株式会社FREEWILLに入る前
皆さん、こんにちは。 FREEWILL.incでIA(インフォメーション・アーキテクト)を担当しているKanaと申します。
グローバル時代に生きる私たちにとって、とても身近な言葉である「国際貢献」。 この言葉に対し、みんなそれぞれに思い描いていること、または実行してきたことはあるんじゃないかと思います。
2013年3月、当時たった一人で「㈱FREEWILL」を立ち上げ、雑居ビルからスタートした「㈱FREEWILL」設立者のToshi Asaba。 2016年現在、おしゃれな青山にオフィスを構え、75名の社員を引き連れる彼は、とにかく熱い魂を持った男性です。 様々な事業に取り組み、成功へと導いている彼ですが、今回は彼が考える「国際貢献」へ焦点を当て、Toshiさんがどんな人生だったのか書いてみたいと思います。 彼の半生を振返りつつ「国際貢献」とは何なのか、皆さんも一緒に考えましょう!
それではさっそく、インタビューに移らせて頂きます。
――最先端ICTとグローバルを掛け合わせて本当に様々な事業を展開されていますよね。どうしたらそんな情熱が湧くのでしょう。更に、なぜICT事業を繰り広げているのかも気になっています。その先に、本当にやりたいこと、どんな社会貢献ができるのか聞かせてください。まずどこからスタートしましょうか・・・。まず、もしよろしければグローバルに活躍するきっかけや、少年期はどんな過ごし方をしたのか教えてください。
そうですね~・・・。まず、僕は田舎生まれ。当時、遊ぶ場所なんて限られてたし、インターネットもなかった時代です。わりとやんちゃやってて、わりと悪ガキの僕は、勉強もロクにせず学校もボイコットして遊んだりしていました。唯一集中できたのが、本を読むこと、映画を見ることでした。物語が大好きだったんです。近所のビデオショップの映画は、ほとんど中学卒業の頃にはすべて見終わっていました (笑) ハリウッド映画に憧れて、あんなヒーローに僕もなりたかったし、映画や本のストーリーに感動して感受性が豊になったことも間違いありません。そういったことが影響してか、当時の日本の構造や、縦割り社会の在り方に疑問を抱くようにもなっていたと思います。押し付けの勉強スタイルも本当にキライで、先生を困らせてばかりでした (笑)
油絵の絵描きだった母親が、ある日、僕に言いました。「あんたはこのまま田舎に残っていたらどうしようもない人生になるから、さっさと世界に行きなさい」って。絵描きの才能があった母親は、僕の将来を心配して、大きなキャンパスに絵を描く方法を僕に伝授してくれたときがありました。その時、人生も同じだってことを下手くそだったけど彼女なり愛情をもってに教えてくれたんです。
まったく無知だった田舎生まれの15歳の僕が、アメリカ留学を果たすことになりました。スポーツ全般が得意だったこともあり、最初の一年目はスポーツ留学でした。結局、バスケは本場アメリカでは歯が立たず、「スラムダンク」のようには行きませんでした。2年目は、転校先を自分で探して、男女共学の学校を選んで青春を謳歌しました。
(1997.6 Graduation Day)
そこで世界の広さを知ったことが、グローバルに活躍してヒーローになることを目指す少年の僕にとって、最大のきっかけだったでしょう。高校卒業後、19歳では約40ヵ国を放浪し、バックパッカーとして訪れた旅先のトルコやブルガリア、セルビア、クロアチア、チェコ、フランスでは地元のサッカーチームに紛れ、一緒にサッカーをプレーし、子ども達にサッカーを教えたこともあります。
そうした経験が、単なる夢や目標ではなく、いつしか自分の人生そのものなのだということを、なんとなく諭してくれました。
(1998.12 たぶんアジアのどこかで)
――若い頃から本当に様々な経験をされてきたんですね。 やはりその頃から「国際貢献」に興味があったんですか?
そうですね、若い頃っていうと、例えば子供の頃、だれもが、なんで世の中に貧困ってあるんだろうって考える時期があると思うんです。僕の場合、馬鹿正直にそれが心に残ってしまってたんです。ヘルマン・ヘッセやヘミングウェイ、トムソーヤでおなじみのマーク・トウェインの本はどれも本当に衝撃を受けました。思春期に読む本としては強烈だったと思います。その他、「人間の大地」という本がありますが、これを読んだ時には、本当に気持ち悪くなって嘔吐して、どうしようもなくなって泣いたのを今でも覚えています。こうした多くの本を読んだことも影響したと思います。そのまま少年期を迎えてしまい、遂に海外へ飛び立つ時が来た。国際貢献に興味を持ったのはその頃だったと思います。
途上国を旅しながら読んだ本はざっと40冊くらいだったと思います。その中で心に響いてしまった本が、「かもめのジョナサン」や「アルケミスト」、「イリュージョン」、「聖なる予言」だった。これらの本を読めばわかると思いますが、思い描くことはすべて実現可能だということです。引き寄せの法則なんて、旅をしていたら当然のように起こりますから。だから、僕も思い描くことを実現すると心に決めたんです。
ーー普通、影響を受けたからといって、それを続けることは難しいと思います。どうして続けられるのでしょうか?
