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〈社員自己紹介 Vol.1〉我が道を進む!情熱的な自由人!~丹路 修平~

こんにちは!
株式会社グッド・クルーの採用担当 小島です。

本日は弊社のメンバー自己紹介ブログを紹介していきます♬

自己開示した過去の棚卸をぜひご覧ください🌸


みなさん、初めまして!
グッド・クルー採用担当の丹路修平(@niroshu9526)です。

定期的に自分を見つめ直す事は大切だなと今回の棚卸しを通じて感じました。

目次

  1. 幼少時
  2. 小学生時
  3. 中学生時
  4. 高校生時
  5. 大学生時
  6. 日本一周時
  7. 社会人時
  8. 転職してグッド・クルーへ

【幼少時】

埼玉県川越市で誕生。このころの記憶はもちろんありません。笑

群馬県玉村町、記憶の無い時期に群馬県玉村町に引っ越し。兄の背中を追い続けた。ひたすら外に出ていた。やんちゃ人間。3歳で自転車に乗る。ずっと外にいた。

【小学生時】

学童にあこがれていた。学童に入っていないけど、一緒にサッカーをしていた。少年サッカー団に入る予定だった。父の仕事の関係で引っ越し。

引っ越し先は埼玉県越生町。母の実家。周りが野球だったので、2年生から少年野球団に入る(親曰く3歳くらいからボールを蹴っていたので、サッカーの方が良いんじゃないと言っていたらしい)学校でも友達に恵まれていた記憶がある。そんな中、また群馬に引っ越し。

群馬県玉村町かなりモテた。バレンタイン10個以上。一番のモテ期。あっでも高校野球もモテたな。笑
野球も引き続きやっていた。2つ上が凄くうまくて、こんな人たちになりたいと思っていた。両親の離婚でまた埼玉に引っ越し。

野球も引き続き継続。上の代でも出させてもらっていた。一時期、本当に行きたくなかった時期もある。多分飽きていた。ただ、一度決めたからにはやれと言われ、駄々をこねながら行っていた。学校では仲が良く、充実した日々を送っていたのではないか。

【中学生時】

厳しい部活動生活。野球は一生懸命にやっていた。地区の選抜と埼玉県の選抜に。このころからプロ野球を意識し始める。野球部に入ったのも、少年団から続けていたから。辞める理由が無かった。
学校生活は。。。
先輩から目つきが悪いと目を付けられ、袋たたきにされた経験あり。3年生のころ些細なことがきっかけて仲間外れに(1か月くらい)
人の痛みを知る。人に対してのいじめや仲間外れはせず、そのような人がいたらその人の見方になると決めた瞬間。

【高校生時】

私立の高校にはいかず、前々から来てほしいと言われていた滑川総合へ。
ここで私の先天的な強みである「感謝」と「最上志向」(最上志向は大学でも紐つく)が生まれる。
2年生からレギュラーに。メンバーに入れない人の想いを勝手に背負いながらやっていた。同時に野球で悩むレギュラーメンバーにも喝を入れていた(代表として試合に出ている。生半可な気持ちでやるな等々)
大会通算打率約6割、埼玉県の注目選手にもなる。出た試合では結果を出せていた。天狗になることはなく、とりあえず勝ちたい想いは強くあった。
結果2回戦で敗退。チームとしての難しさを痛感したのもこのとき。ただただ悔しかった。当時は受け入れられなかった。これが最後だとも思っていたから。少し慣れ合いだったのかなとも感じる。仲の良いメンバーと、そんなに仲良くないメンバーと別れていた。私はどっちにも属していなかったが、チームといて機能していなかったのかな。
それと同時に母に強く感謝するようになった。負けた試合後、感謝の気持ちが出た。「ありがとう」と。
母子家庭で弁当も作ってくれた。お茶登板仕事の関係上来れなかったが。
ただ、そんな母を周りの父兄は支えてくれた。そこにも強く感謝した。
応援してくれていたメンバーにも感謝した。
自分だけノーサインでやらせてくれた野球部にも感謝。その分責任も追った。
就職して親への恩返しだと思った矢先、大学から3校ほど声がかかる。その中ですべて免除だったのが金沢学院。負担も少なく、もう一度野球を本気でやりたいと思い、金沢学院に進学


