ご覧いただきありがとうございます!
株式会社スピードリンクジャパンの和田と申します。
私は2022年2月から中途でこの会社に入社しました。
本社の所在地は恵比寿ですって、オシャレですよね、すご・・・
なぜ私がそんな驚いているのかというと、
その1年前の私はメーカーの営業として北海道の北の大地で営業廻りをしていたから!
1年間、札幌市内に住んでいました。上のよく見かけるような札幌駅の写真も自分が撮ったものです!
そんな私がなぜエンジニアに転職しようと思ったのか?
また、どうやってエンジニアになれたのか?
私と同じように今は全く別の業種で働いている人たちにもこういう選択もあるってことを知ってもらえたらと思います。
よろしければどうぞ。
目次
4年間メーカーでルート営業
友人の話で「別の生き方」を考える
決心、プログラミングスクールへ
初めて触れるプログラミング
そして、現在
最後に
4年間メーカーでルート営業
私は前職では化学品メーカーに勤めており、新卒で入社し約4年間営業として業務を行っていました。
主な業務内容は既存の取引先と関係を構築して、「売上数字の維持と向上を行う」ことでBtoB向けのルート営業でした。
初めの3年は関東全域を担当し、1年1年と経験を積んでいくたびに、取引先の人たちと仲良くなる方法を身をもって学べたり、月の目標数字の作り方がわかるようになってきたり・・・
少しずつでも何かができるようになっていくのは働いていて大きなやりがいでした。
そんなやりがいを見い出しながらの4年目、北海道への転勤が言い渡されます。
初めての北の大地での一人暮らし、果たして生きていけるのかどうか不安は大きかったですが会社の事務所の方たちや取引先の人たちの優しさに支えられて仕事も生活もなんとか成立させて、生活することができました。(余談ですが、北海道のトリトンという回転寿司屋さんとてもおいしい・・・)
○自宅前の積雪の様子(市内とはいえ積もる・・・)
友人の話で「別の生き方」を考える
一見なんだかんだ順調そうに見える生活の中でなぜ「転職」というキーワードが出てきたのか。
それは「北海道への転勤」であることに気づいてしまったから。
それまでの3年間は仕事に慣れるために必死に頑張って、そして徐々にできるようになっていく過程でした。なんとか周りに追いつかなくちゃ!とそう強く思いながら毎日を過ごしていました。
そんな中で新しい土地に赴任して、新しい事務所や取引先で関係を作り、新しい土地での業務に慣れるべく頑張りました。すると、業務内容自体は東京自体と変わらないので数ヶ月で慣れてしまい、すぐにある程度業務が回せるようになったのです。
そこで「この業務をあと何十年続けていくんだろう・・・」ふと思ってしまったのです。
営業の主な業務は「売上数字の維持と向上」です。「目標通りの売上数字を出す」ことが仕事になります。そのために取引先と関係を作ったり、営業に回ったり・・・・ そして、どれだけ頑張っても残るのは「売上数字」のみでこの先もやることは変わらないんだろうな・・・とそう思いました。
実は、私は昔からあらゆる「ものづくり」が非常に大好きでした。 大学時代はゼミ活動でテーマについての研究と発表のためのわかりやすいスライド作成に注力したり、 趣味ではプラモデルを作ったり、文章を書くことが好きだったりなどなど とにかく「何かを生み出すこと」とそのために作り込むことがとても大好きだったのです。
それを考えた時、このまま営業を続けても自分が本当に好きなことはやれないなと強く感じました。
そんな時に頭をよぎったのが、北海道に行く前に一緒に飲んだ高校時代の同じ部活の友人でした。 彼はプログラミングスクールに通っていると言い、作りかけのアプリを見してくれました。 「自分は旅が好きだから、旅をテーマにして作ってみたんだ」と。 友達は同い年なのですが食品メーカーから美容系の企業での営業をして3度目の転職ということでした。
「自分の手で何かを作り出すことって楽しそうだな・・・・」
これまで頭の中でぼんやりと思って続けていたことが、ふと北の大地で思いもよらず思い出されたのです。
自分も「自分の手で何かを作りだすこと」を仕事でやってみたい
それが自分のやりたかった事かもしれないと答えにたどり着いた瞬間でした。
決心、プログラミングスクールへ
そう思ってからの行動は早く、その友達にすぐさま連絡して今の状況を聞きました。 すると友達は無事就職し、アプリの保守運営業務を行っていました。 今の自分の心境を話すとプログラミングの仕組みや言語についてもわかりやすく教えてくれました。 その話はこれまでとは全く別世界のもので聞いていてとても興味深いものでした。
「できるかわからないけど、プログラマーってなんか楽しそうだな・・・」そう感じたのです。
すぐさま彼が通っていたプログラミングスクールを教えてもらい、そのスクールは卒業後の転職サポートも手厚く非常に高い転職率であることも聞いて、完全にプログラマーに「転職」する覚悟を決めました。
上司に事情を話し、2ヶ月後には退職。
関東に戻って、昨年の7月からプログラミングスクールへ通うこととなりました。
○飛行機で飛び立つの図(成田→札幌しかなかった)
初めて触れるプログラミング
私が通っていたプログラミングスクールは4ヶ月あり、HTMLの基礎からCSS、アプリケーション制作、グループワーク、仮想インフラなどを学びました。
プログラミングに触れて思ったことは「楽しい!」というその一言に尽きます!
