Yozo Otsukiのプロフィール - Wantedly
合同会社Kurasu, CEO 京都生まれ。幼少時代はマンハッタン、ニューヨークで育ち、高校からカナダに留学。ウォータルー大学卒業のち、ゴールドマンサックス証券日本法人入社。 日本の文化を世界へ伝えたい思いと、幼い頃に両親がジャズ喫茶を営んでいたことに影響を受け、日本のコーヒー文化の魅力に着目。 ...
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「未来のコーヒー」をコンセプトとするコーヒースタンド「2050 Coffee」、高品質な海外コーヒー器具を扱うストア「Kigu」など、ユニークな事業を展開するコーヒースタートアップ・Kurasu。
実は、Kurasuを率いる代表・大槻洋三(Yozo)の人生も、Kurasuの事業と同じくらいユニークなんです。そんなYozoさん自身の生い立ちやキャリア、コーヒーとの思い出などを、ざっくばらんに教えていただくこの連載、第2回はYozoさんの大学時代〜本人が「ラッキー」と語る就活のお話、ゴールドマン・サックスを辞めて起業を志すまでに迫ります。
■この記事は連載の2回目です。初めての方は、1つ前の記事からお読みください。
——前回は、カナダの高校に進学されたところまでお聞きしました。その後はどういったキャリアを?
カナダのウォータールー大学に進学しました。工学部とかコンピューターサイエンスとかプログラミングとか、そういったテクノロジー系で有名な大学です。国立で、カナダではけっこうトップの大学なんですが、運良く入れました。
——「運良く」なんですか?
前回も話したかもしれませんが、大学に入学するハードルは意外と低くて。日本だと「共通テスト(旧センター試験)」みたいな大学入試用のテストがありますよね。アメリカにも「SAT」っていうテストがあります。でも、カナダにはそういうテストが無いんです。高校の成績で、大学に行けるかどうかが決まるんです。
そんなわけで自分は、高校の成績がよかったからウォータールー大学に入れて、「俺すごっ、めっちゃ頭いいやん」と思ってたんですが、いざ入ってみたら全然頭よくなかった。すごい人たちばかりが集まっている大学だったので、逆に劣等感に悩まされました。勉強もめちゃくちゃ大変だったし。
——ちょっと悩んだ時期なんですね。専攻は何でしたか?
経済とファイナンスです。
——すると卒業後の進路は、証券会社とか……
僕自身も証券会社に入りましたし、銀行・証券などの金融系に進む人は多かったですね。ほかには経営コンサルティング会社、会計事務所に行く人もいました。
——エリートの集まりという感じですね。
どうなんですかね。そんなに「エリート」っぽくはなかったですけどね、周りの人たちも、僕も。
でも、能力は高かった。そして、ストイックでした。 みんなずっと勉強していて、特にテスト期間なんて、いつ行っても図書館が満席でした。朝方の3時に行っても、4時に行っても、5時に行っても……いつ行っても席が空いてなくて座れない、みたいな感じ。
コンピュータサイエンスとかプログラミング系の人たちは、2~3回生くらいになるとキャンパスで見かけなくなるんです。1回生の時に友達になった人たちがいつのまにか姿を消してて、「どこに行ったんやろう?」って思ったら、ラボにずっとこもってるんですよ。たまに会っても「ごめん、ちょっと勉強が終わらなくて……」みたいな。「ちょっと、ディナーやランチだけでも」って言っても「無理」って。
——すごい……そもそも、ウォータールーってどんな街なんですか? 娯楽の誘惑みたいなものはないんですか?
ウォータールーはいわゆる田舎町です。ウォータールー大学を中心に経済が発展したエリアで、周りには何もない。
でも、MicrosoftとかGoogleとかMeta(旧Facebook)とか、そういう会社のオフィスはあるんです。ウォータールーの学生が在学中にインターンに行って、卒業したらすぐ入社できるようになっている。
——特殊な環境ですね。でも、自分を高めるには最高の環境かも。
うーん、僕の場合は、自分を高めたいっていう思いは全くなかったんですよね。大学生のときも自分が何をやりたいかわからず、まだ迷ってたんです。
みんなわかってるんですか? 大学のとき、何をしたいかわかってました?
