こんにちは!
あずかるこちゃんの園田です。
突然ですが、皆さんは"一生をかけてやりたいこと"はありますか?
私にはあります。
私は一生をかけて"安心して産み育てられる社会"を作りたいと思っています。
その中で私が今取り組んでいる"病児保育"について、なぜ"病児保育"に取り組むことになったのか、をお話しさせていただければと思います。
- 医師になる -
私は1982年新潟県の糸魚川市で生まれる。
中学生までを糸魚川市で過ごしていましたが、妹のスキー事故、中1の時に同級生を亡くした経験から医学に興味を持つ。
高校は上越市高田で下宿をしながら、高校へ通う。
高2の時に、祖父を胃癌で亡くす。
術前の説明では初期で完治すると聞いていたが、直前に執刀医が変更、術後すぐに再手術を提案され、再手術前に亡くなった。
「自分の家族・友人・関わる人には適切な医療にアクセスしてもらいたい」という想いが強くなり、医師になる道を選ぶ。
佐賀大学で医学を学び、自治医科大学で初期研修医を行い、留学を経て東京大学の産婦人科教室に入局。晴れて産婦人科医としての人生を歩み始めた。
- 産婦人科医としての日々 -
私は子どもが大好きで産婦人科医になった。
小児科医と迷ったが、子どもと同じく女性を守りたい、そんな気持ちから。
産婦人科医になってから、母親と子どもに寄り添う日々。それはとてもやりがいがあり、楽しいものだった。
そんな仕事の中で、私がやりがいを感じること。
それは、より良いものを目指してやり方を工夫し、仕組み化すること。
母親、子ども、時には同僚のためにより良いものを目指して改革を行った。
様々な経験をして、医者9年目になり、自分の中に変化が生まれる。
自分が人生をかけてやるべきことは何なのか。
そう考えることが多くなった。
そんな中、転機が訪れる。
大学教授大須賀先生の勧めで大学院に通うことになった。
- 大学院で見つけたもの -
大学院では公衆衛生や統計学を学んだ。
より多くの人の幸福を考えるという公衆衛生に触れ、自分の目線が病院内ではなく、社会に向いた。
社会では一体今、何が起きているのか?
それを学ぶうちに、これまで日常診療で経験していた「産後うつ」や日夜報道される「虐待」といった問題だった。
お産はとても感動的だ。母親、父親が人生でもっとも幸福な瞬間を迎え、涙を流して喜ぶ姿を私は目にしてきた。
しかし、8人に一人は産後うつになり、一部は虐待や自殺に追い込まれてしまう方がいる。
何故なのか。止めることはできないのか。
私はお産を終えた母親たちに聞いてみた。
「子育てで1番困ることって何ですか?」
母親たちはそれぞれ答えをくれた。その中で多かったこと。それは”仕事と子育ての両立の難しさ”だった。
私がヒアリングをした当時はまだ、待機児童も多くいて、
「そもそも保育園に入れることができない。入れることができたとしても、子どもが急に風邪を引いたりするので、有給はどんどん消費されていく。」
そんな声が聞かれた。
- 病児保育に出会って -
最初に”病児保育”という言葉を教えてくれたのは、大学院の同期だった。
彼は二児のパパで育児と研究と仕事と大忙しの人間だった。
彼は「病児保育が使いづらくて、困る」と言った。
わたしは「?」だった。
“病児保育”という言葉を知らなかったからだ。
そこから私は病児保育について調べ始めた。まず、病児保育協議会会長の大川先生に話を聞くべく
大田区にある病児保育室「うさぎのママ」の大川洋二先生に話を聞きに行った。
そこで病児保育について、現状を教えていただいた。
私が思ったことは「素晴らしい事業だ!!」ということと
「使われないのはもったいない」という感情だった。
病児保育室は、子どもが風邪などの入院するほどではないが、保育園では預かってもらえない場合に一時的に保育と看護を受けることができる施設である。
病児保育室のおよそ7割がクリニックや病院に併設をしていて、残りは保育園に併設されている。
いずれも、保育士・看護師が子どもにケアと保育を行う。また、急に症状が悪化したりすると医療機関併設であれば、医師が対応してくれるという安心で安全な施設だ。
それにも関わらず、利用率は30%に留まる。
それを知り、私は病児保育室は子どもの急病時の保護者の選択肢の一つになるべきだと強く思った。
そして、この事業は「安心して子育てをすることができる社会」に必要だと感じた。
これをきっかけに私はConnected Industries 株式会社を設立し、一生をかけて"病児保育"の課題に向き合い、そして安心して産み育てられる社会を作ることを決意した。
これが私が"病児保育"に取り組む取り組むことになったきっかけです。
今後も、安心して産み育てられる社会を作るために
邁進していきたいと思います。
よろしくお願いします!