こんにちは!スタークスでメイン事業の開発ディレクターをしている高橋悠です。
業務内容としては、機能の企画をしたり、開発の進行管理をしたり、出来上がったもののテストをしたり、始めから終わりまで責任持って管理するお仕事をしています。
新卒4ヶ月でスタークス初のディレクター職に就き、今となっては年上のエンジニア集団の取りまとめをしていますが、過去の私からすると、想像もつかないようなことをしているな、と常々感じています。
では何故私が、そもそもなぜスタークスに入社したのか、開発ディレクターを担うまでになったのか、という点について、今日はお話できればと思います。
「母親」=「自分」だった幼少期〜高校時代
>かわいさのピークだった幼少期(写真中央)
みなさん、初めて家族以外の人と服を買いに行ったのはいつ頃でしょうか?
実は、私は大学生になるまで、母親以外の人と服を買いに行ったことがありませんでした。それまで母親の好みの服を買っていたので、母親がいないと、何を買ったら良いかわからなかったんです。今思うと自分の好みが全くないってすごいですね。
私の家は母子家庭で、母・兄・私の3人家族なのですが、同性ということもあり、小さい頃から母との距離がすごく近かったんです。母親を尊敬していましたし、性格も似ていますし、二人で過ごす時間も多かったからか、幼い時からずっと、「母親」=「自分」だったんです。
母親がこの芸人は面白くないと言えば面白くなくなるし、この高校は良い高校だと言えば、たしかに良いな、よし受けよう、と思っていました。そんな自分にとって、母親から否定されることは一番辛く悲しいことだったため、「母親が喜ぶ選択をしよう」といつも思っていました。
これを言うと学生時代の友人に引かれるかもしれませんが(笑)、母親中心マインドで生きてきた私にとって、学校生活も「母親が喜ぶような生活を送ること」ことが目標でした。特に友人関係においては、「明るく元気な子達と仲良くする」ことが親の望む友人関係だと思っていたので、それが実現できるように、友人関係を構築していました。
そんな状態のまま高校生3年生まで過ごしていたのですが、卒業間近に私は「母親は家族だけど、あくまでも他人」という衝撃的なことに気が付きます。
親と自分は別の人だと言うことを知った高校時代
>年の差を感じないくらい若々しい母(写真左)
その衝撃的な気付きを得たきっかけは、一人の友人でした。
高校3年生の時仲良くなった子なんですが、とにかく「自分の好きなもの」を大事にする子でした。ポケモンとか、ジブリとか、アーティストとか、自分の好きなものの話を、すっっごく楽しそうにするんですよ。話している相手が同じものを好きかどうかは置いておいて、さらっと「これが好き」と言えちゃう。しかも、嫌いなものも嫌いとはっきり言えちゃう。
そういった、”思っていることをはっきり伝える姿”に、すごく衝撃を受けました。
それから、「あれ、そういえば自分の好きなものってなんだっけ」とか、「今までの自分って本当に”自分”だったのかな」と、自分について、すんごく考えはじめました。
ここで、服の話に戻るのですが、このTシャツかわいいなと思っても、親が変だよといえば、これまでの私は買うのを辞めていました。
しかし、その友人に出会って、自分についていっぱい考えてから、親が変だと思っても、自分が好きならそれでいいんだと思えるようになりました。
この出会いをきっかけに、「人は人、自分は自分。もちろん親もそうなんだ」ということに気が付き、自分の軸を持てるようになりました。
極限まで自分の人生を生きていくことを決めた
高校3年生で「母親と自分は違う」と気がついてからは、これまで自分の人生を過ごせていなかった分、とにかくがむしゃらに人生を歩んできたい!!という並々ならぬ思いに駆られていました。とにかく外に出て、色々なものに触れて、自分という人間の輪郭をはっきりさせようと思ったんです。
あまり人が行ったことのないような国にいってみたり、滝を逆から登ってみたり、外国人と朝まで飲み明かしたり。初めてのことにたくさん触れて、「こういうときに自分はこうするんだ」「自分はこういうときに楽しいと感じるんだ」ということを学んでいき、少しずつ自分について知っていきました。
そんな日々を過ごすなかで、「誰もがやりたいことをやれる環境を創る」という自分のMISSIONに出会います。
自分のMISSIONを創った、ネパールでの出会い
>ネパールの小学校で、先生と抱き合う私
大学生時代、一番熱中していたのは学生団体の活動でした。
ネパールの農村に本を届けるという活動をしていたのですが、この時、ある一人の女の子と出会います。
その子は、私達がずっと活動を続けてきた学校の生徒でした。活動が終わった後、泣きながら私に訴えてきました。「親が離婚して、収入が大きく減ってしまうので、学校に通うことができなくなる」と。お父さんも一緒にいて、ふたりともすごく悲しそうに泣いていました。
私は何も出来ませんでした。
すごく、すごく悔しかった。
助けてほしいと言われているのに、何も出来ないことがただ悔しかったし、何よりその子は私と同じ、片親になるわけです。
自分の都合でなく、周りの都合でやりたいことができなくなるわけです。
