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「自分の心は自分が一番よく分かっている」私が思う、選択をすることの有難みとは

「自分の心は、自分が一番分かっている」

これまで中国、日本、カナダ、オーストラリアの4ヵ国で暮らしてきた太田李沙。日本で生まれた後、1歳前後で両親と中国のハルビンに渡った。しかし、両親は仕事で頻繁に日中を行き来していたため、小さい頃の太田は叔母と過ごすことが多かったという。

「最初に覚えた言語は中国語でした。人前でダンスをするような明るく元気な子どもでした。」

太田が小学生になると両親は仕事で日本滞在の頻度がさらに高くなり、離ればなれで過ごすことが増えていった。そこで中学校1年生の時、日本に移住して正式に両親と暮らすことを決意する。日本には旅行の楽しい思い出もあり、外国で暮らしてみたいという思いも彼女の決断を後押しした。

来日当初、母とのコミュニケーションで戸惑ったことがあったという。

「何かの選択をする時、どちらがいいかと母に相談すると『あなたが決めなさい。自分の心は自分が一番よく分かっているはずだから。』と言われるんです。小学生の頃は何事も叔母が決めてくれていたので、自分で決断しなさいと母に言われた時は突き放されたような気持ちになりました。しかし次第に自分で考えて決めることが習慣になり、中学以降はすべて自分で道を選択してきました。今振り返ると、選択を任せてくれたことの有り難さが分かります。母には感謝しています。」


チームで目標に向かうことの素晴らしさを知った

日本の中学校に通い始めた太田は、ある壁にぶつかることになる。

「実は、当時は日本語がほとんど分からなかったんです。友だちとの会話もままならず、授業にもついていけませんでした。」

両親に教えてもらう、塾に通う、国語の授業中に別室で日本語を勉強するなど、様々な努力を重ねていった。1年ほどで日常会話はできるようになったが、日本語での授業は難しく、理解できるようになるまで2年ほどかかったという。

「それでも中国に帰ろうとは思いませんでした。日本での生活がうまくいかなかったんだと思われたくないですし、日本語が中途半端なまま逃げ出したくなかったんです。」

日本の学校生活で印象に残っている事を聞いてみると、太田はクラス対抗の大縄跳び大会を挙げてくれた。その理由を詳しく聞いてみた。

「クラスでひとつの目標に向かうことが新鮮だったんです。『あと少しがんばろう!』『できるよ!』とみんなで励まし合いながら取り組みました。中国の学校でもグループ活動はありますが、基本は個々で努力することが多いんです。日本の学校では、チームで一丸となって目標に向かうことの素晴らしさを知りました。」


私の世界を広げてくれた出会い

卒業後は外国語学科のある高校に進学した。英語が得意で、文科系のことを学びたいという理由からだった。そこでは太田の世界が広がる素敵な出会いが待っていた。

「同級生には私のような帰国子女や、両親が外国籍の学生がいました。その学校で私はフィリピン人の女の子と仲良くなりました。彼女も私も同じ『アジア』の出身ですが、考え方やコミュニケーションの仕方が全く異なっていました。例えば何かにチャレンジする時、私が『できないかもしれない』とネガティブになっていると『大丈夫、必ずできるよ!』と鼓舞してくれるんです。それまで彼女ほどポジティブな人に出会ったことがなかったので、驚きました。またその子の家に遊びに行った時、家族が互いに言葉で愛情を伝え合っていたんです。家族であれば何も言わずとも愛情は伝わりますが、言葉にすることで大きな喜びになることを知りました。このような経験を通して、よりいっそう海外に興味を持つようになっていきました。」


次なる挑戦の地は、カナダとオーストラリア!

