DFree株式会社
トリプル・ダブリュー・ジャパン株式会社の企業サイトです。会社情報、ニュース、採用情報などをご紹介しています。
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はじめまして。モノづくりを楽しみ、本気で没頭する会社、83Designです。
モノづくりにおいて私たちが大切にしているのは、“ワンチームで楽しむ”こと。ワンチームというのは、私たちを選んでくださるクライアント様、生産ラインを担う職人さん、このモノづくりの過程に関わるすべての人たちを示します。
創造者みんなの想いが込められて、はじめて良いプロダクトができる。そのプロダクトがユーザーの手にわたり、あたたかみや想いが伝播する。手触り感あるモノづくりの過程をご紹介するストーリーです。
そこで今回お話しするのが、介護問題を抱える世界 50 か国以上から注目を浴びる、排泄を予測するウェアラブル機器「DFree」。
その開発を進めるDFree株式会社代表取締役の中西敦士さん、CTOの正森良輔さんに加え、プロジェクト初期から参画し、技術検証、UX検証を行いながらプロダクトデザインやプロジェクトのツール開発を担当した83Design矢野が登場。立ち上げから現在に至るまでの開発ストーリーについて語り合います。
中西敦士
DFree株式会社代表取締役。
慶應義塾大学商学部卒。大手企業向けのヘルスケアを含む新規事業立ち上げのコンサルティング業務に従事。その後、青年海外協力隊でフィリピンに派遣。2013年よりUC Berkeleyに留学し、2014年に米国にてTriple Wを設立。2015年に当社設立。主な著書に「10分後にうんこが出ます-排泄予知デバイス開発物語-」 (新潮社)。
正森 良輔
DFree株式会社CTO。
大阪大学大学院工学部研究科修了。英国サセックス大学国際教育開発学修士課程修了。オリンパスメディカルシステムズにて医療機器である内視鏡のアクチュエータ開発に従事。当社創業時より研究開発を統括し、超音波の技術と排泄予測に関する特許多数。
排泄のタイミングを超音波でモニターするウェアラブルデバイス。排泄のタイミングをスマートフォンなどに段階的に通知することができ、排泄を自立的に行うことをサポートする。高齢者施設などでは、介助するスタッフがトイレ誘導やオムツ交換のタイミングをしっかりと把握できるため、入所者のQOL向上にも貢献している。
——はじめに、中西さんと正森さん、矢野さんの出会いはいつだったんでしょうか。
中西:最初に出会ったのは、2014年8月のサンフランシスコだったよね。
矢野:僕は車椅子のスタートアップ・WHILLの杉江理さんと友人で、サンフランシスコにいる彼にたまたま会いに行っていたんです。そうしたら、「デザイン会社のパーティがあるから、挨拶に行こう」という話になって。
そこで、「“ウンチ”でビジネスをやろうとしている方がいて、デザイナーを探しているからヘルプしてあげてよ」と言われて、中西さんを紹介してもらいました。でも、あのときは30分程度しか話をしていなかった。
中西:そう、全然話をしていない。
矢野:でも、「こんなことを考えている」というのを聞いて、「すごくいいじゃん」と思ったんだよね。その日の夜には、中西さんから「本当に手伝ってほしい」というメールを改めてもらって。
中西:「でも、お金は全然ないからね」という話もした(笑)。
矢野:「それでも手伝うよ」ってね。
中西:当時、僕はアメリカで起業して、OPTという1年間働ける制度を使いながら、どうにかDFreeを形にしようとしていたんです。翌年の2、3月までアメリカにいたから、その後も全然矢野さんとは会えなかった。
矢野:次はオンラインだったからね。そのとき改めてビジネスの進捗状況を確認して、その上で僕にどんなことができそうかを伝えて、「じゃあ、具体的に何をしようか」みたいな。