今でも毎年、5回~10回は海外での活動をしていますが、少年期に途上国の現状を目の当たりにしたことが、自身の生き方を決めたといっても過言ではありません。もう後には引けなくなったというか、一度でも世界がどうやって成り立っているのかを知ってしまったら、何事もなかったかのように自分だけのうのうと生きることができなくなってしまった。無かったことになんてできなかったんです。
ーー20代はどんな風に過ごしたのでしょうか。
20代は本当に苦しかったな。。。20代前半は映画やエンターテイメントの世界に入り込んでいて、いくつか制作にも携わることがありました。みんなが知っている大作から、Vシネ的なものまでなんでも。舞台制作も経験しました。けど、思い通りになかなかならなくて、なにやってんだろう、おれ・・って。誰よりも努力したし、だれよりも実力あったと当時思ってましたしw。少年期に見た「ローマの休日」は僕の最高のエンターテイメントです。エンターテイメントは世界を感動させるし、きっと世界を救う!なんて考えて入り込んだものの、迷走してばかりいました。その後、ビジネスをしっかり学ぶために会社を転々として・・・周りは楽しそうに女の子と遊んだり、クラブで羽目を外したり、六本木で飲んで騒いだりと20代を満喫していたけど、僕はそれどころじゃなかった。なんていうか、矛盾というか、空虚感が半端なくて、どんなに楽しいことをしても楽しくないというか、辛かったし感情のコントロールができずに涙することもあった。。。何かしなきゃ、という気持ちが働いて、だから猛烈に努力することにして、20代は自分への投資の時間としてかなりの時間を費やす結果となりました。
僕は、目標は決まっているのに、そこに到達する方法が見つからなかったから、当時、本当に苦労ばかりしていました。NYの学校に行ったり、ヨーロッパ各国で仕事を始めて、会社を立ち上げたりしました。なんか、とんでもない義務感が働いていて、自分が頑張ることによって世界が変わるって信じるようになって。成功して御礼がしたくて仕方なかった。誰にってわけではないけど、僕がこうしてなに不自由なく暮らしていけることに感謝を伝えたいし、恩を返せる男になりたかった。けど、やればやるほど人に迷惑を掛けて、親を心配させた。何も上手くいかなかった。「国際貢献」というと聞こえはいいけど、実際は、無力な日本の青年が、どうしようもない感情を抱え、とにかく自分にできることをスタートしたってだけなんです。それが僕の20代でした。
ーーけど、あきらめなかった。だから今があるのでは?普通はできませんよね?
そうですね。あきらめなかった。挫折や恥をかくことなんて苦ではなかった。本気の気持ちだったから、本気のプロにも大勢会えてはいた。そういう人達からプロとはなにかを教わっていたんです。遅咲きですが、だから今があると思います。こんな僕でもここまで到達できた。だから誰にでもチャンスがあるって、僕は心の底から言いたい。みんなに伝えたい。
僕にはやらなければならないことがたくさんある。あきらめてなんかいられない。今はそういうフェーズでもありません。使命、命を使う、と書きますが、僕はそのために生きていると、今ははっきりとわかります。挫折の多い人生だったから、その分、目的に到達するためにやるべき必要なことが経験上、簡単に分かるようにもなりました。無駄な経験など一つもなく、すべてが必要な過程だったということ。必ず追い求めて生きていれば、いつの日か点と点が必ず結びつくことを僕も身をもって知りました。
ーー今、やろうとしていることは?
地球全体を考えたとき、僕たちはいったい何をすべきなのか。そして途上国を故郷とし、そこに根を張って生きる人々の求めるものはいったい何なのか・・・。ずっと答えを求め続けるように生きてきました。答えは簡単でした。生き物すべてが共通することです。だれにでもわかることだったわけです。自分に確信が持てるまで思った以上に時間が掛かった気がしますが、今はその答えをもって、僕は事業に取り組んでいます。
そのためにはまずICTが必要不可欠。資本主義で意見が通る程の実力が必要。最先端のサービスを理解し、世界中に転がっているソリューションを手に入れたい。僕たちに出来ることは本当に多くあると思います。
2016年 現在
――海外で様々な経験をされたことで、いまの在り方へ大きな影響を受けていると思いますが、具体的にはどのような活動をされているんですか?