——確かに、わかってなかったです。
「何したいかまだわからへんのにめっちゃ勉強させられる」みたいな部分が、やっぱりまだ腑に落ちてなかったんですが、とりあえず勉強しないと卒業もできないので、必死でした。就職は決まったけどそこで安心できるわけでもなく、最後の最後までビビらされる(笑)
——「何をしたいかわからない」という心境の中、就職先はどうやって決めたんですか?
就職も、本当にラッキーなことが重なって決まりました。ラッキーばかりの人生、ラッキーマンかもしれない(笑)
「ボストンキャリアフォーラム」という、日本語と英語が喋れる人たち向けの世界最大級のキャリアフォーラムがあります。ボストンで毎年開かれるフォーラムで、アメリカやカナダにいる日本人留学生や、日本語を勉強している北米の人たちが集まってきます。
そこで、金融だとゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレー、リーマン・ブラザーズ、ITだとGoogleやMeta、Microsoftなど、いわゆる「大手企業」と面談できるんですが、ボストンキャリアフォーラムの大きな特徴は「その場で採用が決まる」という点です。
それで僕も、ボストンキャリアフォーラムの場でゴールドマンへの就職が決まったんです。だからすごくラッキー。
——就活が1日で終わったということですか!?
そうです。何がやりたいかわからなくて、これから就活どうしよう、と思ってたら1日で決まったんで、こんなすぐに決まるもんなんだなあと思って。
——普通、決まらないですよ。しかもゴールドマン・サックスに。
ゴールドマンにはウォータールー大学にいた日本人の先輩が入っておられたので親近感があったし、普段から経済ニュースをウォッチする中で、社名をよく目にしていたので。
当時も今も、経済系の時事ネタがすごく好きなんです。そのとき2006年だったかな、サブプライム問題が話題になっていて、自分が好きで読んでいた経済新聞でも「連邦政府はどうするんだ」と連日議論が巻き起こっていました。その中で、それぞれの投資銀行や中央銀行がどういう動きをしてるのかをウォッチしていたんですが、その話が面談で刺さったんだと思います。
——面談はどんな感じでしたか?
最初の面接は、いわゆる圧迫面接でした。僕が面接室の前で待たされて、前の人が「ダメだ……」みたいな雰囲気で出てきて、ヤバそうだと思いながら入室したら、面接官がめっちゃふんぞり返ってる。
そして、最初の質問が、 “Tell me why you are smart.”……いきなり「あなたが頭がいい理由を教えて」 って言われたんです。
——何それ、怖い!
“Hi, how are you” みたいなやりとりもなく、いきなり “Tell me why you are smart.” ……結構怖いですよね? たぶん僕の前に面接を受けた人は、こういうのが難しかったのかなって。
でも、僕の場合は時事ネタをいっぱい持ってたのが幸いでした。今起こっているサブプライムの問題の内容をまず紐解いて、そこから当時ゴールドマンのCEOだったロイド氏が何をしたのかなど、好きで読んでいたネタをどんどん話したんです。
そしたら面接官の表情がパァッと明るくなって、「ワァすごい、知ってるやん、俺たちがやろうとしてることを」みたいになって。
それから、ゴールドマンが今後投資銀行としておそらくこういう動きをするんじゃないかってところまで話すと、「分かってるじゃないか」みたいな感じで空気が一気にほぐれて……ちなみにこのときの面接官が、その後上司になるブライアンっていう人です。
——なるほど。そのあとはトントン拍子ですか?
その日のうちに、2~3回面接がありました。最後は「ディナーに招待します」とホテルのレストランに呼ばれて、採用を決める人たちと一緒に円卓に座って。そこでごく普通の会話をして、採用かどうかが決まる形でした。
——ディナーも見られるんですね。
ディナーの最中に、ポラロイドを撮られるんですよ。なんで撮るんだろうと思ったら、最終的に写真を並べて「この人とこの人は採用」って決めるためのものだったみたいです。それで次の日に呼び出されて、「採用」の書類を出されて「サインして」って言われて、もう、サインするしかないですよね。
——なんだかすごい世界ですね。
北米の環境でも特殊なケースだとは思います。僕は「面接対策」みたいなものは、そもそもわからなかったから全然やってなくて、本当に純粋にその会社や業界の情勢に興味があって。それを「面接官と学生」じゃなくて「一対一の人間どうし」でしゃべれたのが、就活においては良かったのかな……そういう自己分析をしています。
——その後大学も無事卒業し、ゴールドマン・サックスに入社されて、どんな社会人生活でしたか?
