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父親が人身売買の被害に!?ミャンマー人トップが語る苦難の連続の半生と、教育への情熱(Khin Htet Lwinのケース)

(カバー写真:日本語教育に関するセミナーに登壇した際の一枚。)

代表の田村が自ら同僚にズケズケとインタビューする「ズケビュー」。3回目は、現代の話とは信じられない様な厳しい幼少時代を過ごしながらも、より恵まれない他者への思いやりを忘れず、不屈の精神で大きな成功を掴んだDream Job Myanmar 代表のKhin Htet Lwin(通称パウサ)さんにインタビューします!

(田村)
早速ですが、まずはパウサ(社内のニックネーム)の昔話から始めさせて下さい。パウサはミャンマーの経済の中心であるヤンゴンの中心で生まれ育ったんですよね。今のパウサからは想像できないけれど、10代の頃は相当な「不良少年」だったと聞きました。道で肩がぶつかると「コラァー! なめとんか!」的な。笑 当時のミャンマーは軍事独裁政権で、世界から孤立して経済的にも本当に苦しい時代だったと思います。その辺りも含めて教えて下さい。

(パウサ)
とても自立心が強い子供だったと思います。小学生の頃、父が知人の事件に巻き込まれて刑務所に数年間収監されてしまいました。代わりに母が自宅の建物の軒先で小さな雑貨屋を営み生計を立てていたのですが、とても忙しく、幼少期から洗濯物など自分のことは自分でしていました。もちろんお小遣いをもらうような余裕はなく、何かを食べたいとか買って欲しいとか、せがんだりすることもしない子供でした。父がいないことで周りからイジメられないように、強いフリをするというか、少し悪い風に振る舞っていた時期がありましたね。だから、日本のヤンキーと呼ばれる人たちの気持ちも、少しは分かるんです。笑 

記憶に残っているのは、母方の祖母の家からよく食べ物を分けてもらっていたことです。祖母はとても可愛がってくれ、よく夕食のおかずを取りにおいでと招いてくれました。けれども、同居している叔父家族にはたくさんの子供がおり、おかずを受け取りにいくと露骨に嫌な態度を取られたり、嫌味な言動を受けることがあったんです。自宅に帰るなり母親に「食べ物はいらない、もうあの家には行きたくない!」と強く訴えたことを覚えています。絶対にこの家族に頼りたくない。叔父家族の子供達よりも成功し、見返してやる。人に頼るのではなく、与える人になりたい、と当時から思っていました。

(田村)
1990年代のミャンマーは国全体がまだまだ貧しく、ヤンゴンという都会で生まれ育ったパウサであっても、本当に苦労したんですね。でも、私がさらに驚いたのは、ミャンマーでは「人身売買」の危険性が身近にあり、パウサのお父さんもその被害にあっていた、という事実でした。この辺りの経緯を教えてもらえますか。

(パウサ)
私が中学生の頃、父が友人に誘われてタイに出稼ぎに行ったきり、2〜3年ほど音信不通になったんです。その後、タイから父の写真が同封された手紙が届き、父が生きていること、人身売買の被害にあって植物油を生産するどこかの森に暮らしていること、売られた際のお金を返済した後に、もう少し稼いでからミャンマーに帰ろうと思っていること、などが書かれていました。父は電話もできない環境にいたようです。高校生の頃だと思いますが、ようやく父が帰ってきて母のお店を手伝うなど、生活が少し楽になったことを覚えています。

(田村)
この話を聞いた当初は信じられない思いでしたが、別の同僚のミャンマー人の母親が誘拐されて中国に売られてしまった話なども聞いて、ようやく「人身売買」という犯罪がかくも身近な社会なのだと理解できました。この話だけで絶句するような経験ですが、パウサの人生の試練はまだまだ続きましたよね。ミャンマーは日本に劣らず学歴社会で、大学入試は人生を左右する大きなイベントだと思います。大学受験の失敗から日本留学に到るまでの期間について教えてもらえますか。

(パウサ)
大学受験の年に、胃の病気になり、満足に受験勉強をすることができませんでした。その年は受験せずに来年挑戦する、という選択肢もあったのですが、経済的な事情もあり諦めました。ミャンマーでは公教育が整っていないので塾に通って受験勉強するのが一般的でしたが、私の場合は塾費用が高く、従姉妹のお姉さんに家庭教師のように教わって勉強しました。つまり、浪人するにはまた1年間、お姉さんの負担になることを意味するために、諦めたのです。

ちなみに、病気の場合も病院にかかることは経済的に難しかったのですが、ここでも親族間の助け合いで乗り切ってきました。父方の叔父が医者でしたので、病院にいく代わりに自宅で見てもらえたのです。父方の叔母はアメリカに移住しており、この後の留学時の学費負担など色々と援助してくれました。日本留学のきっかけは、姉ですね。日本に留学していた姉の友人がきっかけで、姉も日本に留学することになりました。私はまだ高校生でしたが、その後24歳の時に姉を追って、日本の名古屋にある日本語学校に留学することにしたのです。

(左上:日本語学校での授業風景。右最後列。左下:支援先のミャンマーの子供達と一緒に。右:日本の街角で支援を呼びかける様子。右端の青いキャップ。)

(田村)
日本留学時の生活も、私からみると本当に大変だなぁ、、、と思う期間を過ごしていますが、どんな生活をしていたのか、教えてもらえますか?