仕組みがわからず苦労することは多々ありましたが、普段我々が見慣れているようなホームページを自分の手で少しずつ作り上げていく過程は非常に面白く、やりがいを感じました。
さらに、その期間中に行ったチーム開発も非常に楽しむことができました。男女や年齢差もある4人のチームでしたが、それぞれの個性を理解して尊重しながら力を合わせてアプリを開発していく過程にも大きなやりがいがありました。
やってみるとプログラミングの世界は非常に面白く、 自分がやりたかった「何かを作り出す」ことが本当に仕事でできるかもしれない・・・? そんな想いを強くした学習期間でした。
そして、現在
その後4ヶ月の学習期間を経て、プログラミングスクールを無事卒業。
職務経歴書の添削から企業選び、会社エントリーに至るまでスクールの就活サポートを受けながら2ヶ月ほどの就職活動を経て、無事株式会社スピードリンクジャパンへの就職が決まり現在に至ります。
この会社に決めた大きな理由は「人のために役に立つ」「果敢に挑戦する」を大きく掲げているから。
自分がこれからより明確に出てくるであろうプログラマーとしての「何かを作り出したい」という意思をこの会社であれば、尊重してくれるはずだとそう思えたからです。
入社してみると、社長も社員さんもフレンドリーで優しい方が多くとても驚きました。 自分と近い20〜30代の社員さんが非常に多く、交流しやすいのも前職(年功序列制で40〜60代の層が非常に厚かった)と大きく違っていてありがたいなぁとそう強く感じています。
最後に
私が好きな緑黄色社会というバンドの曲の歌詞でこんな言葉があります、
「かき集めた100より残っていた1の方が どうしてかなこの永く続いていくらしいんです」(「これからのこと、それからのこと」より)
今目の前にあるものどれだけ集めるより、自分の中にある確かな1を大切にしていった方がきっとこの先も永く続いていくはずだとそんな歌詞です。
私でいうと「何かを作り出すことって楽しいな」という、学生時代から思い続けた一つの想い。
その1の想いからこれまで4年間も営業としていろんな場所を飛び回っていた人間が、今やパソコンの前でプログラミングを書いています。
2年くらい前の自分に言ってもきっと信じてもらえないだろうなぁとそう強く思います。 でも、実際にこうしてSEとして働いているんです。不思議ですね。 そして、なんだかこの先も永く続けられそうなそんな気がしています。
一つの会社で数年働いていると、「今いる会社の環境が全て」とどうしても無意識的に考えてしまい、 中々転職やさらには異業種への転職なんてと思う方もいると思います。
でも、大丈夫です。
こんなふうに新しい環境に身を移せている人たちは私の会社でもスクールの卒業生でもたくさんいます。
その曲の歌詞ではこんなことも言っています。
「ただ笑った私がいればいい」(「これからのこと、それからのこと」より)
結局は自分一人の一度きりの人生です。 生きとし生ける人、一人一人の未来が笑っていられるものでありますように。
そう願っています。
長く拙い文章をお読みいただきありがとうございました!