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東大という新卒カードを捨て、僕がド田舎のベンチャーに就職した理由

僕は3月末に東京大学法学部を卒業し、今はド田舎のベンチャーで草むしりとシーツの洗濯に追われています。

宮崎県都農町(つのちょう)。人口は1万人、最寄りのスタバは50km先といういわゆるド田舎です。

必ず「なんで来たの?」と聞かれるし「せっかく東大出たのにもったいなくない?」とストレートに言われることもあります。
ある友達は「立派な選択だね、僕はそこまで自分を犠牲にできないよ」と言ってくれました。

でも僕は、ボランティア精神でこの選択をしたわけじゃないんです。

自分の夢のためにこの決断をしたし「こっちのほうが可能性がありそうだ」という「勝算」があったからこの道を選んだんです。

なぜ縁もゆかりもない町に、新卒で飛び込むことにしたのか。
よりによって、吹けば飛ぶようなベンチャー企業を選び、シーツの洗濯に追われているのはなぜなのか。

そんな進路選択の理由と経緯をお話しします。

俺が社会を変えてやるぞ!と意気込んで東大へ

僕はもともと官僚をめざして東京大学法学部に入りました。

なぜか幼いころから「社会をよくしたいな」「地元を元気にしたいな」という思いがあったんです。

僕の地元は大分県です。過疎化が進んで母校は閉校になったし、通学路だった商店街にはシャッターが目立っていました。

高校生になった僕は「よっしゃ俺がなんとかしてやるぞ」と意気込んでいたんです。だけど、どんな仕事についたら「なんとかできる」のかわかりませんでした。

そこで、とりあえず官僚を目指してみようと思ったんです。世間からのバッシングもあったけど、現実とにらめっこして奮闘しているイメージがあったからです。

2年間も浪人させてもらいましたが、2018年の3月、僕はなんとか東京大学文科一類(法学部)に滑り込みました。

大学に入ってからは、学業と並行していろんな活動をしました。いろんな現場にお邪魔してフィールドワークしたり、官僚やNPOの方にお話を聞かせてもらったり。

1年間社会課題について勉強し、解決策を「政策」にして省庁に提案したこともありました。もっと現場を見てみたいと思って、福島県の飯舘村に毎週のように通った時期もありました。

そんな2年間を過ごし、だいぶ「わかって」きたんです。

自分が想像していたよりも社会はずっとずっと複雑で、たくさんの利害が絡み合っていること。ボランティアとしては成立する活動も、自走や継続を視野に入れた瞬間にうまくいかなくなってしまうこと。

それらは圧倒的な現実でした。そういう意味では「社会をなんとかしたい」と意気込んで入学した僕にとっては、順調な道のりだったんです。

ただ「どの進路を選べばいいか」だけは全くわからなかった。

社会について知れば知るほど、どの進路が正解でどれが不正解なのか、わからなくなっていきました。

官僚以外にも、民間企業やNPOなどさまざまな立場の人が社会課題の解決に携わっているんだと体感して。巨大すぎる社会課題に対して、自分に何ができるんだろうという無力感にも襲われて。

「就活」という文字が存在感を増してきた2年生の冬、気づけば僕の足は止まっていました。

そんなとき紹介されたのが、ある本でした。その1冊の本との出会いをきっかけに、僕の人生は思ってもみない方向に転がりはじめたんです。

現場に飛び込み、たくさんの人と出会う

僕が人生を変えられてしまったのは、高橋博之が書いた『都市と地方をかきまぜる』(光文社新書、2016)という本です。

もともと岩手県議会議員だった高橋さんは、東日本大震災をきっかけに農家や漁師などの生産者と消費者を直接つなげるサービスをはじめました。

また高橋さんは「関係人口」の提唱者でもあり、都市と地方の関係についても書いていました。

地方の衰退ばかり騒がれているけど、都会だって行き詰まっている。都市と地方を切り分けて考えちゃダメなんだ。これからは、都市と地方をかき混ぜて、生産者と消費者がゆるやかにつながるような社会をつくるべきだ。そんなことが書かれていたんです。

その本を読んだ僕は、雷に撃たれたような衝撃を受けました。うまく言い表せないけど、ビビッときたんです。

書かれてあったビジョンに共鳴したのはもちろんですが、なにより直感的に「この人の言葉には血が通っている」と思ったんです。高橋さんは文字通り全国を歩き回り、ひたすら現場に飛び込む人でした。

