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「自分の子供がもしセクシャルマイノリティだったら、正直嫌だな」

Photo by Austin Schmid on Unsplash

恥ずかしながらこれは8年くらい前に、僕の口から出た言葉です。

最近のニュースで政治に関わる方々がセクシャルマイノリティに対して「気持ち悪い」とか「近所にいてほしくない」とかって発言を拾われて炎上的なニュースになってるわけなのですが、自分も7,8年前までは同じような感性を持っていたような気がします。多分、最近のニュースで見え隠れする人の本音みたいなのに近いものだったと思うんですよね。リベラルぶって澄ましたような顔をしながら、実は腹の底では”普通”という感覚を持ち続けて理解には遠く及んでいなかった無責任な過去の自分を反省しながら、どうしたらこのような固定観念や常識に基づく考えから解脱できるのかについて書いてみたいと思います。

対岸の火事だからこそのなんちゃってリベラル

「LGBTQの権利も認めよう」
「セクシャルマイノリティを理解しよう」

という話が最近では声高らかに叫ばれるようになりましたよね。僕が子供のころの、身体は男性・心は女性という人は”オカマ”と呼んで嘲笑する対象以上の意味で存在してはいけないような印象すらあった時代に比べれば随分と理解は進んでいるのではないかなと感じてます。オカマ、ってもう言わなくなりましたよね。しかし一方で、冒頭の「なんちゃってリベラル」は氷山の一角で、実際には表面上は理解があるように取り繕っているけど心の中では「自分の人生には関係ない」という前提でリベラルっぽく振舞っている人もそれなりにまだまだいるのではないかなあと思います。世の中でなんとなくセクシャルマイノリティを大事にする風潮があるからそれに合わせておこうとか、そういう同調圧力が入り口の理解はどこか他人事になりがちです。

もし自分の子供がセクシャルマイノリティだったら?

先述した通り、ファッション感覚でリベラル的な思想を持っていた自分も、その浅薄さに気付かされる時が来ます。もう随分前のことになりますが、妻とまだ恋人同士で付き合ってた時のことです。将来の話をしていて、「自分たちの子供がLGBTQだったらどうする?」という質問を妻から投げかけられた僕はタイトルの通り「正直嫌だな、普通でいたほうが人生楽じゃない。」という回答をしていました。

僕の妻は非常に温厚で物静かな性格なのですが、このやりとりの時は珍しく感情を露わにしていました。「信じられない。おかしい。」と。

僕自身も混乱してました。海外生活歴もありセクシャルマイノリティの友人もいて、理解度についてはそれなりにプライドを持っていたところ、実は自分は”理解してるフリ”をしていただけで依然として差別的な思想を持っていたという現実を突きつけられたからです。

冒頭の政治に関わる人たちの発言と全く同じ思考回路ですよね。「(自分たちとは関係ない世界で誰にも迷惑かけずに勝手にやってくれる分には構わないという意味で)セクシャルマイノリティを理解している」という、まさにポーズだけ、というわけですね。

フィンランドの妻の実家で知る真のリベラル

さて、そんなファッション感覚でリベラルを装ってた自分を知ったところで、今度はフィンランドの妻の実家へ挨拶に行く機会がありました。

正直、向こうに挨拶に行くのは少し怖かったです。いくら親日なイメージがあるとはいえど、やっぱり日本人としてはなんとなく欧米の人たちに対して劣等感を感じていましたし、逆に日本人のボーイフレンドなんかが遊びに来たら「アジア人」というだけで怪訝な顔をされてしまうんじゃないか、現地的にはマイノリティにあたる自分の存在は本当は否定されるのではないか、と思っていたからです。

結果としては、「アジア人だから」という劣等感を勝手に抱いていた自分のことが馬鹿らしくなるくらいで、向こうの家族はそんな意識は一ミリもなく、普通に「娘の恋人」として僕のことを迎えてくれたわけです。その後結婚もして現在に至るまで7年くらい経つわけなのですが、これまで一度たりとも向こうの家族や親戚の誰からも奇異な目で見られたり差別を受けたと感じることはありません。「妻の夫がアジア人で日本人だということに抵抗はないのか?」と、義父とサウナに入っているときに思い切って一度聞いてみたことがありますが、義父の回答は「え?なんで?娘が幸せなら別に国籍も人種も性別だって関係ないんじゃないか?」というあっさりしたものでした。

セクシャルマイノリティとはまたテーマが違いますが、真のリベラルな思想とはこういうものなのだと思っています。自分の人生の宝物とも言える我が子がマイノリティになるとしても、本人が選んだ幸せならそれで良い、とノータイムで言い切れるくらいの思想こそが真の理解だと言えるのだと感じています。

前だけ見てれば”普通”なんて気にならなくなる

自分はたまたま「自分が差別的な思想を持っている」ということを認識する原体験があったからこそこうした認識に至ることができたというポジショントークな話ではありますが、最近のニュースなどを見ていて少し思うところもあり、こういう原体験をシェアして一石を投じられたらいいなという思いで今回は書いてみました。

過去の自分を振り返ってみると、先述したようななんちゃってリベラルになってしまっていたのは、人生の拠り所が”普通”になっていたからだと思うんですよね。「横を見て正しさを察しろ」と暗示的に教育されてきた僕らにとって、"普通"は生き方の軸そのものであり、そこから外れている人のことを見下したり蔑んだりすることで自分の存在意義を見出してきた節はあると思うんです。でも、やっぱりそういう誰かを排他するイデオロギーの上にしか成り立たない人生って悲しいですし、僕らの時代で終わりにしたいですよね。同調圧力とか事なかれ主義とかそんな自分の人生の主観を放棄した生き方はやめて、みんなで前だけ見て生きていれば、人それぞれの違いなんて気にならなくなるはずです。多様であることこそが”普通”で、もっとみんながお互いを認め合う楽しい社会になるといいなあって、心の底から願っています。

「制度を改正すると、家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ」なんて言わずに、価値観はどんどん変えていってほしいし、変えていきたいですよね。僕らの未来を生きる人たちが少しでも生きやすい世の中にできるようにすることが、今を生きる僕らの使命の一つだと信じています。

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