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グループを経営するCEOの衝撃の半生。多くの困難に直面しても諦めずに掴み取った成功。

貧しい家庭に生まれ、主として家族の面倒を見る中で身につけたリーダーシップ

ADHDの症状を抱えながら、貧乏な家庭を守る

僕は1971年12月19日に、大阪市東成区で生まれました。出生時は4600gと大きな体で生まれたのですが、出産予定日より1ヵ月以上遅れて生まれた為、羊水を飲みすぎてか生後すぐに心肺停止状態になってしまいました。もはや医者も諦めかけた直後ぐらいに大きな産声をあげ、一命をとりとめたと聞いています。産まれながらに人に心配を掛け、小学校時代も先生や親によく怒られるような子供でした。

僕は長男で兄弟は妹と弟がおり、母が幼い頃に離婚しており4人家族の母子家庭でした。母親が1人で3人の子供を養っていたのですから家庭は貧乏の極みで、エピソードは語り尽くせない程あります。お風呂が無い、TVが無い、電話が無い、服が無い等は当たり前でしたし、寝る場所が無い、食べる物が無いという事も多々ありました。そのため母親は早朝から深夜まで毎日働きづめでした。

実を言うと僕はADHD(注意欠如、多動症)でした。正確に言うと今でもです。その為、学習能力が低くいつも学校では先生に注意されてばかりの子供でした。
今思えばですが、僕が恵まれた家庭で育っていたら今よりもADHDの症状が重く、母や周りの人に迷惑を掛けていたかも知れません。
幸か不幸か、貧乏の極みにある家庭の長兄で、我慢と責任感、父親代わりの大黒柱としてのリーダーシップを持たないといけない環境にあったので、ADHDの症状が少しは鈍化されたのではないかと思っています。

小学校低学年の頃から本当は自分が母親に甘えたくとも我慢をし、妹と弟を早朝から深夜まで面倒を見て、指示をして、兄弟でいかに楽しく家事等をこなせるかを考えていました
おそらくその頃に、自分でやるのではなく人にやらせるコツをつかんだんじゃないかと思います。

母親の怪我をきっかけに自分の無力さを痛感、力をつけるために家を飛び出た中学時代

仕事から帰ってきた母の指の異変

ある日、母親が仕事先の金属加工プレス工場からいつもより早く帰宅しました。
珍しいなと思いながら母親を見ると、手に包帯をしていました。母親は僕の顔を見て「健次ゴメンね。お母さんドジしちゃって右手の指を1本飛ばしちゃった。」と言いました。母の手を見ると右手の中指が1本無くなっていました。すごくショックでした。その時はただただ怖い感覚でした。

それから1~2年経ち、僕が中学生になった時にまた同じ事がおきました。また母親が先に帰宅をしていて、僕の顔を見て「健次ゴメンね。お母さんまたドジしちゃって指を無くしちゃった。」って言いました。母の指を見ると今回は2本の指が無くなっていました。前回と含めて右手が3本も指がありません。

今でも鮮明にその時の状況と感情は覚えています。その時に僕は母親の仕事先に行って、仕事場の雇い主を相手に言葉にならない事を怒鳴ったと思います。その時に大人の理屈や言葉に負けてしまうことを思い知らされました
母は指を計3本も飛ばしたのに、慰謝料は全く無くただ障害手帳を手にしただけでした。

大人の理屈や言葉に負けない力を身につけるために働きに出る

母が指を失ったことをきっかけに僕は大人に負けない知識と情報と言葉を持たないといけない事を痛感しました
おそらくこの件で他の子よりも大人の階段を少し早く上がったんじゃないかと思います。

貧乏も極まってきて妹・弟も少し大きくなってきた中学2年生の頃から、僕は家を出て1人で部屋を借りて新聞配達や牛乳配達等をしながら学校に通い、金銭感覚や社会の規範等も学びました
この話だけでは善良な苦学生のイメージを持たれるかもしれませんが、高校生にもなると俗に言う札付きの不良少年になっていました。学校はマジメに通わなかったのですが、自分で食べていかないといけないということもあってアルバイトだけはマジメに働いていました。
その様は幼少期や学生時代を経たので精神力は多少きたえられたんじゃないかと思っています。