【大学生時】

1年生から試合メンバーに。キャンプ組とそうじゃない組。私はキャンプ組ではなかった。出された試合で結果を出し続けた。その結果、メンバーに選ばれた。同じリーグに今西武で抑えをやっている増田と対戦。
球が速くて重かった。先輩に連れられてパチンコにもはまる。
お金が欲しくてバイトも始める。ただ試合には出ていた。練習もまじめにやっていた。そんな生活を2年間続けて、3年の春リーグ戦、優勝決定戦の夜に交通事故に合う。レギュラーメンバーでありながら自覚のない行動。
その年の3年の秋に引退。金銭的な問題もあるし、やりたい気持ちはあったものの、こんな環境で出来るかと強がって辞めた。
今でも少しだけ後悔している。
そこからバイトとパチンコの日々。つまらない日々を感じながらも就活が近づいているので、無理やりやりたいことを探す。
高校時に後輩に指導することにやりがいを感じていた。同時に野球の指導をしたいと思い、学校の先生になって本気で野球に取り組もうと決めた(これも行き当たりばったり)
勉強・バイト・パチンコの日々。
埼玉県の教養試験に受かる。奇跡。
努力すれば結果が出ると、ここでも痛感した。高校時はある程度環境はあったものの、初めて自分で決めて結果を出せた内容だった。その時の埼玉県保健体育教職の倍率は11倍。
母校の教育実習に行き、先生が生徒に本気で向き合う熱意を実感。
自分には無理だと思った。何も教えられるものが無い。こんな覚悟で人の前に立てない。もっと人と関わりたい、繋がりたいと思い、日本一周をしようと決めた。いろんな県に行こうと決めた。そっからは就活もせず、遊びほうけた。貯金もなぜかしていた。丹路bankと呼ばれていた。大学生らしい生活をして、2015年4月から車とヒッチハイクをメインに回り始めた。
今思うと、野球を本気でやってなかったんだなと痛感。
環境が合っての自分だった。
改めて自分を律することの難しさを痛感。高校くらいの規律が無いと自分は甘い人間なんだと痛感。
今思うと就職というものがただめんどくさかったんじゃないかとも思う。。。(笑)


【日本一周時】

人との出会いをテーマに回った。石川から下っていった。いろんなつながりが増えた。初めは先生になるためだったがそんなことも忘れていた。
ただ、人との出会いというテーマは頭の中にあった。「働く」を通じていろんな人間がいるんだなと痛感した。
責任をもって全うしている人、何にも考えていない人、愚痴を言いながらの人。そんな中「丹路はいつでも楽しそうだよね。なんでそんなに楽しそうに仕事ができるの?こっちも元気がもらえるよ」その環境でやるべきことを全うしているつもりだったので、そんな声も貰っていた。
アルバイトと派遣で月に44万円稼いだこともあった。そういわれるのがやりがいにも感じていた。同時に、何となく感覚的にこのままで良いのか?と感じ、地元に帰る際に、やったことなかった就職活動(合説転職イベント)に参加。そこで出会ったのが(前職)だった。
説明会を通して、5日間の体験を通して、ここで社会人で頑張ろうと決めた。「人」これのみ。どんな環境でも人間関係の構築には自信があった。
その環境で結果を出すだけだと思っていた。無事内定。