高橋さんから直接学びたいと思った僕は、高橋さんの会社がインターンを募集していないか調べました。だけど2017年以降は募集していないようでした。

それでも諦めきれず、僕は藁にもすがる思いでDMを送ったんです。

まだ何者でもなく現時点で自分が大きな価値を提供できるとは思いませんが、一次産業を、ひいては社会構造自体をより多くの人々が幸せを感じられる方向につなげていくために自らの人生を賭す覚悟があります。
学業については融通が効くため週に2・3回出社することも、1年以上継続することも可能です。
遠くの生産地への取材、オフィスでの掃除、鞄持ち、ドライバーなどなど、どんな仕事でも誠心誠意努めます。 肌で感じ、学ばせていただいたことを一次産業や社会の発展へ還元します。どうか自分に賭けていただけませんでしょうか。切によろしくお願いします。

高橋さんに送った文面の一部

こんな暑苦しくて厚かましい僕を、高橋さんは受け入れてくれたんです。

こうして2020年4月、1年間の長期インターン生活が始まりました。それは僕が3年生になった春で、ちょうど新型コロナウイルスが爆発的な流行を見せ始めた頃でした。

ここからはいつものように「博之さん」と呼ぶことにします。

働きはじめて1ヶ月が経っても、まだ僕は進路に悩みまくっていました。そんな僕を見かねて、博之さんがこんな言葉をかけてくれたんです。

きらくんは、いろいろ頭で考えすぎだな。どの進路にすすんだら「社会をかえられる」とか、官僚と民間のどっちを選んだほうがいいのかとか、そんなのいくら考えても答えは出ないよ。

これまで勉強はたくさんしてきたんだから、この1年は教科書をぶん投げて俺と一緒に全国の現場をまわろう。

こうして僕は教科書をぶん投げ、博之さんと一緒に現場をまわるようになりました。

大学の授業をオンラインで受けながら、ひたすら全国をまわりました。各県の生産者のもとを訪ね、夜は座談会で遅くまで語らう日々。

夢のような日々でした。全国各地のアツい大人たちから刺激を受けまくり、なにより「近くで学びたい」と憧れた博之さんとずっと行動を共にできたからです。

現地での運転はもちろん、訪問先のアポとりや講演会の会場手配、ロジ作成など、1人でなんでもやりました。鬼のように忙しかったし失敗しまくったけど、充実した1年間でした。

しかし、そんな夢のような時間の裏側で、僕の悩みはますます深くなっていきました。特にインターン生活も後半に差し掛かった2020年秋、僕は「はじめての問い」に直面し、ふさぎこむようになってしまったのです。

グチャグチャ悩みまくり、休学することに

各地で出会った人たちは、とにかく輝いていました。うまく言葉にできないけど、とてもキラキラして見えたんです。そして同時に、なぜか僕は負い目を感じ、自信をなくしていきました。

その人たちは別に経済的に成功しているわけじゃないし、なんなら借金を背負っている人もいました。まったく安定もしていません。

それでも輝いていました。みんな自分の人生にワクワクしているんです。

そんな人たちと会いまくる中で、僕は自分の人生をどう生きたいんだろうと考えるようになりました。

これまでの人生でそんなことは考えたことがありませんでした。それはたぶん、なんとなく「正解」が見えていたからです。

「勉強はしておいて損はない」とわかっていたから勉強もがんばったし「文武両道はすばらしい」という雰囲気があったから、運動部を積極的に選んだような気もします。

「正解っぽい選択肢」を選んで順応するのは得意でした。「ザ・優等生」って感じのタイプでした。

そんな人生を送ってきた僕が、突然「我が道を生きる大人」と大量に出会ってしまったんです。その出会いはもはやショッキングでした。

強く心が動かされたし、なぜか心がザワザワしました。

なぜ僕は地方創生に関わりたいのか、なぜ社会をよくしたいと思っているのか。ぜんぜんうまく答えられませんでした。

「いや、むずかしいことはいいからさ、きら君自身は何が好きなの?何を大切にしたいと思っているの?」と聞かれ、まったく言葉が出ませんでした。

混乱する僕をよそに、進路選択のデッドラインは着々と迫ってきました。

4年生を間近に控えた、2021年1月。この時期はちょうど2回目の緊急事態宣言とも重なっていて、社会の情勢的にも、自分の心情的にも、一気に人と会わなくなりました。

下北沢のはずれにあるアパートから、一歩も外に出ない日々。

緊急事態宣言の影響を受け、1・2月は博之さんのみが現場を訪問することになりましたが、事務まわりは引き続き僕が担当していました。

この頃にはSlackやメッセンジャーの通知音がこわかったし、博之さんの顔も見たくなかった。たまにオフィスに出社しても、顔を上げて社員の人と目線を合わせるのが怖くなっていました。

