人生の中で、ひとは多くの時間を「労働」に費やす。だからこそ、組織に所属するならば「ともに働く人」や「働く環境」は、人生の楽しさや充実感に直結するものと考えていいだろう。
今回話を聞いたのは、プルデンシャル生命・青山第一支社で支社長を務める早川健一さん。
“支社”の“長”と書くその役職は、人を採用し、育て、支社という1つの組織を成長させることで、会社全体にポジティブな影響を与える役割を持つ。かつて、たった3名のメンバーで立ち上げた支社を、今では都内でも同社指折りの大規模支社に成長させた早川さん。
支社に所属する50名全員が、「ここで、このメンバーと働きたい」と回答する環境をどのように作っているのだろうか。早川さんの生い立ちを通して、組織の一体感を生む“マネジメント”の原点が見えてきた。
「いつでも入ってきていいよ」。誰をも受け入れる“開けっぱなしのドア”
早川さんの趣味だという観葉植物のグリーンが映える、青山第一支社の支社長室。取引先からいただいたオーガスタを育て始めたことがきっかけで、手をかければかけるほど素直に育っていくその様子に、今では「ハマりすぎてちょっとやばいかも」 と笑顔を浮かべる早川さん。そんな支社長室とメンバーがいる執務室を隔てる1枚のドアは、開け放たれている。
「このドアは、ミーティングや来客のとき以外はいつも開けたままにしています。支社のメンバーには、この部屋に気軽に入ってきて何でも話してほしいなと思って。その効果なのか、『今ちょっといいですか?』『こんなことあったんです、聞いてくださいよ!』と、みんな自由に出入りしてくれますね」
早川さんがプルデンシャルに入社したのは29歳の時。ライフプランナーとして10年間の営業を経験したのち、管理職というキャリアを選択して営業所長へ。そして支社長に就任した。
29歳で転職を決断する以前、早川さんは大手映画配給会社に勤めていた。「映画が好きだったから、迷わず決めた」という。そこの宣伝部、いわゆる花形部署で働いていたにもかかわらず、なぜ異業種である生命保険会社へ転職したのか。これには、忘れてはいけないあの出来事が大きく関わっていた。
自分の価値観を変えた、「あの日、芦屋で起こったこと」
▲ご本人提供:早川さんのご実家周辺のお写真
1995年1月17日 午前5時46分。
巨大な揺れが関西地方を襲った。阪神・淡路大震災だ。
当時映画配給会社で働いていた早川さんは、そのニュースを東京で聞いた。咄嗟に案じたのは、家族の安否だ。早川さんの生まれは、このとき特に甚大な被害に遭った兵庫県芦屋市。震度7を記録し、死者は443人、家屋の全壊・半壊は合わせて約7500棟に及ぶ。
「当時は今のように携帯電話が普及していません。家族とは連絡がとれず、実家がどうなっているのかもわからない。テレビからは芦屋の惨状が連日報道されていて、すぐにでも実家に駆けつけたい気持ちでいっぱいでした」
だが、その願いは“仕事”によって阻まれる。
「担当している映画の公開が、震災からほんの数日後に控えていました。現場に僕がいないと仕事が回らない。僕ひとりの都合で映画の公開を遅らせられるわけでもない。実際に芦屋に足を踏み入れられたのは、2月5日、震災から19日後のことです」
早川さんの帰りを待っていたのは、変わり果てた地元と全壊した実家だった。壊れた家屋を目の前にして、「もっと早く駆けつけたかった」という後悔と、「自分が実家を建て直さなくては」という想いが生まれた。
「震災をきっかけに、当時の仕事では足りないもの、自分が持っていないものに気が付きました。1つ目は、時間の自由です。会社に雇用されるというのは、自分の時間を会社に管理されているということだなと。そして2つ目は収入です。当時の給料ではとても実家の立て直しはできません。自分の力でもっと稼げるようになりたいと強く思いました」
阪神・淡路大震災をきっかけに、仕事に対する価値観が大きく変わっていった。
3つの価値観を叶えるなら、ここ。企業理念への共感が決め手だった
そして早川さんは、自分の心に引っかかっていた「仕事のやりがい」についても考え始めるようになった。
「当時の僕は、“業界最大手”という看板があるから、自分の実力以上の仕事ができていました。だから、自分にしかできない仕事、存在意義を感じられる仕事がしたいと思ったんです」
時間、収入、存在意義。その3つの価値観に沿った働き方を、今いる映画配給会社で叶えられるのかと自問自答し、「仮に出世したとしても0%だ」 と自分の中で結論づけた早川さん。その3つを叶えられる場所を求め、転職活動を始めた。
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