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前のめりでLHの礎を築く リビングハウスヒストリー

こんにちは!リビングハウスの中山晴貴です。今回からwantedlyのフィード記事を担当いたします。みなさん、よろしくお願いいたします!まずは初回!1942年から親子3代で受け継がれている創業ヒストリーから始めさせて頂きます。創業社名「共栄家具」からリビングハウスに屋号を変え、組織改革と事業継承、そして、北村会長がどんな夢とロマンをもってリビングハウスの礎を築いてこられたのかご紹介します。早速見ていきましょう!

大学卒業後すぐに父の会社へ


現在の会長である北村常明は、大学卒業後、家具職人の父が興した共栄洋用家具(現:リビングハウス)に1970年に入社します。この業界を選んだ理由は、大学時代にダブルスクールで通ったインテリアデザインの専門学校で、インテリアが素晴らしい職業であることを学んだからです。当時の学校の講師が、「インテリア業界は、欧米では医者、弁護士と並ぶくらい知的レベルの高い仕事だ」と語っており、その言葉に薫陶を受けました。北村会長は入社すると、ソファや椅子を製造する工場の軒先で小売を始めました。当時、立花通り(現在のオレンジストリート)には51店舗もの家具屋があったのですが、会長が始めた店舗は最も弱小で常に潰れるかどうかの瀬戸際でした。しかし、家具業界自体は潤っていて、他の店舗はものすごく儲かっていました。

なぜ当社だけ苦戦していたのか

それは婚礼家具を仕入れるルートを知らなかったからです。婚礼家具とは、主に洋服ダンス、和ダンス、整理タンス、鏡台下駄箱の5点セットを指し、1960年〜80年代に結婚したほとんどの新郎新婦は結納金でこれらを購入していました。これらは、今の貨幣価値にしてセットで400万〜500万ほどで、年間で100万セット以上も売れていました。しかし、会長の父親の会社がソファや椅子といった洋家具の扱いが中心で、この家具業界の潮流に乗り遅れていたのです。

新たな販路を求めて

周囲のつてでは婚礼家具を仕入れることができなかったので、売り上げを伸ばすために、必死に別エリアの人気家具屋に何度も足を運びました。こんな家具を入れたら売れるかな・・・?と考え、新しい家具を仕入れチャレンジをしましたがそれでも業績は振るわず、新たなビジネスチャンスを求めて、飛び込み営業をかけていきました。そのなかで、マンション開発業者の元を訪ねたとき、営業の人が「マンションのモデルルームを作るのに家具が必要や、見に行くわ!」と言い、店舗で家具一式を購入してくださりました。しかし、会長はインテリアの勉強をしていたので、購入された家具の組み合わせでは見栄えのいいモデルルームにならないのが分かりました。そんな複雑な気持ちで販売したのですが、幸い再度依頼を頂くことができたので、そのときにおそるおそる「失礼ですがいっぺん、私にコーディネートさせてもらえません?」と提案すると、「してくれるの?助かるわあ!」と言ってくれたそうです。これを機に、モデルルーム作りにもトータルで関わるようになりました。

リフォーム業界の市場形成を学ぶ

モデルルームのコーディネートを通じて住宅作りの最先端を感じているなかで、会長は「家具インテリアは暮らしの空間、すなわち建築と一体のもの」と感じるようになりました。しかし、同じ土俵なのにもかかわらず、建築と家具がバラバラの状況がおかしいと考え、少しずつ建築寄りの仕事も請けるようになりました。それがきっかけで、日本増改築産業協会(現:日本住宅リフォーム産業協会)の近畿支部長と巡り合い、それから、自社でも本格的にリフォーム業に進出することになりました。こうしたリフォーム業界の市場形成の流れを間近で体感できたことは会長にとって非常に大きな経験でした。特に、新たな需要創造は、今のインテリア家具業界に求められていることでもあり、このときの経験は、現在、数多く手掛ける新規プロジェクトにも継承し反映されています。ちなみに、リフォームの仕事を請け始めてから、「家具屋がなんで工事をするの?」という質問が増えたので、2000年に店舗名を共栄家具から「リビングハウス」へと改称しました。