期末試験もあったし、就活も本格的にはじまっていました。でも動けませんでした。

なかなか寝付けない日が続き、別に見たくもないYouTubeをひたすら流していました。朝方5時くらいにようやく寝落ちして、日が傾きはじめたくらいに目が覚めて。

自己嫌悪から1日がはじまり「今日こそはやらなきゃ」と思うけど、身体が言うことを聞かなくて。やらなきゃやらなきゃと思いながら、ベッドの上で1日が過ぎ、日が沈んだ頃に「何か食べなきゃ」と思って、ベッドから身体を起こして。でも部屋を出てコンビニに行くことさえおっくうで、ウーバーイーツに頼ることが増えていきました。

休学を決断したのは2月の半ばでした。

今となっては休学してよかったと思うし、それっぽい理由をつけることもできます。でもほんとうのところは「やばい、このままいったら心が壊れてしまう」と思ったからです。就活から逃げた側面もありました。

「どう生きたいのか」という初めての問いに戸惑い、進路決定のリミットからも逃げたかった僕は、休学させてもらい、1年間だけ時をストップすることにしたのです。

休学中にやったこと

3月末で1年間働かせてもらった博之さんの会社も辞め、まっさらな状態で僕の休学生活はスタートしました。「高橋博之」というフィルターを通してではなく、自分の目でじっくり社会を見てみたいと思ったからです。

一緒に全国をまわっていた頃、博之さんはこんなことをよく言っていました。

「旅行」じゃなくて「旅」のように生きてみろ。事前に目的を決めてスケジュール通りに行動しなくたっていい。たまには行き当たりばったり、自分の感覚を大事に行動してみろ。

やりたいことなんて、頭で考えても出てこないよ。目の前のご縁を大切に、たくさんの人と会ってみろ。たくさん失敗して恥をかいてみろ。そしたらいつか、目的のほうがお前を見つけてくれるから。

こうした言葉を聞きながら「なんだかわかるようでわからないなあ」と僕は思っていました。

でもせっかく休学したし、この1年だけは言う通りやってみるかと決意し、いろんなことをやってみたんです。

軽自動車を借りて1人で全国をまわったこともあったし、北海道でいちばん小さな村に1ヶ月住んだりもしました。

1人で全国もう1周。各地でたくさんの人に再会しました。

縁あって北海道で1番小さな村 おといねっぷ村に滞在

屋久島には2ヶ月滞在しました。ゲストハウスでアルバイトをしながら、毎日のように地元の小学生たちと遊び、いろんなゲストさんとお話しさせてもらいました。

毎日一緒に遊んだ(遊んでくれた?)麦くん

そんな日々を過ごすなかで、ゆっくりゆっくり変化していく自分がいました。

「〇〇があったからこれに気づいた!」と言えるほど明確じゃないけど、何かがじわじわと熟成している感覚があったんです。

たとえば、失敗をおそれずにチャレンジするようになりました。

僕の1番のトラウマは「泳げない」ことです。昔から水が怖くて洗面器に顔をつけるのも嫌だったし、人目を気にしてしまう僕は「泳げない自分を見られること」も大嫌いでした。だからずっと水泳の授業を避けて生きてきたんです。