色々な国に行って、色々な人と出会うなかで、国や宗教、人種という選べないものの影響で、やりたいことができない、なりたいものになれない人が沢山いることを知りました。
そんな世界を変えたい。努力すればなんでもできるようにしたい。そう思うようになりました。
そうして、私の「誰もがやりたいことをやれる環境を創る」というMISSIONが生まれたのです。
社会課題に焦点を当てたスタークスとの出逢い
>懐かしい1年前の入社式の時
そんな私も就活生になり、自分の進路について考え始めます。
結果としてスタークスに入社しているわけですが、就活をはじめたばかりの頃は、大手企業ばかりみていました。自分の成し遂げたいことは日本にとどまらず、地球規模で成し遂げたいと思っていたので、影響力が大きく、海外でも働くチャンスが多いであろう大手企業が良いなと。
ですが、説明会に行ったり面接を受けたりする内に、本当に自分が持っているMISSIONを成し遂げるための手段は大手企業ではないのでは…と疑問を持ち始めました。
私の「誰もがやりたいことをやれる環境を創る」というMISSIONはどうしたら成し遂げられるか?改めて考え直したら、自分の軸が3つ浮かんできました。①自分のMISSIONにできるだけ近いMISSIONを掲げていること ②人の価値観や個を大事にしていること ③短い期間で結果を出すために(このMISSIONは生きているうちに達成しなければ意味がないので…)裁量権をもって行動でき、かつ組織としても効率的に拡大していること。
上記を考えたら、大手よりもベンチャーで働くほうがいいかもしれない、そう思い、急遽6月から方向転換。ベンチャーを受けだすようになります。
その時には既にいくつか内定ももらっていたのですが、自分の軸としっくり合う所が見つけられておらず、就活を続けていました。スタークスと出会ったのは自分が受けた企業の中でも一番最後でした。
初めて行った説明会では、スタークスのビジネスモデルは理解できていなかったのですが(笑)、「ただ効率化や利便性を求めるのではなく、その中でも人の温もりも伝えられるものを提供したい」という、代表の上ノ山の説明に、私の心は惹かれていました。
それ以降の面接でも、面接する方の全員が目を輝かせて仕事のことを話している、課題を解決していくために本気で取り組んでいる姿勢を肌でひしひしと感じ、直感的に「私が探していた会社はここだった!」と思いました。
そして入社を決めるのですが、これまでスタークスに決めた理由については、正直な所「直感だった」とずっと言っていたのですが、今振り返ると、しっくりと自分の軸にハマっているので、直感にも根拠があるんだな、と自分の感に関心しています。(笑)
その時のスタークスはまだ10名ちょっとだったのもあり、親には反対も少しされましたが、自分の人生自分で決めなきゃ後悔するのはこれまでの経験で承知していたので、なんの迷いもなく決めました。
テクノロジーの力を借りれば、なんだって出来る
私、思うんです。テクノロジーって素晴らしいなと。
遠い国の人と気軽に連絡が取れるようになったり、経験や知識を、インターネットを通じて得ることができたり。テクノロジーの力を借りれば、「やりたいことがやれない」環境にいる人も、その環境を打破する手段を得ることができるんです。私が行ったネパールはアジア最貧国の一つなのですが、その農村の小学校でも1・2台はPCがあり、4000冊もの書籍をインターネットで閲覧できるようにしていました。図書館では300冊ほど管理するので精一杯でしたが、インターネットの力を借りれば何倍も広い世界に触れられるんです。今ではインターネットは誰にとっても身近なもので、その根幹にあるテクノロジーってすごいなと思いました。
そんな素晴らしいテクノロジーを使って社会課題を解決する仕事を、現在担当しています。
入社後、私はエンジニアの経験を経て、現在は開発ディレクターをやっています。
顧客の痛みや市場の課題を捉え、システム開発に活かしていく仕事です。
技術的な高い壁を乗り越えたり、素晴らしいアイディアをひらめくには、とても時間がかかることがあります。なかなか結果が出ず大変なことももちろんありますが、それこそ、「こんなことがやりたいのにやれない…!」という、課題解決するプロダクトをつくる仕事ですから。自分のMISSIONと一致しているんです。
スタークスのMISSIONである【マーケット・イノベーションで社会課題を解決し、世界に新しい可能性を拡げる】と、自分のMISSIONを紐付けながら、理不尽なことをこの世界からなくせるように、今日も私は頑張ります。
とにかく"自分らしく生きていきたい"人へ
高校卒業くらいまで”自分”が何者か分かっていなかった私ですが、こうして振り返ってみると、人との出会いをきっかけに、「死ぬ気で”自分”を生きていく!」というほどまでに変わっていきました。
就職など人生の岐路に立つ時にこそ、こうした運命の出会いってあると思います。
自分の輪郭が曖昧になっている人、それでも大きな何かを成し遂げたいと思っている人、ぜひオフィスにお越しください。
そこに、運命の出会いがあるかもしれません。