組織改革

50年の会社の歴史の中で最初の30年間はいつ会社が潰れてもおかしくないような状況で、ようやく事業として形になってきたのはここ20年です。実は会長が50歳の時、たまたま胃がんが見つかりました。後に、担当医からはあと1週間遅れていたら手の施しようがなかったと言われたくらい、病状が進行していました。九死に一度を得る体験をしたからこそ、「僕がいなくなったら会社は潰れるだろうなぁ。もし復帰できたとしたら人を育てよう。」と決意することができました。それまでは正直、「私が頑張っても今の社員では会社はよくならない」と思っていたが、病院長から「北村君がいつまでもエースだと次が育たないよ」と言われ、心が動いたのです。それから社員教育に注力するとともに会長自身も経営者としてのスキルを高めるためにセミナーや経営塾に参加するようになりました。

果たすべき我々の使命

経営や業界の勉強する中で痛感したのは日本の暮らしをもっと発展させなければならないと言うことでした。そんな時、経営の師匠に言われた忘れられない言葉があります。それは「社会で教えられた事はお金を借りたようなもの。そのお金は必ず社会に返しなさい」ということ。家具インテリア業界の発展に役立つために様々な見えない力が働いて、地元商店街で51店舗中最下位だった店舗を、盛り立てることができたのではないだろうか。この境地に考えが及んだ時に初めて、日本の暮らしを向上させることが会長の使命だということに気がついたのです。こうした思いから、海外家具を共同で輸入する輸入家具共同買い付け機構を立ち上げたり、家具事業革新連盟と言う団体を起こして若手経営者の勉強会を開いたりするなど業界の発展につながる取り組みをスタートさせました。

後継者への思い

現在、次男である北村甲介が会社を継ぎ、多角的にビジネスを展開しています。会長の頃は、イエスマンの会社で、トップセールスマンだった北村会長が判断し、下ろした戦略にスタッフが全力で従う体系でした。しかし、これでは会社を背負うほどのリーダーが育ちませんでした。一方、現在の社長の経営スタイルは”良きに計らえ”です。一見不安に感じますが、社員の主体性やリーダーシップを引き出すことに繋がっており、結果的に、会社全体の組織力を高め、全国24店舗にまで拡大することができました。こうして、経営が厳しい時期がありながらも会長が50年間やってこられたのは、家具インテリア業界を発展させるという天から授かった使命があったからです。しかし、その使命はまだ果たせていません。ファッションやグルメの爆発的な成長に比べ、家具インテリア業界は、婚礼家具ブームが足かせとなり、依然として欧米諸国と比べるとものすごい遅れを取っています。逆に言えば、まだまだ発展の余地が残されている業界でもあり、発展次第では、ファッションやグルメのように世界と渡り合えるだけの文化が築けるはずです。本当の意味で社会を報いる、そして指名を果たすことが出来るのは、次の世代に掛かっています。

まとめ

リビングハウスのヒストリーはいかがだったでしょうか?

堀江でいつ倒産してもおかしくないような状態だった家具屋が、もがきながら成長していくストーリーを駆け足で見てきました。私はその中で、常に挑戦をし続け、新たな需要創造をするという価値観を非常に強く感じました。そして、人との巡り合わせも非常に大切にしなければいけないと再認識しました。特に、就活の中でも、運命の企業に会うためには縁や運は非常に大事になってきますよね。また、会長は「次世代に贈る言葉」をくださっています。

「人生は一度きり。自分の限界を決めないで、挑戦し、苦しい、辛い経験をしよう。そうすると、必ず成長という”オマケ”がついてくるから。」北村常明

私にとって非常に共感する言葉でした。なんにでも言えることですが、130%くらいで頑張ることが成長に繋がると思います。今回から記事配信がスタートしましたが、私も130%で頑張って行くので次回も読んで頂けると嬉しいです!次回は社長へのインタビューです!お楽しみに!

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