だけど屋久島に行くと決めたとき「変わるなら今しかないな」と腹を決めました。滞在初日、僕は思い切ってトラウマを告白し「泳ぎを教えてください」とお願いしたんです。

それからは毎日のようにビート板をもって海に通い、小学生やゲストハウスの同僚に泳ぎを習いました。

最終的にはだいぶ泳げるようになったし「うまくできないことって、そんなに恥ずかしくないんだな」と思うようにもなりました。

じんわりじんわり博之さんと過ごした1年間が消化され、血肉となっていきました。

ついに進路を定める

1年間の休学を終え、2022年4月、僕は4年生になりました。最終的に進路を決定したのは秋頃でした。

結局4月から僕は、宮崎県の都農町(つのちょう)にあるベンチャー企業で働いています。例のシーツ干してる会社です(笑)。

ホステルの運営もやっていますが、商店街再生や廃校活用、小中学生のキャリア教育など「まちづくり業務」を町と連携して行っている民間企業です(株式会社イツノマ)。

ここからはなぜその道を選ぶことにしたのか、もう少し具体的にお話ししたいと思います。

「正解を選ぶ」のではなく「正解をつくる」生き方に憧れたから

休学し1年間の猶予をもらったことで、少しずつ自分の感情が整理されていきました。

休学する直前の僕は、どの進路を選べばいいかわからない、どの生き方が正解なのかわからないと悩んでいました。一方で、各地で出会う大人たちはみんなキラキラして見えて、僕の目からは「正解」の生き方をしているように見えたんです。だからこそ悩み、グチャグチャになっていました。

そうして休学に追い込まれたわけですが、思い切って悩むことを辞めてみたんです。実際はウジウジ悩むこともあったけど、意識的に目の前の偶然に身を任せるようにしてみました。博之さん流に言うと「頭で考えるのをやめて、心に任せてみた」んです。

するといつしか「何が正解で、何が不正解か」と考える機会が減っていきました。目の前にある選択肢から選んでもいいし、自分で選択肢をつくってもいい。別に何度だって選び直していいし、自分の好きにすればいい。

言葉にしちゃうとすごくシンプルで当たり前です。でも時間的な猶予をもらい、様々な境遇の人とじっくり話すことで、その「当たり前のこと」が腹落ちしていったんです。

結局僕は、人生の舵を自分で操縦している人に憧れていて、そういう人をかっこいいと思っていたんです。

現場に入り泥臭く動いている人に憧れたから

もう1つ、僕は自分の感情が動く瞬間を自覚しました。

現場に身を置いて、日々理不尽と闘っている人。一気に変えることはむずかしくても、1ミリでも前に進めようと泥臭く行動している人。僕はそんな人にどうしようもなく感情を動かされるみたいなんです。

社会をよりよくしていくためには様々な役割が必要で、東大の先輩方や同期たちも色んなポジションで奮闘しています。課題を分析して解決策の方向をまとめる人も必要だし、人材や資金がうまくまわるように制度を整える人も必要です。

でも僕は現場に入り、泥臭く実行していく人に惹かれるし、そういう人がもっと増えることが、社会をよりよく変化させていくための大きな一歩になると直感しているんです。

だから現場からキャリアをスタートさせたいと思うようになりました。

そんな大人がいっぱいいたから、都農を選んだ

地元でもなんでもない都農を選んだのは「自分の人生にワクワクしている大人」が1番多いと感じたからです。

やりたいと思ったことをやり、自分なりの正解を切り拓いていく。必要だと思ったことには何度でもアタックし、仲間を巻き込んでやり遂げる。

そんな暑苦しい大人が都農にはいっぱいいるんです。休学期間の最後の4ヶ月は都農町で生活していましたが、僕はどんどん都農にのめり込んでいきました。

たとえばこんな人たちがいます。

都農町は2010年、家畜の伝染病である口蹄疫の発生源となり、深刻な打撃を受けました。人の往来まで制限され活気がなくなっていた町を「ボールでも蹴って楽しもうや」と、誰でも参加できるPK大会を企画した町民(今では蹴-1 GPとして、子供も高齢者も障がい者もみんな参加できるPKの全国大会に)。

せっかく豊かな農畜産物があるんだからと、ふるさと納税に着目して全国2位まで納税額を押し上げた役場職員もいます。彼は町内の事業者を1軒ずつ口説いてまわったり、他の役場が12月前半で窓口対応を停止するところを、駆け込み需要に備え、年末ギリギリまで1人で対応したそうです。

キッザニア東京やMUJI HOTELなど数々の企画を手がけ、まちづくり界隈ではある程度名の通っていたUDS株式会社の社長。その地位を50半ばにして捨て「人生100年時代なら、今からが後半戦だ」と、東京から都農町に単身移住しちゃった起業家。

こんな大人が都農にはゴロゴロいるんです。ぜんぜん書き切れないので、ぜひ都農町に遊びに来てください!シーツお洗濯して待ってます(笑)(まちづくりホステルALA

僕が社会問題の解決にこだわる理由

なぜか昔から社会問題の解決に興味がありました。

高校生のときから「俺が社会を変えてやるぞ」と意気込んでいたし、大学に入って悩みはしたけど「社会をよくする仕事がしたい」という軸だけは一貫しているんです。

なぜそんなに社会問題の解決をしたいのか。なかなか自分でも答えが出せず困っていましたが、最近ようやく言語化できた気がします。

どうやら僕の本質は「おせっかい & ナルシスト」のようなんです。

「誰かがやらないといけないこと」があると「じゃあ俺がやるよー」と言わずにはいられない。別に誰かに頼まれたわけじゃないのに、自主的にやりたくなるし、そうやって率先して取り組んでいる自分が好きなんです。