(中学時代に友人と。上列右から二番目。)

家族の主として培った「人を扱う力」を、経営者として発揮していく

組織のシステムと環境を作ることが自分に向いていると気づく

前途話したように、僕は学生時代にさまざまなアルバイトを数多くしてきました。学生時代の思い出は学校の出来事の思い出はほぼなく、アルバイトでの思い出がほぼほぼです。
その頃から雇われるのでは無く雇う側の気持ちが強くなっていました。飲食店でのアルバイトでは「こうするよりこうした方がお客様は喜ぶのに…」と考えるようになり、他のアルバイトでも「こうした方が売れるのに」や「こうした方が効率がいいのに…」などそんな事ばかり考える癖がつきました。
そのような考え方の癖もあってか、20才の頃には全国規模の大きな営業会社に勤めていて営業成績が最年少記録を塗り替え常にトップの成績を残す様になっていました

ただ、営業は個人の限界がある事や、常に月初めには0からのスタートになるので心身も疲れ、自分の特性を生かせていない事に気付きました
その後、僕は組織のシステムと環境を作る事、人をどの様に扱う事などをやっていく方が自分に向いているのだと思いました。自分が持つ力を最大限に発揮するためには経営者になるしかないと考えるようになったのです。

何度も失敗し、時に借金までしても諦められなかった経営者となる夢

経営者になると覚悟を持って決意したものの、現在のフェリスグループを作るまでは何度も会社やお店を経営しては成功し、失敗しを繰り返していました。大金をつかんでは借金をして、つかんでは借金をして、30代前半には財産や名誉など全てを失いました。
どうにもやっていられなくなってしまったため、35歳頃には一からアルバイトを始めて、飲食店や工場、運送など様々なことに携わりながら、ギリギリの生活をしていました。

その頃アルバイトをしていた運送業の社長さんが、いつも人手が足りておらず人材派遣の業者に頼っていました。ある時、僕が人手を集める手伝いをし始めたことをきっかけに社内での人手を集める役割を実際に担うようになったんです。その後アルバイト先の社長さんに人材派遣の会社を立ち上げる計画を出したんですが社内で事業を立てることが叶わず、僕は個人で独立することになりました。それがフェリスグループの土台である人材派遣会社(現キングネクスト・旧ホクトスプランニング)の創立です。

創業時は僕1人で営業・現場作業・経理、全てを回していたので3ヶ月は家にも帰らず事務所で生活をしていました。睡眠時間もほとんどありません。そんな状況だったので一時期は実妹に手伝ってもらっていました。

失敗を続けてようやく掴み取った事業成功を次々と大きくしていく

人材派遣会社を立ち上げてからは事業が軌道に乗り、現在まで新たな事業を次々と生み出してきています。
事業を増やすきっかけというのはいくらでもあって、「新しい事業を何か作ろう」と考えたことは特にありません。一つ事業を始めて見たら自然的に新たな事業を思いつくと思います。例えば、今アウトソーシングして他社に頼んでやってもらっていることを、自社内でできないかと考えてみることですね。そもそも僕が人材派遣会社を立ち上げた時も、当時働いていたアルバイト先で外注していたことを内製化しようと企画したことがきっかけでした。今まで頼んでいたことを内部で進めていくことでそれが部署になり、事業となり、組織になるように、自分たちでもできる職種に目を向けてみると意外と沢山あるんです。要はできることを見つけた時に実際にやってみるか、やらないかだけだと思います。

ただそこで実際にやるかどうかは、社長の性格が如実に現れるんじゃないかと思います。僕は新しい事に対しての楽しみやワクワクが止まらない性格で、でき上がったものにはあまり興味が持てません。0から1を作る事に楽しみを感じる性格なんです。これもADHDの症状の一つかも知れないですね(笑)

