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ホリエモンの話に違和感を感じるわけ

海洋放出問題に関して、ホリエモンが山本太郎さんの意見を強く否定している動画を見た。私は詳しい知識を持っていないから、自分の意見を述べることはできないけれど、それでもホリエモンの話には違和感を持ってしまう。

言い方が酷いからとか、よくあんなに安全と断言できるなとか、そういうことも理由ではあるけれど、多分私は、もう少し深いところから違和感を感じているんだろうなと思う。

その違和感はどこから来るのだろうか。価値観とか判断基準が違うからというのもあるが、そもそも判断するときに使う「判断材料」が違うのかなと思う。

ホリエモンは科学や合理性を重視するタイプのように見える(たぶん)。それを理性重視タイプと呼ぶとすると、私はその反対の感性重視タイプだ。ホリエモンは「科学的には正しくても感情的には受け入れられない」と言う人は嫌いのようだけど、まさに私はそういうことを言うタイプで、直感や感覚を重視する傾向がある。

「直感」というと、理性重視な人からすれば、いい加減なものというイメージがあるのかも知れない。でも、言語化・数値化できないだけで、それこそ多くの情報を受け取った上での意見であって、決していい加減なつもりはない。これは言い換えればアナログとデジタルの違いのようなものだ。アナログのほうが情報量が豊かで、それを受け取ることができる人は繊細な感受性を持った人と言えると思う。でも、受け取れない人からすれば、それが「見えない何か」であり、得体が知れないものだから、気持ち悪さを感じるのかも知れない。

なので、理性重視の人は、得体の知れない何かよりも客観性のある情報を判断材料にするのだろう。一方、感性重視の人は、情報の「間」や背景を判断材料にする。今回のように意見が大きく分かれるのは、このように、互いに判断の材料となるものが異なるからだろう。私がホリエモンに感じる違和感は、こういうところから来ている気がする。

さらに、理性重視と感性重視では、結論を生み出すまでのアプローチも大きく異なると思う。理性を重視する人は、事実を確認し、そこから結論を導き出す。一方、私のような感性を重視するタイプは、最初に結論が思い浮かび、そのあとでその結論が正しいかどうかを知るために事実を確認する。前者は「部分から全体」へのアプローチであり、後者は「全体から部分」へのアプローチをとる。アプローチが全く逆なのだ。

私は「部分から全体」へのアプローチ、すなわち帰納的思考は、正しい結論に辿り着けないという宿命を持っていると思う。このアプローチでは、それぞれの部分が分離独立しており、他の部分との関係を無視することが大前提になっている。ところが私からすれば、宇宙全体は一つの生命のようなものであり、すべては繋がっていて、切っても切り離せないものという感覚がある。だから、分離した部分を集めて融合しようと思っても、どこかで矛盾が発生するのではないかと思うのだ。なので、「科学的には正しくても感情的には受け入れられない」ということが私にはよく起こることだが、これがなかなか理解してもらえない。

自分が感性重視の人間なので、どうしても自分の正当性ばかりを主張するような文章になってしまった。しかしこれまでの時代は、理性重視、還元主義的な考え方が主流であったように思う。実際、議論の場面で直感を持ち出すと、客観性がないことから軽視されてしまうことがある。でも、これからの時代は、互いを理解しつつ、偏りをなくし、バランスを取っていくことが大切になっていくと思う。「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」とはアインシュタインが残した言葉だが、その通りバランスが重要なのだ。

「部分から全体」へのアプローチ、すなわち帰納的思考では、導き出された結論が客観的・機械的すぎて、人間を無視した結論になりがちだ。また、「全体から部分」へのアプローチ、すなわち演繹的思考では、結論が主観的であり、信じるか信じないの世界になってしまう。このどちらにもある欠点を補うような考え方が、これからの時代には求められていくと私は感じている。


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