社会問題なんてその典型です。

誰かが取り組んだほうがいいけど、なかなかみんなやりたがらない。一生懸命取り組んでも、そんなにお金にはならなそう。

そこに無性に惹かれてしまうし、何より率先して取り組んでいる自分が好きなんです。自分の行動の結果、社会にポジティブな変化が生み出せたら、もうほんと最高の気分になっちゃうんです。

ああやっかいな性格をもってしまったなと思います。でもこの性格に気づいたことで、ある意味自分に「あきらめ」がつきました。だから思い切って人生の舵を切ることができたんです。

これからについて

「社会をよくする仕事がしたい」と思って東大に入り、博之さんと出会ってからはひたすら現場に飛び込みました。大学生活の後半ではたくさん迷い、1年間の休学までさせてもらいました。

そして行き着いた先が、ド田舎のベンチャーへの就職です。

自分でも親不孝者だなと思います。幼少期から塾に通わせてもらい、2年間も浪人させてもらい、学費も下宿先の家賃も両親に出してもらいました。

直接的に言われたことはないけど、せっかく東大まで行ったんだし、もっと安定したお給料の高い会社に就職してほしい気持ちもあったと思います。それでも両親は、何も言わず「あんたが悩んで、自分で出した答えならそうすればいいよ」と背中を押してくれました。

ほんとうに感謝してもしきれません。

しばらくは金銭的な意味での親孝行はできないかもしれないけど、実は1つだけ心に決めていることがあります。

ー ー ー

僕が生まれ育ったのは大分県別府市です。湯の町べっぷは、町の至るところに温泉があって、実家にも温泉がありました。マンションでしたが1階が共同浴場で、住人と一緒にお風呂に入っていたんです。

中学生くらいになると僕も一丁前に反抗期をむかえ、父や母と会話する回数は減っていきました。それでも毎日、お風呂だけは父と一緒に入っていました。

20時くらいになると「りーん、風呂いくぞー」と言われ、そそくさとエレベーターで1階に降り、共同浴場へ行くのが日課でした。

だから父と直接会話する機会は少なかっけど、父とおじさん達の世間話は毎日聞いていたんです。このお風呂の時間が、どうも僕の価値観に大きく影響を与えたみたいで。

思い返してみれば、父も母も妹もみんなおせっかいな性格です。両親とも学校に勤めているんですが、口ぐせのように「誰かがやらんとしょうがないから、俺が・私がやるんよ」と言っていました。そしてブーブー文句を言いながらも、誰かに感謝された話を、とってもうれしそうにしゃべるんです。

どうやら温泉成分と一緒に、そうした「おせっかい魂」がぼくの体にも染み込んでいたようなんです。

僕はそんな家族のもとに生まれたのを誇りに思っています。新卒でいきなりど田舎のベンチャーに就職するのは、実際かなりリスクのある決断だと思います。でも、その道こそが「社会をよりよくする」という目標に近づくうえでは最善だと、今の僕は考えています。

今すぐに直接的な親孝行はできないかもしれないけど、誰かのために一生懸命がんばるという生き方を僕も貫きたい。そのおせっかい魂だけは一生大事にしたい。そう思っています。

ー ー ー

たくさん悩んだし、今だって完全に進むべき道が見えたわけではありません。またしばらくしたら、悩んじゃうかもしれません。

だけど1つだけ言えるのは、より人生が楽しくなったということです。

たくさんの出会いに恵まれ、理解し支援してくれる環境にも恵まれました。だからこそ自分の深くにある思いに気づき、人生の舵を大きく切る決断ができました。

不安定だしコスパも悪く、リスクも多いけど、今はすごくスッキリしています。「納得した人生を送る」という意味での「勝率」は、劇的に上昇した気がするんです。

これからもたくさんの人に助けてもらいながら、目の前の物事に真摯に向き合っていこうと思います。そして、都農のアツくてちょっとやんちゃな大人たちに揉まれながら、自分にとっての「正解」を切り拓いていきます。


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