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【急募】「何のために勉強するのですか?」に対する"気の利いた"回答

こんにちは、田中です。

センター試験も終わり、受験もいよいよラストスパートで、中高大それぞれの受験生がそれぞれの第一志望に向けて最後のひと踏ん張りということで歯を食いしばって頑張っています。

私自身、中学・高校・大学とすべての受験を経験しており、これが意外と珍しいことだとこの仕事を初めてから気づき、また私の場合は特に中学生の後半頃からは勉強そのものに楽しさを感じて取り組んでいたので、先日の山下のエントリを読み、自分は変態なのだと気づかされました。

日々、いろいろな年齢層の生徒と接していてよくある質問に「何のために勉強するのか?」というものがあります。直接言葉にする生徒もいれば、そうでない生徒もいますが、誰しもが一度は感じたことのあるテーマかと思います。とはいえ、いくら年を重ねても解答に窮するテーマ。何かしら気の利いたことの一つでも言えればいいなとは思いますが、なかなかしっくりくる答えはまだ自分の中にありません。

なので、そういう時は自分もそれに明確に答えられるだけの知恵と経験が不足していることは前置きした上で、勉強することの意味については「自分で選択する力を身につけること」にあるのでは?と話しています。

(特に日本の場合は)社会システムそのものが、社会に対する「個人」を要求するので、非常に生きづらさを感じることも多いと思います。自分が生きる(小さな)社会を標準化し、それと比べた標準偏差の大小で自分の価値が決まる、そのような側面は大人社会はもちろん、生徒たちが日々生きる社会にも変わらず存在し、日々苦闘している姿を見ています。そのような中で生きていると、自分の意思とは関わりのない部分での決定が多くなされ、その結果「個人」としての選択がままならず、生き方が不幸になるケースが往々にしてあるのは理解に難くないところです。

幸い自分の場合は(人間関係も含め)物事に対する、好き嫌い(良し悪しではなく)がはっきりしているところもあり、自分が嫌いなことはしない、という見る人から見れば、弱い生き方をすることで逆説的に日々楽しく生きられているのかな、とは思っています。

そんな自分の考え方に大きく影響を与えたのは、やはり何かに取りつかれていたように勉強していた中高生時代が大きくあります。先ほど勉強が楽しい変態だったと書きましたが、それもそのはず、勉強以外の世界を知らなかったのだから当然のことです。自分では好きな勉強に目いっぱい取り組んでいるつもりでしたが、それは他に選択の余地のない設問であり、案の定、大学生になり目的意識から解放されると同時にその選択肢の多さに困惑しました。

ただやはり、自分を救ってくれたのもまた自らの学習経験、学習体験だったように感じています。大学生のときに訪れたフィリピンの小学校で、家庭環境も生活環境も劣悪な中、学校に来る時間を心の底から楽しみ、学びの時間に大きな感謝の気持ちを表す子供たちに出会った時の鳥肌は今でも忘れられません。翻って改めて自分のこれまでを振り返り、先進国に生まれ、何の不自由もなく、十分な教育環境に生まれた自分たちは幸せになる義務がある、ということを強く思い知らされた出来事で、自分自身が幸せになる生き方をしよう、と決意したタイミングでもありました。

その結果の今として、自分がどれだけ幸せに生きていられるのかという自己評価は難しいながらも、日々の仕事に充足感があり、その結果微力ながら関わる生徒さんたちの幸せに貢献できていれば良いなと思っています。

収拾がつかなくなってきましたが。日々多くの生徒さんたちの貴重な青春時代の一端に存在させてもらいながら、勉強という一つのツールを通して、「自分で考え、選び、幸せになる」という生き方のトレーニングをしてもらえたらなぁと、思っています。

前回の山下の「授業をするときのモットー」というテーマを引き継ごうと思ったのですが、(自分自身も他のみなさんのモットがー気になっただけに)うまく引き継げずもやもやしていますが、今回はこのくらいで終わろうと思います。

次自分の番が回ってくるころには、今年の受験生も全員卒業し、(自分自身も含めて)また新たなステージにいるのかなと。残り数週間、頑張る生徒たちと駆け抜けようと思います。

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