今年参入した就労移行支援事業についても、参入するきっかけは前途述べた通りで、今の我々でもできる事業を探していた時に見つけ出しただけです。これまでの事業と全く異なる事業に参入するのは全く恐怖感も違和感もありません。逆に楽しみやワクワクがありました。これも僕の性格の一つだと思います。
ただ正直なところ、今回参入することになった福祉事業においては、これまで参入してきた事業よりも強い興味と探求心が強くあります。僕自身がADHDの症状を持っており幼少期に感じていた思いが役に立てる部分が少なからずあると信じています。また僕には現在21才の息子と1才3ヵ月の息子がいますが、その息子らも同じようにADHDであるためこの事業を通して知識見聞を深めたいと感じています。





共に働く仲間の生活や夢のために、そして事業の先に必ず存在するユーザーのために

ユーザーの存在が収益につながり、その収益で従業員の生活と夢をサポートする

現在フェリスグループでは株式会社キングネクスト、株式会社ホクトス・プランニング、有限会社イー・プロダクションがあり、業務委託からネイル・まつげサロン、広告、就労移行支援など幅広く事業を展開しています。
包み隠さず言えば、どれも収益目的で始めたものです。収益がなければ一緒に働く仲間たちを守ることはできません。各事業所が然るべき収益を上げることで従業員の個人の収入が担保されます。事業を拡大していくことは、従業員の生活向上や各々の夢を実現することへ繋げるための手段なのです。
ですがもちろん、我々が提供しているサービスの先に必ず存在するユーザーのことを忘れてはいけません。ユーザーが存在するからこそ収益を上げて、従業員の生活や夢を補償していくことができるのですから、そのことに対する感謝を持ち続けています
僕自身には具体的に大きな展望はありません。例えば、各事業所において全国で一位を目指すとか、「上場企業において全国で一位を目指す」などといった具体的な展望はないのです。ただ、ユーザーと従業員の満足できる場をこれからも提供できる会社にしたいですし、僕たちができる事業についてはこれからも挑戦を厭わないつもりです。

若くても、女性でも関係なく活躍する従業員ファーストの環境

今働いている従業員については大企業と比べると少し若い世代が多いかなと思います。20代前半~30代後半のスタッフが主で、管理責任者でも40代前半が多いです。僕が管理職の中で最高齢の49歳です。全事業部にも共通していることとして、本人が持つ考えや実力の結果が必ず上司・責任者、そして最高責任者の僕まですぐに届く環境です。だからこそ実力のある若手がどんどん管理責任者になってくれるのだと思っています。自分のやる気や考え次第で、環境を変化させて正しく評価されるような職場環境はフェリスグループの魅力だと思います。若いことは不利な面も多いですが、同じように存在する多くの有利な面を引き出せる人間関係を構築できるメンバーが多いと思います。
また半数が女性なので結婚・出産適齢期の方も多く、結婚しても出産しても無理なく働ける様に色々と工夫をしている最中です。実際に結婚しても出産して産休後にも復職されている方も多数います。

社内は、僕がグループ全体に発信している“笑顔”をモットーにしていることもあり笑顔と挨拶に溢れた明るい雰囲気で包まれています。今後フェリスグループに入社されるメンバーにも笑顔と挨拶は大切にしてもらいたいですね。あとはポジティブさと「満足に対する探究心」も大切だと考えています。一緒に働く従業員や仲間が満足して働くために自分が何をできるのか、私たちのサービスを使ってくれるユーザーさんがより高い満足度を得るために自分が何をできるのか、日々追求できる人にぜひ入社してほしいと考えています。

今こうやって僕のストーリーを読んでくれている読者の皆さんはきっと最初から僕の人生に興味があったわけではないと思います。Wantedlyを見ていてたまたま見つけたとか、きっとそんなことでしょう。
ただ、このストーリー記事を読んで少しでも何か感じてくれた人には是非フェリスグループに応募してみて欲しいです。
僕の経験上、キッカケや偶然なんてものはあまり気にすることではないと思います。それよりもキッカケや偶然を自分にとってプラスに活かせる人間になって欲しいと考えています。今持った僕に対してやフェリスグループに対しての興味を、今後の人生を良くするきっかけにできるように行動できる人が一人でも増えてくれたら嬉しいですね。

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