こんにちは!お待ちかね、Open Room Inc. メンバー紹介シリーズです!最後を飾るのは、創業代表の田沼豊寿です。元外資投資銀行マンだった代表が華々しい金融業界を離れてITで起業した理由、そして起業までに経験した様々な困難について赤裸々に語りました。
名前: 田沼豊寿(通称:Toyo)
役職: 代表取締役CEO
年齢: 36歳
出身: 東京、日本
尊敬する起業家: Richard Branson、Rich Devos、母親
幼少期〜学生時代
学生時代までの生い立ちについて聞かせてください。
東京で生まれ、幼少期の一部を覗いてその大部分を東京で過ごしました。少年時代は、活発でしたがシャイで物静かなタイプだったと思います。中学校から親元を離れて全寮制の男子校に入り、規律や上下関係などが厳しい中で学生生活を送りました。その後、高校で単身渡米し、アメリカの高校で学んだのちに、カリフォルニアの大学に進みました。
子供の頃の夢はなんですか?
映画のインディ・ジョーンズに憧れて、エジプト考古学者を夢見ていました。
人生における転機はありましたか?
はい、16歳でのアメリカへの高校留学が人生における大きな転機の一つです。留学先は、米国本土の中心にあるカンザス州という荒涼とした大地が広がるエリアで、見渡す限り牧草地と牛だけという何もない田舎でした。町の人口は2千人程度で、高校も学生の4人に1人が生粋のカウボーイ/ガールで学校にもカウボーイブーツとカウボーイハットを被って来るといった感じです。もちろん、どこを見渡してもアジア人はわたし1人だけ。彼らのほとんどは、それまでアジア人にすら出会ったことがありませんでした(笑)また白人至上主義が根強く残る地域だったので、溶け込むのには大分苦労しました。それまでは、シャイな日本の高校生でいましたが、留学経験を通じて自分自身をもっと前に出して、人間性を発信しなきゃいけないということを学びました。
キャリア
大学卒業後のビジョンはありましたか?
その後、カリフォルニアでの大学生活を送る中で、自分はアメリカでの生活が性に合っていると感じ、卒業後は、そのまま現地に残るつもりでいました。実際に某日系商社のロサンゼルス支店から就職の誘いも受けていました。そんな中、たまたま友人と半分遊びで訪れた2005年のボストンキャリアフォーラムが人生における第2の転機になります。そこで、参加したドイツ銀行グループの会社説明会で、とある部門説明を聞いた時に、体中に電球が走るのと同時に「この仕事じゃなかったら就職しない」とまで強く感じ、その足で履歴書を持って面接に向かいました。何の事前準備もせずに、その場のインスピレーションだけで飛び込んだ面接プロセスでしたが、何とか採用通知を頂きました。そこから1ヶ月後には、アメリカでの6年間の生活に別れを告げて東京に戻り、ドイツ証券不動産投資銀行部で新卒として社会人生活をスタートしました。
ドイツ証券での新卒時代はどのようなものでしたか?
ただ、"凄まじかった"の一言です。不動産も金融もほぼ知識ゼロで飛び込んだので、最初のうちは「なんでお前みたいなクズがうちに来たんだ?」「二度と顔を見せるな、この役立たず!」といったようにほぼ毎日怒鳴られてました(笑)何度も辞めようと思いましたが、ただ猛烈に悔しくて、周囲を見返したい一心で、朝から夜中は2時、3時までほぼ毎日のように必死に働きました。精神的にも肉体的にもとても過酷で、最初の1年ぐらいは一日たりとも辞めたいと思わない日は無かったですね。ただし、そんな中で同時に仕事における喜びも経験しました。注いだ努力に対して明確な評価を受け、ちゃんと仕事が出来れば、次にもっと多くのことを任せてもらえる。それが自信にも繋がり、自分にその気さえあれば、乗り越えられないものは無いことを学びました。
その後、なぜ金融を離れたのですか?
2008年にリーマンショックが起きたのをきっかけに、メガ・ディールと呼ばれる数千億円級の案件を手掛けるエキサイティングな日々から一転、上司達もその多くが会社を去りました。残されたメンバーを中心にそれまでに手掛けた投資案件の債務処理を行う暗い日々が続きましたが、幸いにも本部からお声がかかり、1年ほどロンドン支店で欧州での投資経験を積むことができました。しかし所属していた部門ラインがグローバルで解体されたのをきっかけに、ドイツ証券を離れました。その後は、ブティック系投資会社を2社ほど転々としましたが、結局自分が求めてるような環境は見つかりませんでした。時同じくして息子が誕生したのをきっかけに、大切な家族との時間と子育ての環境を優先するため、金融業界を去るのと同時に、兼ねてより「一度は住んでみたい」と思っていた京都に移住しました。
創業における道のり
起業しようと思ったきっかけは?
子育ての環境を優先して京都へ移ったので、仕事は二の次でした。京都でも自分が求めているような仕事は無く、無いなら自分で作ろうと考えたのがそもそものきっかけです。母がアパレルなどを手掛けた実業家だったこともあり、学生時代からゆくゆくは自分も起業したいとも考えていましたし、やるならまだ子供が小さい今のうちしか無いとも思いました。
不動産テック領域を選んだ理由は?
しかし、いざ起業となると、何をするかで悩みました。そんな中で一つ明確だったのは、自分は周囲と比較して、なかなか経験できないような貴重な経験を20代でさせてもらったので、その知識や能力を活かして、広く世の中のためになるようなことがしたいという思いでした。さんざん悩んだ末に行き着いた答えが「やっぱり自分には不動産しかない」でした(笑)またどうせやるなら、誰しもが一生のうちで関わりを持つ"住まい"に関連して、普通に暮らす人々の役に立つ仕事にしようと決めました。それをどう成し遂げるかという問いに、ちょうど時代の流れもあってか、答えられるものが「テック」でした。
起業までにどのような紆余曲折がありましたか?
まず、起業の準備に1年かかりました。不動産テックと言っても、技術面でのパートナーがいた訳では無いので、自分ひとりでも始められるところからということで不動産業を営むため、宅建士の資格を取ることにしました。また、十分な蓄えがあったわけでは無いので、試験勉強と起業のための準備時間を確保しながら家族を養わなければならず、アルバイトをいくつか掛け持ちながら食いつなぎました。無事に宅建士に合格し、周囲に頼み込んで何とか会社の設立資金も確保でき、2016年3月に最初の起業となる不動産アドバイザリー会社を京都で設立しました。
最初の起業からどのようにOpen Room Inc.の創業につながったのですか?
まず京都では、賃貸や売買における仲介業について学ぶかたわら、それまでの経験を活かして不動産投資運用業を手掛けました。主に京町家などへの現物投資を行い、幸いにも投資家から預かった資金で約1億円分の不動産に投資し、2年の運用期間で出資金を倍にして回収することができました。ただし肝心のテック事業では、なかなか探し求めているエンジニア人材に巡り会えないままでした。そのため、学生アルバイトを雇いながらデータ開発やプロトタイピングなどを重ね、具体的な事業化を見据え、2017年9月に渋谷でOpen Room Inc.を創業しました。
ここまでに様々な紆余曲折を経て、Open Room Inc.の創業まで漕ぎ着けた田沼が、その後どうやって現在のメンバーやサービスまで辿り着いたのか?また今後のビジョンとは?
最終回となる次回、創業ストーリー後編でもっと赤裸々に語ります。次週も乞うご期待ください!