中西:それが8月の後半だったはず。
矢野:9月に入ると、「ジョインしてくれる高校の同級生がいる」という話を聞いて。その人がちょうど海外から帰ってきて、大阪に帰省しているということだったので、会いに行くことにしたんだ。それが正森さんとの出会いだよね。
正森:そういえば、あのとき新今宮の小さいお寿司屋に行ったね。懐かしい(笑)。
矢野:正森さんは元々オリンパスで医療機械の開発をやっていたし、大学院では工学の研究もしている。だとしたら、僕はブランディング、そして工業デザイナーとして体を張ればいいかなということで、なんとなくプロジェクトが始まったんだよね。
——矢野さんは、そもそもなぜ中西さんのプロジェクトに興味を持ったんですか。
矢野:あのとき、ちょうど30代に入るときだったんですよ。工業デザインを大学で学んで、デザイナーとして10年弱のキャリアになった頃ですね。
それまで僕はコンシューマープロダクトに携わることが多かったんだけど、そういうものって早いものだと数か月できえてしまう。なので、「もうちょっと意味のあること、ソーシャルグッドなことをやりたいな」と思い始めていて。
そのタイミングで、10日間ぐらいクライアントワークをお休みして、アメリカにいる友人のところに行ったんです。というのも、杉江さんは元々企業でデザイナーをやっていた経歴があって、退職後にソーシャルグッドな商品を開発する会社を立ち上げているんです。
そういう経緯を以前から聞いていたので、「彼ととの話をきっかけに、何か意義のあることをみつけたいな」と思っていたんですよね。
中西:……そうしたら、「ウンチを漏らした経験を生かして、ビジネスをやろうとしているヤツがいる」と(笑)。
矢野:だから、ドンピシャな感じだよね、僕としては。
——一方で正森さんは、中西さんの中学、高校の同級生ですよね。プロジェクトには、どのように参画したのでしょうか。
正森:プロジェクトの話を聞いたのは、まだイギリスに留学している最中ですね。「外の世界に飛び出してみよう」と思ってオリンパスを辞めて、そこから海外青年協力隊に行って、その後にイギリスで教育学を学んだんです。それで、9 月に卒業して日本に帰って来ようとしていたタイミングだったので、「これからどうしようかな」と考えていた矢先でした。
ただ、中西のプロジェクトは面白いと思いつつも、超音波に関してはほとんど知識がなかったので実現できるのかという不安はありました。ただ、古くからの付き合いである中西からのお誘いでもあったので、「これも縁かな」という感じで協力することにしました。
そこで、矢野さんと出会ったんですけど、聞けばみんな同じ歳なんですよね。だから、最初に会ったときから「タメ口で行きましょう」という感じでした。その輪の空気感が、やっぱり気持ち良かったんですよね。楽しかったというか。「自分たちの手で、何かを成し遂げるかもしれない」という感覚もあったのかもしれないな。
中西:そういえば、国立大学で超音波を研究している先生教授をつなげてくれたのは、矢野さんだったよね。
矢野:そうそう。友人に相談したら、先生を紹介してくれたんだよね。その後すぐに国分寺のスタバで会うことになって。そのとき「面白そうだけど、実験が必要だよね」ということを言われたんだよ。それで、その先生の知り合いの方の会社なら実験ができるかもしれないということになったんだ。
その日、先生から超音波の話をいろいろ聞いたけど、知識がなさすぎて本当に何がなんだかわからない状態だったな。「そもそも、ドップラーって何ですか?」というレベルだったから。
正森:その後、マイクロソニックに泊まり込みながら、「超音波って、何だ?」という実験をしていったんだよね
——どんな実験を行ったんですか?
