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創業50周年・・・ ~次世代へ~ ②

                              創業メンバー:右端が創業者の森﨑強


~👇前回からの続き~


【創業と創業期を支えた先人たち】

創業

昭和46年、高度経済成長期の後半、モリサキは現会長森﨑強により久留米市日の出町で産声をあげました。創業時は「九州活明社製作所」という社名で、大阪が本社の「活明社 九州営業所」が前身です。その5~6年前に社員として入社した会長は3ヵ月ほどで基本を覚えたとのことで、ほどなく九州営業所を任されたそうです。当時は社員はおらず、会長ひとりで全ての業務を担っていました。受注から製図、糸鋸ミシン挽き、刃入れ、それから配達へ出るという生活が続き、朝4時頃に木型が完成し、それから熊本まで配達に出かけるというようなことも多々あったそうです。国道3号線もまだ未舗装の箇所があり、高速道路が開通するのはもっと後のことです。

 

THE MORISAKI

ほどなく社員も一人、二人と増え、また結婚もしたところで九州営業所を譲り受け創業となりました。その頃のメンバーの中には将来専務となる現大坪相談役や工場長となる故黒岩さんがいました。その後はこの3人が軸となり、それぞれの役割を担うことで現株式会社モリサキの土台を築いていくこととなります。会長が製図、黒岩元工場長が製造、そして大坪相談役が営業と、それぞれの得意分野を担いつつも、全員が全ての作業をこなすことができるオールマイティー型のチーム構成でした。多能工化の先取りで、互いの意思疎通がよく取れており、まさに阿吽の呼吸だったそうです。また、そんな職人集団を公私共に陰で支えていたのは経理を担っていた会長夫人でした。そういう職人集団の中で、当時会長は「親分」と呼ばれていました。

 

職人技

今と違って昔は機械といえば糸鋸ミシンと切機、曲機くらいでした。切機と曲機においては道具と呼んだ方が良いかもしれません。製図も手作業、カットも手作業、刃入れももちろん手作業によるもので、まさに芸術的作品とも呼べるものでした。

体で覚えるというイメージが強いかもしれませんが、全ての作業は頭を使いながら(加工手順を先読みしながら)行うとのことです。また、当時は今のようなベニヤではなく、6mmの合板を3枚ボンドで貼り合わせたものを使っていたそうです。この作業は、ベニヤにボンドを塗布し貼り合わせ、大きなプレス機で締めこんで数日間置くという骨の折れるものだったと聞きます。その後レーザーによるカッティング加工が業界にも取り入れられ、ほどなくしてカッティング加工の外注を経て、いよいよレーザーカット機の導入へと変化していきます。刃入れに関しても自動切機や曲機、製図はCADへとオートメーション化が進んでいきますが、同時に芸術的ともいえる職人技が徐々に消えていくこととなります。

 

花札とキャッチボール

創業期においては、元気で少々気の荒い職人さんたちで活気に溢れていました。仕事に精を出す(作業時間を競いあった等)一方、遊びにも一生懸命でした。昼休みには昼食後の運動は欠かせず、キャッチボールをしていた光景が見られました。また、賭け事にも熱心で、みんな花札に夢中になって、時にはヒートアップし取っ組み合いの喧嘩もよくあったようです。

地方出身の若い職人さんもいて、会長夫妻が仕事以外でも面倒をみていました。職人さんと昼食や夕食を共にした頃が懐かしく思われます。とにかくみんな元気で明るく、人の温かみが感じられる昭和の時代です。

        To be continued・・・

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