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誰よりも英語に苦労した。だからスピークバディが生まれた CEO Life Story #1

※代表立石のnoteより転載

株式会社スピークバディCEOの立石剛史です。

2016年にスピーキングに特化したAI英会話アプリ「スピークバディ」をリリースして6年。2022年12月には、累計200万ダウンロードを突破しました。
おかげさまで取材いただくことも増え、自身のライフストーリーを話す機会が多くなっています。「スピークバディ」は、私自身が英語を話せず苦労し、あらゆる学習方法を試し遠回りをした経験があって生まれたサービスです。
英語が大の苦手だった私がなぜAI英会話アプリを作ろうと思ったのか、そもそもなぜ起業を決めたのか。これまでの人生を振り返りつつ、まずは起業に至る経緯までをお伝えしたいと思います。

be動詞で英語に挫折。自分に言い訳をして勉強から逃げていた

私が生まれた1983年、日本社会はバブル真っただ中でした。建設不動産業を営む両親のもと、3人きょうだいの末っ子として生まれました。時代の追い風を受けて裕福な家庭環境で育ち、慶應義塾幼稚舎に入り、小学生の頃はのんびりとした子ども時代を過ごしました。

平穏な日々の風向きが変わってきたのは中学生に入ってからです。熾烈な受験競争を勝ち抜いてきた優秀な外部生が加わり、英語の勉強がスタートした途端、授業にまったくついていけなくなりました。be動詞の概念につまずき、現在進行形から先が分からない。「日本人なんだから、英語なんて使わなくても生きていける」と自分に言い訳し、勉強するのを辞めてしまいました。

英語への苦手意識は、1つ上の兄の存在によって、ますます強固になっていました。
兄は成績優秀でサッカー部のキャプテンで、いつも比べられて育ちました。「お兄ちゃんはあんなに優秀なのにお前は…」と何度言われたか知れない。そんな兄が英語に“かぶれて”、欧米文化に影響を受けていたんです。バンドを組んで洋楽を歌ったりしていた兄に劣等感を持って、英語がますます嫌いになっていました。

そんなわけで、中学1年時の挫折をカバーしようともしないまま、周りのせいにしたりしながら高校に進学。「これからの時代は中国だ!」と第二外国語として中国語を選択し、そちらではトップクラスの良い成績を取っていました。語学が嫌いというわけではなかった。むしろ自分が変われる気がして楽しくなってたものの、英語だけは無理、という強い苦手意識があったんです。

家庭環境が一変。「自分が稼ぐ」と覚悟が決まった

人生の大きな転機は、高校3年に起こります。
父が経営していた建設不動産業が倒産したのです。200億円の借金を抱え、両親の喧嘩は絶えず、差し押さえられた家から逃げるようにしてホテルを転々とする日々が始まりました。その後、経済的な事情から、母と兄と私の3人は小さなアパートのようなところで暮らし始めました。事情をほとんど知らされていなかった私は、あまりに狭い部屋を見て「こんなところで暮らせない!」と口にしてしまった。吹き抜けの階段が有る最上階ペントハウス、トイレ4つ・風呂2つの家からの落差が大きくて、言わずにはいられなかったんですよね。「うちはもうそんな状況じゃない」と諭してきた兄の悲しげな表情は忘れられません。

当時のことは、強烈な出来事だったのにもかかわらず、具体的な時期をよく覚えていません。ただ、大学進学を控えた高校3年の夏ごろに、「これからは自分で稼がなければいけない」と思ったことだけはよく覚えています。
バイトを始め、本屋に通っては「仕事図鑑」といった内容の本を読み漁りました。探したのは、“自分の力で稼げて、自分ならではの結果が出せる仕事”。父の会社が潰れ、当時は銀行ですら統廃合しているのを見て、大きな企業に入っても先は分からない、という気持ちがありました。
そして、定めた将来像は「経営コンサルタント」でした。そしてコンサルタントになるなら会計士の資格をとっておくといいと知り、商学部への進学を決めました(高校の成績が悪く、学部を選ぶ立場でなかったのもありますが)。お金がない中、大学の学費を出してくれた母への感謝もあった。将来の仕事から逆算して「何を学ぶべきか」を、同級生よりは真剣に考えていたと思います。

やると決めたらできる! 自信につながった会計士資格の取得

大学に入ると、それまで留年すれすれの成績で過ごしていた生活から一変、会計士を目指して勉強しよう、と覚悟が決まっていました。
既にダブルスクールで会計士の専門学校に通っていた小学校からの友人からは、「本当に大変な試験。あなたが受かるわけがない。自分を冷静に見つめ直せ」「お金も時間も無駄になる」と真剣に止められました。でも「やってみないと分からない」と、会計士の勉強を始めました。
大学1年の冬から1年半、ピーク時は朝7時から14時間、勉強する生活を続けました。睡眠と食事以外はすべて勉強時間に充て、受験期間は携帯電話の連絡先をすべて消去。髪を切りにいく時間も勿体ないので坊主にしました。

その甲斐あって、会計士試験に無事合格。当時の最年少合格でした。「自分は、やると決めればやり切れる人間なんだ」という自信がつきました。

就活では、先輩から「会社全体を俯瞰的に見たいなら、コンサルより投資銀行に行くといい」とアドバイスをもらい、実際やりたい仕事がM&Aや資金調達のコンサルタントである投資銀行業務だと気づきました。
父親の会社の倒産から、「当時の会社の状況を自分が分かっていたら、潰れることはなかったのでは…」という思いがありました。会社経営を俯瞰して見られる人になって、稼ぎたい。競売で売られた自宅を買い戻したいと思っていました。

