アートシンキングというものと出会い、原点が何であるか理解をして、それをベースに物事を作り上げていくことが結果的に自分自身がやりたいことを明確化することで、やること、やらないことの断捨離、効率化につながっていくものだという学びを得た。そこで自分の原点は何かを可視化して備忘録的に書いてみようと思います。
アートシンキングとは
https://sinca.co.jp/art-thinking/
私は沖縄で生まれてから18歳まで育ちました。
おばあちゃんの家があったことで、東京に1年に1か月程度過ごす機会があった。
だから私自身は沖縄人のようで東京人みたいなところがある。
沖縄には住んでいたが今ある環境があまりにも自分にとっては不変すぎてあまり興味がなかった。
そんなに詳しく沖縄の文化もわからないし、東京上京後に知ること、学ぶことの方が多かった。
そんな自分の環境と比較する機会を2回、両親から頂いている。
それはアメリカへの留学体験。
中学生2年生にアメリカにホームステイで1ヶ月、高校3年生でアメリカ留学1年間。
沖縄はアメリカの基地が点在しており、アメリカ人の交流する機会もありました。
また基地の中に英語を学びに行く機会も稀ではなかった。
だからこそアメリカ留学には抵抗感がなく、そんなにギャップがないものだと思っていた。
実際に留学してみて、その人たちの環境にどっぷり入ってわかったのは全く違うものだった。
1ヵ月のホームステイは休みだったというものもあり、楽しかったで終わったんで、
その延長線上で1年留学を決めたのですが…。
1年間の留学は時間が進めば進むほど新鮮さがなくなり、
日本で当たり前にできていたこと、できることに対するギャップに苦しみました。
特に冬がつらかった。
留学していたMAINE州というカナダの国境にある州で、
緯度が高くて、日照時間が短くて、14時位には夕方モード。
暗い時間が長くて、沖縄で生まれ育った私にとっては太陽がなく、本当に滅入りました。
そんな留学時期にどこから来たかわからない私を
その学校の人は私が苦しんでいる時に多くの方にフォローアップ頂きました。
日本のようにイジメもありますが、多様な人種がいる中で一人の人間として受け入れて、
困っている時に手を差し伸べてくれました。
受け入れてくれた理由は
ちゃんと前を向いて、取り組んでいたことに支援をしたいと相手が感じたととらえています。
引きこもっていたらそんなことはなかったかもしれませんが、
積極的にクラスにも、部活動にも、家族付き合いにも参加していました。
参加していく中で私のことを知り、触れ合い、信頼をしてくれたのかもしれません。
日本というだけでなく、沖縄の基地に友人がいるなど共通点を持つネタが多かったのは
本当にラッキーだったなと思います。
認知して⇒興味を持ち⇒仲良くなる⇒誰か新しい人を紹介されるというサイクルに入り、
多くの方と繋がっていくことになります。
唯一の日本人だったのもあり、本当に目立ちました(笑)
スーパーでレジで並んでいて、前に並んでいた小さい子供が私を見てビックリして泣いたのにはビックリしました。
そこから色々な人と繋がり、関係性が浅い人も、深い人もいますが、
街をドライブするとあちらこちらから私の名前をからかい半分で呼んでくれるようになりました。
これは相手がどういう意向かは別として日本人として、人として認められた証拠です。
アメリカだからと言って、全員がそういう風に扱われるわけではありません。
どんな時もワクワクから生きているからなぜか笑みが生まれ、
皆を笑みで巻き込んでいくものだと再認識しました。
また誰と繋がっているという認知の次のステージから付き合いを始められると
信頼のステージの手前から始めることができます。
その代わりに、信用のステージに入って信頼されないともう次のステージには一生上がれません。
そんなこともしっかり学び始めたのもこの時期だったのかもしれません。
*共通点ネタ探し、紹介してもらうという特技はこの時期から種まきが始まっているのでしょう。
少し議題と脱線しているので話を戻していきます。
私の原体験で、ホストファミリーとの関係があります。
ホストファミリーは無償で受け入れ留学生を受け入れるルールになっています。
だから日本人は他の国の人に比べると、年間通してホストが決まらないことがあるそうです。
理由は言語力、コミュニケーション力の問題だそうです。
言葉がわからないよりもコミュニケーションをして意思の疎通が取れないことにより
受け入れたいという人は少ないそうです。
ホスト側は受け入れる目的としてその人たちの母国についての学びというニーズもある中で