矢野:最初にやったのは、「便意を人が感じるメカニズムってどうなってるの?」という実験ですよね。たまたま83Designの社員の実家が大腸肛門科だったので、そのお父さんのところで便意を感じるメカニズムを教えてもらって。
「……だとしたら、こういう実験をして、直腸に変化を与えたら便意を感じるかもしれない」「それを超音波で見ることは可能なのか」ということを一つひとつ考えて、1か月半くらい実験していったんです。
中西:ビニールシートを敷いて実験したこともあったよね。
正森:結局、「体内のウンチを超音波で見ようとしたときに、ウンチがどこにあるのか」を知る必要があったんだよ。でも、超音波で身体の中をみたときに、何がなんだかわからない。そもそも「どこが直腸なのか」がわからない。
矢野:そうやって考えていると、いろんな疑問が浮かんでくるんだよね。「モニター上に何か写っているけど、これは本当にウンチなのか」とか。だんだんわからなくなってきて、最終的に「下に何かを入れて便意を感じるのかどうかは、そのときの直腸の状態を見るしかない」という結論に至って、自然と「もう何か突っ込まなきゃダメじゃない?」と(笑)。
正森:まあ、男しかいない現場だったしね(笑)。
中西:矢野さんは下剤を飲んだり、浣腸したりして、限界ギリギリまで我慢するということもやっていたよね。
矢野:やった、やった。もう、知らないことが多すぎたんだよ。一つひとつのステップを踏んで知っていったとしても、実験からわかったことが別の結果にどう関係してくるのかも理解しないといけないじゃない?そのために、また違う実験をして……という繰り返しだったしさ。
正森:本当に最初の頃は、超音波と体のことをいろんなところで話して、わからないことは改めて人に教えてもらって、あとは自分たちで実験するということばっかりだったよね。
矢野:そこで得た知識や実験結果を、Facebookに「腸内白書」というページを作って情報共有をするようにもなって。一方、中西さんの方では、アメリカで「どうやったらビジネスに必要な資金を集められるか」ということを考えてもらっていたんだよね。
——11月には、投資家に対してプレゼンテーションを行う「US-JAPAN Pitch Battle」にも参加します。そこで、矢野さんはピッチ用のデザインワークも担当していますね。
矢野:ピッチで必要なハードだったり、アプリのコンセプトデザインだったり、ツール関係はすべてデザインしたと思います。
中西:名刺のデザインもやってもらった。弊社の名刺というのが、最初すごいやつだったんですよ。なんというか、ホストクラブみたいな感じというか。
正森:そうそう、全体が黒いやつ(笑)。
矢野:そこで「これはさすがにDFreeのプロジェクトとイメージギャップがありすぎるよね」という話になって。あと、当時は他のサービス展開も検討していたので、会社として割とプレーンな見せ方の名刺をつくる必要があると思ったんです。
正森:あとは、ピッチで流すコンセプトムービーもつくってもらったよね。今でもYouTubeで観られると思う。
矢野:排泄のことを調べていて、本当にいろんなところで困っている人がいるということを知ったんですよね。そこで、排泄にまつわる課題をギュッとまとめて、困っている人たちに「どんな環境だったら、生活がちょっとポジティブになるのか」を直感的に伝えようと思ったんです。
最初に言葉ベースで映像のたたき台を書いて、あとは映像チームのディレクションを行った感じですね。キャスティングも含めて数週間しかなかったけど、本当にみんながんばってくれたと思います。
——このような工業デザイン以外のワークも、DFreeというアイテムをつくるために必要な作業だった、と。
矢野:「新しいサービスをつくる」となると、モノの背景にあるものもちゃんとやらなければ、意味がわからなくなってしまうじゃないですか。だから僕としては、開発に必要な実験もするし、モノの価値を伝えるツールもつくるという……。
そもそも、「まだ世の中にないモノ」をつくっているわけですからね。「こういうものですよ」と口で言っても、なかなか伝わらない。だからこそ「感覚的にわかってもらうような何かが必要だ」と思って、ムービーを制作したり、リーフレットや名刺も制作したりしました。
