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さとゆめの「はじまり」~伴走型コンサルタントが生まれるまで~

「地域に寄り添い続けるコンサルティング会社が、一つくらいあっても良いのではないか」

これが、さとゆめの始まりでした。

「ふるさと」との初めての出会い

大阪で生まれた私は、父の仕事の関係で、小学生から中学生までの9年間をタイやインドで過ごしました。高校生のとき日本に戻り、千葉で生活。さまざまな国や土地を転々としていた私が、はじめて「ふるさと」と呼べる地に出会ったのは、京都の大学へ進学してからでした。それが、森づくりのボランティアサークルで通っていた、雲ケ畑(くもがはた)という80世帯ほどの集落です。

京都の山間地域にある雲ケ畑には鴨川の源流が流れ、昔ながらの美しい自然がありのままに残っていました。夏は、透き通るような川に子どもたちが飛び込んでいて、時にはオオサンショウウオと出くわす。春から秋へ、生き生きと姿を変える野山が、冬にはひっそりと雪化粧になる。

始めは距離があった住民の方々とも、山仕事をする中で関係性が深まり、理想とするこの地に住み続けたいとさえ思うようになっていました。

しかし、その喜びは長くは続きませんでした。私が大学に通っていた6年の間に、住宅様式の変化や輸入材の増加により、林業は急激に衰退したのです。山を売る人も出てきて、美しい光景は見る見るうちに消えていき、雲ケ畑の人々も森づくりから離れていく。

ただ傍観することしかできなかった私の中に残ったのは、大好きな地を守れなかった非力さでした。

会社員時代に抱いた業界への疑問

「ふるさとの風景や暮らしを守れる人間になりたい」

そんな想いから、私が大学院卒業後に入社したのは、まちづくりや環境保全を専門としているコンサルティング会社でした。そこでは多くの学びがあったし、日々の経験は、今でも自分の基礎となっています。

ただ、どうしてもモヤモヤしていたのが、当時のコンサルティング業界の特性から、計画策定や戦略立案などの準備フェーズにしか関われないこと。「この通りにやればうまくいきますよ。頑張ってください」という姿勢がコンサルタントの在り方で、私自身も、関わったプロジェクトの今後には目をつむっていました。

しかし、3年、5年経つと、自分の関わった計画や戦略のその後が耳に入ってくるんです。ほとんどが「今では全然動いてないよ」と結局は実行されていませんでした。そもそも、コンサルタントが計画や戦略を立てただけで、数年後もうまくいっていたら、日本の過疎・高齢化はもっと解決しているはずです。

私たちの仕事の在り方は、これで良いのか。自分が立てた計画・戦略の実現までサポートする会社が、一つくらいあっても良いのではないか。現状に対するモヤモヤは、私の中で色濃くなっていきました。

今を共にする盟友たちとの出会い

転機となったのは、コンサルティング会社に勤めて3年目。長野県信濃町の「癒しの森事業」に関わり始めてからのことです。同事業は、観光客が年々減少していた信濃町を、町の7割以上を占める森林を使って、人々の健康づくりのための保養地型観光地にしようというプロジェクトでした。

このとき、町役場で同事業の専門部署に勤務し、プロジェクトを一緒に進めた同年代の職員が、今、さとゆめで副社長を務めている浅原武志さんです。浅原さんとは、出会った当初から、コンサルタントと自治体職員という立場の垣根が全くなく、信濃町に赴いた際には、自宅に泊めていただくこともありました。

浅原さんを通じて知り合ったのが、信州大学の教授だった中嶋聞多さん、信濃町最大のホテル「黒姫ライジングサンホテル」のオーナーだった武井裕之さんです。年代も立場も違うのですが、地域づくりに対して似たような疑問を持ち、長年の知り合いかのように息が合いました。