途上国の実態に触れ、彼らのために行われている事業を目にしたとき感じたのは「それは本当に現地が必要としているものなのか?」というものでした。 もちろん、とても素晴らしい事業もたくさんあります。しかし、言葉は悪いかもしれませんが、中には資本主義の餌とも捉えられるような事業があることも事実です。
――本当の意味での"国際貢献"を果たすためには何が必要だと思いますか?
「恩返しをする」という気持ちが出発点だと思います。 たまたまこの日本で生まれ育った私たちですが、世界と渡り合うために血の滲むような努力をしてきた祖先のおかげで、「ジャパン・ブランド」がとても評価される時代に生きることが出来ているわけです。 私たちが当たり前に享受しているこの恩恵を以って、共に生きる同時代人として途上国の人々へ貢献しなければならない。 つまり"共存共栄"の実現です。
そして次に考えなければならないのが、草の根活動(グラスルーツ)を通じたビジネスの展開です。 単純に何かを与えるのではなく、それをどのように活用し、お互いが平等な立場として取引していくのか。 ソーシャル・ビジネスを始めとする新しいビジネスの形を作ることが出来れば、誰もが「平等な世界」を夢見られるような希望と手段を手に取ることが出来るはずです。
そのために国の力(行政機関)ももちろん必要だと思います。そして官民共同でJAPANイニシアティブを最大限に活かすことが出来れば、私たち一民間企業が世界を動かすことが出来ると信じています。
株式会社FREEWILLについて
――「国際貢献」のために、FREEWILLではどのようなことを行っていますか?
FREEWILLには"フリースペース"というものがあり、そこでは誰でも事業計画をプレゼンし、プロジェクトオーナーシップを持ち、世の中に「イノベーション」・「価値」を提供することが可能となっています。
「僕らで世界を動かそう」プロジェクトは、そんなフリースペースから誕生したプロジェクトなのですが、言葉の通り、世界貢献(BOPビジネス)を目指したものとなっています。 例えば現在、このプロジェクトの一環として、女性社員の一人がタイで実際に国際貢献のための活動を行ってくれています。彼女を通じて入ってくるのは現地の生の声です。これをもとに、現地の人たちが本当に望んでいることや、お手伝いできることを模索し、ひとつのイベントが始動することとなりました。
――それはどのようなものですか?
社員の約9割が海外経験者である特性ゆえか、弊社にはとても面白い経歴を持つ人物たちが集ってくるのですが、彼らの内の一人に、イングランドで活躍していた元プロのサッカー選手がいます。彼の他にも、Jリーグのユース出場経験者たちが多くおり、彼らを見た際にピンと閃いたのが、今年の11月に現地の子どもたちへサッカーを教える、ということでした。
なぜサッカーかといえば、タイのサッカーはアジアの中でもとても勢いがあり、大きな盛り上がりを見せている時代にあるからです。 そして何より、タイで活動中の社員が「サッカー選手になりたい子どもたち」へ陽が当たらない現状を目にしたためです。
偶然先進国に生まれ、サッカーの技術を磨くことが出来た私たちにとって、自身の技術や経験を途上国の人々へ伝えることは、途上国の人々への恩返しにも当たります。 スポーツと国際交流により、現地と日本の間にきっと橋が掛かるはず。 そして心をしっかりと通わせ合うことで、次のフェーズ、つまり、お互いに発展し合うことの可能な「ソーシャル・ビジネス」に繋げることが出来るのです。
今後どういうことをしていきたいか
――今後の展望をお聞かせください。
国境を越え、人種の壁を乗り越え、貧富や身分の差をまったく感じさせず、日本人として出来ることを日々模索し、素晴らしい時代の新しいソーシャル・ビジネスを実行に移し続けること。 「僕らで世界を動かそう!」の趣旨は、現地草の根活動を果たし、現地のニーズを引き出すことなので、現地が潤うようなソーシャル・ビジネスやBOPビジネスへ繋げ、最先端のICT技術を駆使しながら世界と共存共栄を果たすべく、各国と共に未来を描いていくことが目標です。
誰もが一度は世界平和や世界貢献活動に心を寄り添わせた経験があるはず。 私たちはまだまだ小さな企業ではありますが、途上国への貢献と、日本企業のグローバル化をミッションとし、具体的な活動を設立当時より計画し、実行に移してきました。 一つひとつは、今はまだ小さな、とても小さな取り組みかも知れないけれど、それがいつの日か全て一つに繋がり、大きな力となり、世界を動かせると信じています。
――自分の夢や信念を掲げ続け、実行に移し続ければ、必ず花は咲きます。私も世界を動かせると信じています。インタビューにご協力いただき、ありがとうございました!