あと、ピッチにはプロダクトそのものも必要じゃないですか。だから、「技術が将来的にこうなったら、これくらいの大きさになります」というのをイメージできるデザインモックも制作して。もちろん、不確定要素が多い状態だったので曖昧な部分もありましたけど、当時の状況の中では万遍なくやり切ったかなと思いますね。
中西:当時の開発状況を考えると、けっこうしっかりとしたモックをデザインしてもらったよね。
矢野:やっぱり、後々になって「あの形は実現できませんでした」では良くないからね。一応、携帯電話のエンジニアの友人に意見を聞きながら、防水などの機能面も含めてある程度実現性の高いデザインにしていった感じかな。
中西:あのときのピッチに参加していたのは、12企業。1位を取ったのは「3Dプリンターで服を作る」というアメリカの会社で、2位は視線追跡型のVR機器を作る「FOVE」という秋葉原にある会社だったんだよね。DFreeはそれに続く3位。みんなのおかげで、ようやくプロジェクトが前進したという感じがあったな。
——その後、DFreeの試作を重ねていく最中で、介護施設にヒアリングも頻繁に行っています。
矢野:施設のヒアリングを始めたのが2015年の1月ぐらいかな。主に正森さんに試作品を持って行ってもらって、その場で使ってもらって……。その場で可動しないなんてこともあったよね。
正森:その場で急きょ直したりしてね(笑)。結局、2017年に製品化するまで、α版、β版、γ版、δ版くらいは試作品をつくったと思う。
矢野:その制作過程では、いろんなメーカーに問い合わせもしました。そもそもDFreeは体にぴったり着けておく必要があります。その「どうやって密着させるか」が問題なんです。そこで、材料メーカーさんと材料も相談させてもらいました。すると、「皮膚の表面を動かさない素材がある」ということだったので、サンプルを取り寄せました。自分たちでも一つひとつ試したりしながら、仕様を決めていく感じでしたね。
その後も素材の質感を確認するために、テープメーカーさんや樹脂メーカーさんにも連絡を取ったりして。あとは、当時はクラウドファンディングに向けて量産体制をつくらないといけなかったので、OEMメーカーさんにもいくつか当たり始めていたと思います。
——クラウドファンディングは2015年の4月24日から7月23日までのプロジェクトでしたよね。なぜ、クラウドファンディングに挑戦することになったのでしょうか。
中西:当時、ハードウェア系のスタートアップというのは、クラウドファンディング一択だったんですよね。幅広く資金を集められる上、どれだけ注目を集めているかもわかるから、具体的な商品の価値を投資家にも示せる。だから、「やらない理由ないよね」と(笑)。
少しだけ関係があった「READYFOR(クラウドファンディング)」を利用したんですけど、結果的に目標だった1200万円に達して、当時だと日本の中でトップ5に入るくらいの成果をあげることができたんです。
——でも、このときのお金は後に返金することになりましたよね。
中西:そうなんです。「1年後にこの商品を出します」と言っていたんですけど、開発を進めていくうちに「……絶対できないだろう」ということになって。実際、尿の開発だけでも、その後の2、3年を費やしましたし。今振り返ってみると、「あのときの判断は、間違いなかったかな」と思いますね。
矢野:僕は当時、クラウドファンディングをやるのは反対で。でも、あの挑戦をしたからこそ、ここまでクオリティの高いモノをつくることができたとも思うんだよね。会社としてもポジティブな面もあったのは事実。
中西:当時は、とんでもないプレッシャーだったからね。
正森:まだ何もできていないのに、「確実に製品を出さないといけない」というわけだからね。
矢野:最初は「マーケット調査を含めてやってみましょう」という感じだったんだよね。そうしたら、スタートしてすぐにYahooのトップニュースに載ってしまって。その反響がすごくて、Facebookページにメッセージが毎日来てしまった。
正森:日本だけじゃなくて、海外からも来ていたよね。
矢野:あのとき、「本当にヤバイ」と思いました。「排泄に関して困っている人たちがいる」というのはわかっていたつもりなんだけど、メッセージを通じて「こんなに切実に求めている人がいるんだ」ということをより肌で感じて。なんと言うか、あのとき「俺たち、ヤバイことをしているよ」という感覚が芽生えたんだよね。
——その後、尿の排泄予知を中心に開発を進めていくことになります。