癒しの森事業は、住民の方々と信濃町役場の職員さんの努力により成功を収め、そこから次々と事業が広がっていきました。信濃町と協定を結ぶ企業が増えたり、新たな雇用が生まれたり、国内外から視察が来たり。何より、信濃町を訪れる人たちが、とてもいい笑顔で。

ひとつの地域を起点に、街や人の心に灯がともる様子を目の当たりにしていたら、計画や戦略を作ることとは、比べ物にならないほどの胸の高鳴りを感じたんです。

このときの経験から自分の中で明確になったのが、地域の想いを「事業」というかたちにして、それが経済的効果を生むまで伴走したいということでした。

そうして、癒しの森事業の終了後、私と浅原さん、中嶋さん、武井さんで、2012年に株式会社さとゆめを設立しました。

「さとゆめ」の創業と鳴りやまない電話

創業から1年後。私はコンサルティング会社を退職し、さとゆめに専念することにしました。当初は全員が副業としてさとゆめに関わっていたので、このとき本業としたのは私ひとり。永田町にあるアパートの一室にオフィスを設け、自社サイトはおろか、道具すら整っていない中でスタートを切りました。唯一の宣伝方法は、「ふるさとの夢をかたちに」と書いたA4のコピー紙をいたるところで見せながら、想いを口にすることでした。

「まずはフリーランスでやっていければ……」とさえ思っていた私を驚かせたのは、毎日のように鳴りやまない問い合わせの電話です。

「地域の未使用資源を活用してほしい」「商品の開発から販売までを担ってもらえないか」「地域資源のプロモーションを一緒にやってくれ」。地域は、やっぱり伴走を求めているんだと、潜在的なニーズを掘り起こせたことを実感しました。

さとゆめに専念してから数か月後には、初めて数年単位で伴走させてもらえることになる、山梨県小菅村とも出会いました。

創業4年目には浅原さんが、本業を辞めてさとゆめに専念してくださいました。

以降、全国の地域からご相談をいただく中で、組織としても拡大を続け、年間40~50の地域に伴走させてもらえるようになっています。

地域の仕事に関わる喜び

当時のコンサルティング業界の常識を覆す「伴走」というキーワードを掲げ続ける中で、業界の在り方にも、大なり小なり影響を与えてきたと感じます。今では、「伴走」というワードを他社が使っている場面をよく見聞きしますし、「伴走型コンサルタントといえば『さとゆめ』だよね」と言っていただけることも多くなりました。

2022年11月現在、社員は約30名。嬉しいことに、最近は私たちの想いに共感して「さとゆめ」の門を叩いてくれる人も増えてきました。

過去には、新入社員の前勤務先の役員から「うちのエース社員が転職しようとしている『さとゆめ』とはどんな会社なんだ。納得がいかないから、社長と合わせてみなさい」と、面会を求められたこともあるんです。

いざ行ってみたら、執行役員や部長、課長などのそうそうたるメンバーが勢ぞろいで(笑)。そんな中で、さとゆめの想いや事業について話したら、「これは転職したくなる気持ちが分かる、何なら私も働きたいね」と言ってくださり、実際にその後、この会社さんと一緒に仕事をしました。

地域の仕事には、独特の喜びがあります。

会社の上司・部下・同僚だけではなく、住民の方々や移住してきた若者、村長さんなど、とにかくその地域が好きな人が集まって、ひとつのチームになります。共通しているのは、「地域のために」という想いだけ。そこに、立場や年齢による垣根はありません。

地域を変えるには、住民一人ひとりに丁寧に説明する必要があるし、時間もかかるので、何かきっかけがないと人は動かない。想いへの強い「共感」があって、人の心は初めて動くんです。

150年誰も住んでいなかった大きな家に灯りがともったり、20年、30年と赤ちゃんが生まれていなかった集落に親子が移住して、子どもの笑い声が響くようになったり、それを見て住民の方々が笑顔になったり。地域に変化を起こす喜びは、何物にも代えがたいんですよ。

より多くの方にその想いを体感してほしいですし、私たちと一緒に体感していただけたらと思っています。

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