投資銀行業界は外資系の方が給料が段違いに高く、英語は中学1年レベルなものの、チャレンジすることに決めました。英語力や成績よりも、大学3年で会計士合格していることを評価してくれる会社で選考が進みました。
第一志望のCitigroup証券の最終面接は、役員10人対1人の超圧迫面接で、人事担当役員の方から英語で「〜〜your career?」と聞かれたものの聞き取れるわけもなく、「I can’t speak English. But I will study hard. So, no problem!」と答えて場が凍りました。大学の成績の悪さも指摘され追い込まれましたが、会計士全国模試で最重要科目全国7位、奨学生試験で全国1位を取った気合で、英語を勉強すれば大丈夫だと伝えます。絶対落ちたと思いましたが、当時の社長が「ああいうやつを採れ」と絶賛してくれたそうで、採用いただけることに。
高校時代に成績がどん底だった自分が、勉強をしたら会計士の試験に1発合格できたのです。やると決めたら自分はすごい。根詰める自分の性格さえあれば何とかなる。英語なんて余裕だと本心から思っていました。

しかし、TOEICが満点になったからといって英語がしゃべれるようになるわけではありません。
社会人になり、その現実を突き付けられることになりました。

4000時間費やしても、英語を話すハードルは高かった

入社した投資銀行部門の同期は9人で、多くがバイリンガルレベルの英語力を持っていました。
圧倒的に英語力がないことは自覚していたので、入社前に英語の勉強はしましたが、TOEICを700-800点にあげられた程度でした。会計士の勉強で燃え尽きていたのと、大学の単位取得に追われたこともありましたが、TOEICで800点位取れていれば大丈夫だろうと英語をなめていたんです。

入社すると、英語ができないことが仕事の幅を大きく狭める現実が待っていました。
国際案件にはアサインされず、ニューヨークでの研修では同僚と雑談もできません。「自分には話しかけるな」というオーラで、外国人を寄せ付けないようにしていました。英語でコミュニケーションをとる同期にも、常に引け目を感じていました。
英語を必要としない国内案件中心ではあったものの、仕事自体の評価は良かったと思います。しかし評価面談では、いつも「英語力がない」と指摘を受けていました。部門の全体会議で、外国人上司から「なんで英語ができないやつが、この会社にいるのか」といたたまれないような質問をされたこともありました。

悔しかったのは、決して英語の勉強をサボっていたわけではないからです。毎日深夜帰りの激務の中で、週末もプライベートレッスンをし、英会話学校には延べ10校は通い、教材を買ってきての独学のほか、オンライン英会話も片っ端から試していました。英語が話せる同僚からは、「英語で話せる相手がいれば、英会話は上達する」と言われたので、相手を探すべく、外国人が多く集まっていそうなバー(HUB)に出かけたこともあります。
中1で英語に挫折した経験もあって、根がバカだという思いがあった。だからこそ、人からおすすめされたやり方は素直に何でも試し、費やした時間は4000時間を超えます。努力の甲斐あってTOEICの点数はするすると900点を超えて伸びていきました。

それでも、「しゃべれる」ようには一向になりません。話そうと思っても言葉が出てこず、出てこないことで緊張感や恥ずかしさに襲われ、さらにうまく話せなくなる。英語の苦手意識は増すばかりでした。

起業を決意。病気でかわった人生観

起業を考えるきっかけは、25歳で死の可能性もある重大な疾病が見つかったことでした。その衝撃は大きく、「もし生き延びることができたら、何をしたいだろうか」と、真剣に考えるようになりました。

手術を控えたベッドの中では、「楽しい人生だったな」とこれまでを振り返っていました。楽しかったし、やりたかった仕事もやれた。でも、「この地球に自分が生まれてよかったのか」と自問したとき、はっきりと肯定できない自分がいました。
社会に貢献できたわけでもなく、世の中に役立つものを生み出してもいない。「生き延びられるなら社会にインパクトを残して、人の役に立つ人生を送ろう」と考えるようになりました。

「金融業界にいては、社会貢献の実感が得られにくい」という思いはありました。では、たくさんの人に直接インパクトを与えられるサービスは何か。「今は世にないあるべきもの」と思うアイデアをエクセルにまとめ、100以上アイデアが集まったときには29歳になっていました。

というのも、26歳でリハビリを終え、仕事に復帰すると、かねてからの希望だった海外駐在の機会が舞い込んできたからです。駐在先の香港では、日本を初めて“外から”見ることで、世界の中での存在感の薄さを痛感しました。カンファレンスで「日本はいつ財政破綻するのか」という話が、ごく自然な話題として出てくるほど。「日本人として情けない」という悔しさは、起業への熱意になっていきました。

1年半の駐在期間を経て帰国したその日には、会社を辞める決心が固まっていました。
やりたかったのは、デジタルサービス開発でした。多くのIT企業を担当してきたことから、プロダクト次第で、一気に数億人ものユーザーにアプローチできると考えたからです。
当時、社会のどんな課題を解決して役立ちたいのかはまったく決まっていませんでしたが、起業を見据えながら中途半端な気持ちで会社員を続けたくなかった。退路を断って、事業づくりに専念したほうが、自分の集中力をパワーに変えられるはずだと思ったのです。

(スピークバディ起業後のストーリーへ続く)

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