中西:それを決めたのは、クラウドファンディング中の5月ですね。僕は一度アメリカに戻っていたんですけど、正森から「便をやるには、まず尿を形にしないといけない。それに、商品をちゃんと世間に出さないと、チームみんなの気持ちを引き止められない」と言われて。
それで「尿から商品化を目指そう」と。実際、尿の排泄予知なら製品化できる可能性はあるけど、便はまだまだ難しい問題がたくさんあったので。
正森:でも、あのとき社長が「尿で行こう」と振り切ってくれたので、開発としてはかなり気持ちが楽になって。「ようやく集中できる環境が整ったな」という感じがしました。
矢野:便と尿だと、そもそものサービスも、モノも大きく変わる。そもそも、当時は「どういう人にサービスを使ってもらうのか」「どういう売り方をしていくのか」というところもまだ曖昧な部分もあったし……。
尿の場合、オムツを穿いていると数回分は吸収されてしまう。そうすると、介護施設では「ある程度は時間を置いても大丈夫だ」という意識が生まれるようなんです。
——尿の排泄予測用のDFreeが製品化したのは、2017年の4月でした。
矢野:「……やっとできた」という感じだよね。
中西:ハードウェアというのはいろんな種類のエンジニアが必要で。電気回路設計エンジニア、機構設計エンジニア、ファームウェアエンジニアというように、いろいろあるんですよ。最初につくらないといけないのが回路になるよね。
正森:そうだね。設計いただいた回路図をもとに、基板をつくってもらったんですけど、できあがったものが期待通りの動きをしてくれないんです。
しかも、動かない原因がわからなくて、エンジニアの人たちにお尋ねするしかできなくて。
矢野:今だったら……というのはあるけど、当時は何もわかっていないしね。
中西:そういえば、ピッチのときにつくってもらったモックは、厚さ何mmだったっけ?
矢野:記憶だけど、7、8mmくらいじゃないかな。だから、今のDFreeの形は、当時の理想にだいぶ近づいてきているよ。
中西:「なんとかピッチのときの形に到達しないといけない」というのを目指しながらハードウェア改良を続けて、約6年か……。今のこのサイズは、本当に良いよね。
正森:装着感は、一番良いと思うよ。
矢野:成形についても、トライしているレベルがちょっとずつ上がっているしね。最初はそこまで予算がかけられなくて、シンプルな筐体でハードルも低い設計だったじゃない? でも、今はユーザビリティの向上のためにも難しい成型や製造を徐々に取り入れることができるようになってきている。
中西:便の排泄予知についても、ある程度の精度のものができあがってきているしね。これをさらに加速させていくためにも、どんどんハードウェアもソフトウェアも改良していく必要があるという状況かな。
——最後に、矢野さんは今回改めてDFreeのプロジェクトを振り返ってみて、どうだったでしょうか。
矢野:そうですね……。確かにいろいろやったプロジェクトではあったんですけど、他の工業デザイナーにしてみれば、「その仕事は、他のデザイナーがやるべきところでしょ?」と思われるようなこともやっていたのかな、と。
……でも、やってみないとわからないことって多いじゃないですか。そういうことにも向き合おうとすると、いわゆる工業デザイナーの枠で縛られていては難しい。特にヘルスケアのウェアラブルデバイスの場合、装着感が大事ですよね。
しかも、DFreeのように下腹部につけるものだと、違和感を消すということがとても重要。この部分をうまくデザインしないと、プロダクトを受け入れてもらえなくなってしまうと思うんです。「そこに対しては、工業デザイナーとして愚直にこだわり続けないといけない」という想いはずっとあります。
正森:その愚直さは、DFreeのプロジェクトにおいてすごく重要だったと思うよ。
中西:確かに。僕たちが目指しているのは「より良い人のために、より良い世界のために、歴史的な何かをつくろう」ということ。そういうことを具現化していくには、既存のデザイナーの動き方では不可能だと思うしね。
本来のデザイナーとしての枠を超えてて挑んだモノづくりは、世にまだない価値を生み出しました。「それはいデザイナーが担当する仕事なの?」ではなくて、そこにあるのは“興味”と“良いものを作りたい”という情熱だけです。
工業デザイナーとして、私たちと一緒に働きたい!まずは話しを聞いてみたい!こう思っていただけるのであれば、ぜひカジュアルにお話ししませんか?