の背中を見て育ってきました。
あるとき、2人の人生に自分の将来を照らし合わせてみることに。自分の父のように公務員になったら、結婚して、こどもが生まれて、家を建てて……。感覚的に、将来が見え過ぎてしまったのです。
一方、経営者である父の兄の人生と照らし合わせてみると、まったく想像がつきませんでした。「経営とは何か」「社会にはどんな業界があるのか」など、私にとっては未知の世界。それと同時に、未知の世界を考えることにワクワクしたのです。
「自分が経営者になったとき、どんな未来が待ち受けているんだろう……」
そんな気持ちが頭から離れず、14歳のときに起業を決意しました。
14歳から毎日のように企業を突撃訪問していた
ー起業を決めてから、行動にどのような変化がありましたか?
部活動に励む友人たちを横目に、1人で企業に飛び込み会社訪問をする「社会科見学」をしていました。毎日「今日はこの地区に行こう」と決め、気になる会社に突撃訪問をするんです。すると、100%社長さんが出てきてくれました。
まさか、社長さんも「〇〇中学校の生徒が社長に会いに来ています」なんて言われると思っていないでしょうから、必ず通してもらえるんです。
このような「1人社会科見学」を、4年近くほぼ毎日繰り返しながら、「どんな会社があるのか」「どのような経緯で会社が作られたのか」を取材するような形でお伺いしていました。
ー企業訪問を行う中で感じたことを教えてください。
企業訪問経験から学んだのは、どんな社長さんも「人のため」に経営しているということ。「誰のために、どのように貢献できるか」を芯に持っていらっしゃる方ばかりで、自分のために経営している方はほどんどいませんでした。
単に「お金を稼ぎたいから」ではなく、自社の存在意義を認識し、社会に貢献している会社ばかりであると気付きましたね。
スキルも実績も無かったが、「自分の時間を売る」方法で独立を果たす
ー19歳で独立されてからはどのようなビジネスを行っていたのでしょうか?
中学生の頃からたくさんの社長さんにお会いしていたので、地元では1番人脈を持っていたと思いますが、独立当初の私にはビジネスのスキルや実績がありませんでした。そこで始めたのが『自分サブスク』というサービス。
『自分サブスク』とは、「24時間何でもするので、月額5万円で契約してください」という内容です。1ヶ月で13社の企業様がご契約くださり、雑務や工事現場の旗振りなど、様々な業務を経験することができました。
中には「月に1回社長とご飯に行くこと」が契約内容の企業様もいらっしゃり、月額料金をお支払いいただきながら、食事にも連れて行ってくださいました。その社長様は、「君のような方は絶対に成長するから」と言ってくださり、本当に嬉しかったですね。
このようにして、私の独立人生がスタートしました。
まずはスキルを身に付け、メンテナンス会社を設立
ー機械設備等のメンテナンス会社を経営するまでの経緯を教えてください。
やはりビジネスをするなら、まずは自分自身がスキルや技術を身に付け、提供する側に回る必要があると考えました。そこで、私は原子力発電所のメンテナンスに目を付けたのです。
私の地元である福井県は原子力発電所が日本でも非常に多く集まっており、原子力発電所の機械メンテナンスには資格が必要ありません。なおかつ、当時原子力発電所は建設ラッシュだったのです。
そのため、とあるメンテナンス会社に「技術を学ばせてほしい」とお願いすると、快く受け入れてくださり、多くの知識を身に付けることができました。
通常、社員さんは定時後に退社してしまいますが、その後に私が会社に出向くので「面白い人だな」と思われていたでしょう。ですので、その会社の新入社員よりも、メンテナンスの知識を教えていただけたと感じています。
その後メンテナンス会社を設立し、最も多いときで従業員数が約200名の会社へと成長しました。
経営失敗で家も車も失った経験から、“人のありがたみ”を痛感
ーその後事業は順調に進んだのでしょうか?
はじめは順調だったメンテナンス会社ですが、最終的には負債を抱えるほどの失敗をしてしまいました。
2011年に起きた東日本大震災を機に、全国の原子力発電所の工事がすべてストップすることに。それによって私たちの仕事もなくなり、事業変革をせざるを得ない状況となったのです。
機械のメンテナンスではなく、機械の立て付けや制作にもピボットしながら展開しましたが、売上が追い付かなくなりました。200名いた従業員のうちの何十名かは、取引先やお客様先に引き取っていただきましたが、それでも従業員を抱える余裕がありませんでした。
そこで、「経営を続けるのは難しい」と判断し、会社をたたむ決断をしたのです。
とはいえ負債を抱えたままでしたので、持ち家や車などを失いました。私には妻と子どもがいますが、当時は相当心配をかけたでしょう。自分の家がないので姉の家に約2ヶ月居候しましたが、だんだんと居づらくなり、その後は妻の親御さんの自宅でお世話になりました。
また、銀行さんからも借入をしていたため、月に1度「今月も返済できません」と顔を出しに伺っていました。しかし、当時の支店長が「大丈夫、大丈夫」と言い続けてくださったんです。
自分でも「なぜ大丈夫と言ってくださるのか」が全く理解できずにいると、ある日突然1本の電話が鳴りました。
「今から銀行に来てくれ」と。
そうして銀行に伺ったところ、本社の机に200万円の札束が置いてありました。
「これはなんですか?」と尋ねると、「君の借金はもうないから」と言われたんです。
事情を伺うと、私たちが東日本大震災後に建設した工場を、支店長が買い手を探し回り売却してくださったとのこと。売却した金額から負債の返済をしても、200万円の余りが出たそうです。
それを聞いた私は、言葉を発することも、立ち上がることもできず……。気付くとその場で泣き崩れていました。
このとき、心の底から「人のありがたみ」を痛感したのです。成功したと思っていた事業が大失敗し、挫折を味わいますが、最終的には人に助けられて、生かされて。支え合って生きていくことこそが、“人としての生き方”である、と身に染みて感じました。
まとめ
最後までご覧いただきありがとうございました。
福谷がどのような経緯で起業を決断し、どのように乗り越えて来たのかが伝わったのではないでしょうか。
後編では、以下の内容をお届けします。
- 福谷がSALES GOに入社を決意した理由
- 現在のミッション
- 今後実現していきたいこと
今後、SALES GOは福谷の活躍により新たな動きをしていきます。続きが気になる方は、ぜひ後半の記事もご覧ください!
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