コミュニケーションができないことによりそのような傾向になる事実を仮ホストファミリーから伝えられたのを鮮明に覚えていると同時に、これから始まる前途多難な1年の始まりに不安を感じた。
転々とするのが嫌だったので、選択肢は1つしかなかった。
中学生の夏にお世話になった知り合いの家族にホストをお願いして快諾してもらった。
そこで色々大人の事情もあり、そこの家を出ていくことになる。
実際は私は問題だと思っていなかったけど、周囲はそう思ったそうです。
水面下で皆さんが動いてくれた。
その時は学校始まって4週間程度で、私を評価してくれたのはサッカーをしている姿勢。
別にうまくないが、言葉が通じない中でサッカーを行うことは負けなかったのだけが救いだった。
ひたすらボールを追いかけていた。取れなくても、ボールが出そうでもあきらめずに最後まで走る。
それしかできなかった。でもその姿勢に周りが覚えてくれてた。街中を歩くと知らない人が声をかけてくれて、『先週はいい動きしていた!』と褒めてくれた。そんなチームの仲間が英語はロクにしゃべれないけど、プレイの姿勢を評価してくれて、仲良くなったのは自然の流れだったようです。
そこで家を出ていくべきだ論が出て、私はホストチェンジすることになった。
でもそんなに仲の良いメンバーではなく、あまりしゃべったことのない仲間だった。
家族とも同様に初対面に近いが、私を受け入れた理由は『困った人は助けたい』の一言のみ。
そんなご縁で9ヵ月お世話になり、ランチ代として毎日5ドルもらっていました。
英語ができるようにゆっくり話してくれたり、アウトドアを学んだりと貴重な時間でした。
しっかり家族として受け入れて頂き感謝しかありません。
そんな原体験の中で、『困っている人を助けたい』、『チャレンジする姿勢をお手伝いしたい』と思うようになりました。
大学を経て、社会人になってからも、顧客との対話の中で大きなチャレンジしている企業への成長を支援したいと思い、支援していく中で大きく成長していく企業を見てきました。そのように成長していく企業を多く、世の中に輩出していきたいと思いました。
私たちがメイン事業として行っているオフィス移転は大きなお金が動く中で、物件を紹介した、してないなどだけで企業として選ばれるというのは疑問を思い、オフィス移転という大きなチャレンジをしていく中で不動産会社としてではなく、人としてその会社を支援したいと思うと色々なことができるものです。人材を探していれば人材を紹介したり、取引先を探していたら取引先を紹介したり、PCがなければ使っていないものを譲ったり、とお手伝いしてきました。そのような企業こそ、その後の成長スピードはビックリします。そのようなことをしてきたら、不動産仲介に留まらない視点でその人たちの成長支援ができると思ったんです。
タイミング的にもこのまま会社でやっていけないと思ったので、起業して、まず起業時に困ったので起業向けのシェアオフィスを開設して、そこに入居したら会社設立~税務相談、免許取得、資金調達をサポ―トとして、売上不安だから取引先をバンバン紹介して気がついたら1年ぐらいで皆さん売上が安定して出ていくんです。
売上上げたいよりも『困っている人を助けたい』、『チャレンジする姿勢をお手伝いしたい』を大切にしたいと思うと、ビジネスの取り組み方が全く違うです。
大切にしたいことが違うからそういう理由なんだと2回目の起業である株式会社しんかを設立する時に気づいたんです。
おそーーーーーーーーーー!おそーーーーーーーーーー!ほんとうにおそーーーーーーーーーーーい!
株式会社しんかの社名は
沖縄の方言のシンカ(仲間。ビジネスの仲間。別表示:臣下)からインスパイヤ―されています。
名付けた理由はどんな時も私たちは仲間に助けられて生かされています。本当に大変な時でも誰かの1つの紹介が私たちの状況を一変して、また私たちの一人の紹介がかけがいのない出会いに繋がったりします。そんな仲間を大切にしたいという理由が一番最初の理由です。
またビジネスの仲間の成長も願っていますので、しんか⇒進化、しんか⇒真価、しんか⇒新価という願いを重ねています。
そんな想いに共感して、日本の社会でチャレンジする姿勢を応援したい、困っている人を助けることができる社会を作っていきたい人にジョインしてほしいです。
あなたの原体験が想いを作り、その想いが行動に変わっていきます。
あなたに大切にしてほしいのは想いと行動(伝える)のサイクルだと思っています。
結果はいつか形になりますが、前向きに苦しいことも楽しみながら形にしていきましょう。