※日本一周時、ヒッチハイクしたらゾッキーに拾われたときの写真。笑


【社会人時】

ここで私の「素直さ」この先天的な強みが見つかる。
・言われたことを言われた通りに。それで結果を出せば正解。「考より行」。「守破離」の「守」これが大切。先輩の真似をせよ。正直マネできる先輩いなくね?と思っていたが。。。ひたすらがむしゃらに結果だけを追い求めた。会社初のS評価と抜擢を半年でもらう、というのを掲げて頑張った。残業は70~80時間、まったく関係ないと思った。
同時に様々な理不尽にもあたった。大学時に教育を学んでいたが、この会社は教育の「きょ」の字もない。感情での指導。家族経営が故の甘さ。そんなことばかり思っていた。2か月たって営業と採用の兼務になり、年が近いからという理由で17新卒から本格的に採用すると言い、立ち上げにかかわった。自分の考えなんて無かった。とりあえず指示されて結果を出せば正解だと思っていた。
その結果、半年間で売り上げ実績1位、採用も6名の人数の承諾者を出し、半期S評価、抜擢を貰い課長補佐に就任。これが正しいんだと思った。直上司は厳しいもので、あれが正しかったのかと感じた。同時に上司によってこんなにも変わるんだなと感じた週間でもあった。
少し燃え尽き症候群になった。ただ、頑張って結果は出していた。
遣り甲斐が感じられなくなった。同時にこのままで良いのか?という自分の葛藤もあった。ただ結果を求めていた。言われたことを言われた通りに。
新卒が入り、辞めさせないように関わる経営陣(まあ金がめっちゃかかってるんで)、同時に評価基準があるにも関わらず、曖昧な評価をされる。なぜその評価になったのかもはぐらかされる。不信感が募っていった。言われたことを言われた通りに実施し、結果を出しても評価されない矛盾、採用担当として会社の説明をしているのが苦痛でもあった。誠実でいたかった。嘘はつきたくなかった。これから入ってくる学生がうちを選ばないでほしいとまで思っていた。そこで転職を決意した。


【転職してグッド・クルーへ】

転職エージェントを使い、なにも分からないまま転職活動をした。正直場所はどこでも良いと思ったが、正統な評価や見てもらえる場所が良かった。お給料も目に入れていた。書類や面接ではなぜか通るところが多かった。そこで出会ったのがグッド・クルー。決め手は社長の堀さんと野村さん。なぜか面接なのに会社の話をめちゃくちゃされた。今でも覚えている。その後野村さんと会った。初めて自分の軸を明確に持っている人に出会った。すげーと率直に思った。前職が当たり前に思っていたことが当たり前ではないと気づけた。良いところに入れたと思った。ここで成長できると思った。
そこでもその場で結果を出す、与えられた役割を全うすることが大事、と思っていた。そこに目的や目標は無かった(正確にはあったが無理やり決めていた。決めてそこにフォーカスをあてて意識的に動いていた)
そんな25歳で良いのか?とも色んな人に触発されて思った。採用という業務で何を提供できているのか?とも思った。
これだけ向き合ってくれる人がいるのが幸せだったが、、やっていくうちに「指示待ち人間だったんだ」と気づいた。
そんな中、何をすればいいのか分からず、市場を全く見ていなかった。自己研鑽もしていなかった。
ただただがむしゃらにやっていた。前職よりか環境が良い、とかいう理由でやっていた。
その時に人材紹介の企業開拓をしてほしいと言われた。前職の営業が活きた時間だった。テレアポが平均の3・4倍取れる。前職が活きた時間だった。
同時にやりたいことが明確になっていった。
埼玉の会社は採用のリテラシーが低い、支援したいと本気で思った。同時に地方の就活にも目を向けた。自分が大学だった時に都内に就活に行きたいと言いながら金銭的に難しいというのを真尚あたりにしていた。
ここだと思った。これをしたいと本気で思った。何が必要で今足りないものは何なのかを考えた。同時に無理やりに立てた人生のvisionと社会人としてのvisionがバシッとはまった瞬間だった。
社会人になって、3年8か月かかった。
そこに向かうだけだと思った。

今ここです。

改めて、事実の棚卸をし、「あー自分って本当に環境ありきの人間だったな」と感じます。高校も大学も社会人になってからも。
自己研鑽をはじめ、創造性や主体性、思考力や読解力、自分に足りないものがどんどん見えてきています。

今の自分を知り(上記全て)、先天的な強みを見つけ(素直・最上志向・感謝)、人生のvisionを決めて(愛を持ち人から愛される人財になった結果、出会うすべての人に「きっかけ」と与えることができ、貢献できるようになる)、過去の事実に意味付けをしています。今の自分で徐々に過去の事実が変わってきています。前職の時、不満しかなかったものが、結局自分が行動しなかっただけだよねと。

**目指すべき旗が明確にあるので、引き続き突き進んでいこうと思います。 **


最後までご覧いただきありがとうございました!

今後ほかのメンバーの自己紹介も紹介していきますね☺

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