太田は、次なる挑戦の地をカナダに決めた。

「高校の友人の影響もあり、次は英語圏で挑戦しようと思いました。英語力をブラッシュアップするために、まずはカナダに語学留学に行きました。」

現地での生活は充実そのもので、半年間で様々なことを吸収していった。そしてまた新たな地でチャレンジしたいと思った太田は、オーストラリアのシドニー工科大学に進学。ビジネス学部でマーケティングを専攻した。その選択の背景には、日中の架け橋となって働く母への憧れもあったそうだ。

在学中はネイルサロンの開業にもチャレンジしたという太田。詳しく話を聞いてみた。

「同級生の綺麗なネイルを見て、興味を持ったんです。アルバイトという選択肢もありましたが、自分でやり方や時間を決めて働ける、そして高い収入が見込めると思い、開業することにしました。ネイルの学校に通い、道具を揃え、オーストラリアで借りていた部屋で事業を始めました。広告は出さず、友人や知人に声をかけながら口コミでお客さんを集めました。」

しかし開業して3ヶ月ほど経った頃、新型コロナウイルスが広がり始める。太田は閉店を余儀なくされた。

「それまで事業は順調でした。3ヶ月でネイルスクールの学費と道具代は稼ぐことができましたよ。もう少し続けられていたらと思うと惜しい気持ちです。」

大学の授業もオンラインになり、友だちと会うこともできなくなった。当初はこの状況に不満を抱き、運の悪さに絶望していたという太田。次第に、それまで当たり前だと思っていたことがどれほど有難いことだったのかを実感するようになったと話す。


それぞれの文化や人々は、ユニークな魅力にあふれている

これまで4ヵ国で暮らしてきた太田。各国の文化や習慣にいかにして適応してきたのだろうか。彼女なりのコツがあるというので聞いてみた。

「それぞれの文化や人々は、それぞれ独特な魅力を持っています。そして良い面も悪い面もあります。私はいつもポジティブな面に目を向けるようにしています。例えば、それほど礼儀を重んじない文化は、見方を変えると『意見が言いやすい、コミュニケーションが取りやすい文化』と捉えることができます。良い面を見ることで自分自身も快適に暮らせるようになりますし、その国に良いイメージを持てるようになるんです。」


“I am the master of my fate. I am the captain of my soul.”

文化やコミュニケーションスタイルが自身にマッチしていると考え、日本での就職を決意した太田。多種多様な企業がある中で、WealthParkに惹かれた理由は何だったのだろうか。

「これまで様々な国で暮らしてきたので、多様な価値観が尊重される環境で働きたいと思っていました。WealthParkはそんな私にぴったりの会社でした。また『オルタナティブ資産への投資機会をすべての人へ届ける』というミッションにも興味を持ちました。」

昔から絵を描くことが好きだった太田は、オルタナティブ資産の中でも特にアートに注目していると語る。

「現在は、金銭的な理由でアート制作を諦める人が多いと思いますが、アートへの投資が広く行われるようになることで資金が集まり、それが解決されるのではないかと考えています。WealthParkが目指すオルタナティブ投資の民主化は、投資側の選択の自由を創出するだけではなく、作り手への新たな選択肢の提示にも繋がると思うんです。」

最後に太田は、人生の指針にしているという「ある言葉」を教えてくれた。

「カナダ留学時代に出会った、William Ernest Henleyの“I am the master of my fate. I am the captain of my soul.” です。私はこの言葉で自信を持てるようになりました。

この記事を読んでくださっているみなさん、迷ったら挑戦をしてみてください。どれだけ努力を重ねても、うまくいかない時があると思います。しかし、恐れずに挑戦し続けてください。簡単に結果を手にできた時より、挑戦、失敗を経て達成できた時は喜びもひとしおです。自分の運命を変えられるのは自分しかいないのです。」

インタビュアー
渡邉あす香|Asuka Watanabe
愛知県出身。大学卒業後に人材会社に入社。
企業のITエンジニア採用支援に5年間従事した後、2020年にフリーのライターに転身。
現在は、就転職や採用関連の記事を中心に執筆している。
https://www.facebook.com/asuka.watanabe.129
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