入社後すぐに、リーマン・ブラザーズが潰れました。リーマンショックです。僕はゴールドマンの東京支社に配属されていたんですが、六本木ヒルズの同じビルにリーマンのオフィスがあったので、報道陣がわんさか来ていました。
業界全体的に、空気感があまりよくない時期でしたね。もちろんゴールドマンの経営も苦しくて、まず10%、次に20%の社員がカットされました。同期も、上司も、いつの間にかいなくなってるんです。朝はいたのに、昼になったらいない。そんなのが普通でした。
そこでさっきの圧迫面接のブライアンが、「この前社員カットがあったこと、みんな分かっていると思うけど、2回目もあるよ」ってスピーチしました。「隣の人を見てごらん。もしかしたら明日にはいないかもしれない。けれども Life goes on、僕たちはやっていくしかないんだ」って。辞めさせられる側も残る側も、みんなそういうメンタルでやっていたと思います。
——厳しい業界状況の中で、新卒入社から数年間を過ごされたんですね。
世間からの風当たりも強く、ニューヨークでも「Occupy Wall Street」など、デモがたくさん起こりました。金融機関に対して「こんなことが起こったのはお前らのせいや」と。
僕たちの会社に対してのプレッシャーもすごかったです。ゴールドマンでは入社1年目にニューヨークへ研修に行くんですが、その研修中も「社名を言ったらダメ」とか「パーティーに行ったらダメ」とか、いろんな規制がありました。
ニュースを読んでいたら本当に、自分のいる会社が「悪者」なんです。そしてその言い分がすごく理解できて、僕も客観的に見たら「悪いな~」と思う。でも会社の中にいたら、一人ひとりが悪事を働いてるわけではなくて、懸命に仕事をしているだけ。そういうジレンマがありました。
同期も上司もみんないい人ばっかりで、悪巧みをしている人なんていない。だけど、組織や業界の仕組みとして、大変な社会問題を引き起こしてしまった……その狭間にいて、けっこう苦しかったですね。
——入社から3年ほどで退社された背景には、そういう苦しさもあったのでしょうか?
それもあったし、社内での自分のキャリアパスが見えてきたというのもあります。「このままこの会社にいたら、5年後や10年後はこうなってるんだ」みたいな。そこに自分が見えないというか、やっぱりちょっと違うな、と思ったんですよ。
それなりに良い給料で、それなりの生活ができるのだから、そのまま働くこともできたでしょうね。けれども、このまま進んだ場合の自分の未来が、ちょっと想像できなくて。だからノープランで、「もういったんやめよう」って。いきなり辞めました。
——転職ではなく、ノープランで辞めたんですね。
何もない状態から、自分で何かをやろうと思ったんです。その頃って、ノマド的な働き方も話題になり始めた時期で、そういうのもいいなと思っていました。そんなある日、いろんな起業家の話をまとめた本を読んで、「起業っていう選択肢もあるんだ」って、そこで初めて「スタートアップ」という概念を知ったんですよ。
いろんな情報を仕入れる中で、自分のお店を開くとか、いろんな形のスモールビジネスがあることを知って、「自分一人でオンラインのビジネスを始めようかな」って考え始めました。
そしたらちょうどそのタイミングで、当時お付き合いしていた方のシドニー転勤が決まったんです。僕もちょうど、これから何をやろうかって考えていたときだったから、すごくいい機会だなって思って「じゃあ一緒にシドニーに行こう」と。
そして、日本で考えていた「一人で働く方法」を、シドニーで実行に移していくことになります。それが、今のKurasuの原点です。
——なるほど、そこからKurasuへつながっていくんですね! 最初はどんなことから始めたんですか?
最初は、例えば………
(次回に続く)
今回もお読みいただきありがとうございました。次回はいよいよ、Kurasuの「コーヒービジネス」の始まりへと迫ります。乞うご期待!