(パウサ)
まず、ミャンマーで日本語能力検定3級まで取得して日本に行ったのですが、苦労続きでした。経済的な要因も大きかったですね。初期費用は姉とアメリカの叔母が出してくれましたが、その後の学費と生活費は自分で稼がなければいけません。毎日の生活は、朝5時起床、早朝バイト(6時〜9時)、午前バイト(9時半〜12時半)、家で昼食、日本語学校で勉強(13時半〜17時)、夜バイト(18時〜22時)、と多少違えど毎日このような生活でした。中華料理屋やコンビニでのバイトがメインでしたね。とにかく時間がないので、勉強は授業中に集中し、休み時間に宿題を終わらせたり、移動中の電車の中で必死に勉強しました。

(田村)
はぁぁ、、、とんでもない忙しさの中で、必死に勉強を続けて日本語検定1級まで取得したパウサを尊敬します。その後、当時はまだ上場していなかったけれど、人材会社ウィルグループと出会い就職しますよね。パウサの人生は困難続きだけど、人のご縁には恵まれているというか、ちょっとした奇跡の採用だったと思います。入社までの経緯を教えてもらえますか?

(パウサ)
当時、現場リーダー(スリースター)としてバイトしていたコンビニのオーナーから「正社員として働かないか」というお誘いをもらったりしましたが、今のようにミャンマーに進出している日系企業もほとんどなく、ミャンマー人が日本で良い仕事を見つけることは非常に難しい時代でした。

そんな中、Facebookを通じて、当時のウィルグループの役員の方から「会いたい」とメッセージをもらったのです。日本に来てしばらく経った頃、留学中のミャンマー人たちに声をかけて、ミャンマーの恵まれない地域や子供達に古着や寄付を集めて送ったりする活動をしていました。その繋がりから私のことを知ったようです。1回目の面接は、役員の方が出張ついでに、私が住む名古屋まで来てくれました。その後、代表の方との面接のために旅費も出して頂き、東京で面接を受けオファーを頂けました。

(田村)
パウサの日頃の行いの良さが繋いでくれたご縁ですね。けれども、また困難が立ちはだかりますよね。ミャンマー事業を立ち上げるので、そのための採用だったのですが、入社後数ヶ月で事業構想は頓挫しました。私が事業責任者だったので、パウサがミャンマーに行けなくなった犯人は私ですね。笑 この辺りの話や、入社後どのような仕事を経験していたのか、教えてもらえますか?

(パウサ)
母親の病気もあり、日系企業に勤めながらミャンマーで家族と暮らすことが目的でしたが、帰れなくなりました。一時は退職も考えましたが、「東京で成功する」と周りに決意を伝えて上京したので「成功するまで帰れない」という思いでした。その後ウィルグループではバックオフィス業務を主に担当しました。給与計算から始まり、人事データ管理、人事システムへのデータ入力、組織図や社報の作成、総務情報の共有、支払請求業務などなど、あまり外国人が携わることがない業務に触れたことは、本当に良い経験になりました。その後ミャンマーに戻ってからの経営管理では、その時の経験を生かすことができました。でも、知らないビジネス用語、社内用語が一杯で、当初は毎日頭が爆発しそうでしたね。笑

(左:ミャンマーの伝統で出家した際の一枚。右:母親と仏教聖地シュエダゴン・パゴダにて。)

(田村)
ミャンマー人であることが全く強みにならない業務を、新卒で日本人と同じ様にする訳だから、本当に苦労したと思います。でもその苦労した分だけ、後に存分に生かすことができた、ということですね。ところでパウサはお母さんの病気だったり、弟の教育の面倒をみたりと、家族の大黒柱としても苦労していますよね。私も何度かお母さんにお会いしたことがありますが、その辺り、少し教えてもらえますか?

(パウサ)
留学中に母が脳梗塞で倒れたんです。その後少しずつ悪化し、今は寝たきりの生活が何年も続いています。それもあってミャンマーで働ける日系企業での仕事を探していました。それが難しくなった時には、ミャンマーに帰り母の側で暮らしたいという思いと、日本で稼がないと治療費が出せないという葛藤がありました。また、当時は父と弟が母の面倒をみて、自宅で介護してくれていたのですが、弟のキャリアも考えてあげないといけない、という思いもありました。その後、弟も日本留学に送り出してあげることができ、今は日本の会社に就職することもできたので、肩の荷がおりました。

(田村)
東京で3年働いた後、ミャンマーの人材会社Dream Job Myanmar Ltd.の代表に就任します。日本での就労経験があったといっても、いきなりの経営業務や数十人のマネジメントでは苦労したと思います。ミャンマー帰国後に、Dream Job Academyという日本語学校も立ち上げています。その辺りも、教えてもらえますか?

(パウサ)
大変でしたが、楽しかったですね。新しいことを学ぶことは好きですし、日本語学校などの人材育成や、ミャンマーの若者に日本で働くチャンスを与える事業は、日本にいる時から考えていた事業プランでした。教えてくれる人がいない環境でしたが、自分で調べて学ぶ、もしくはすでに経験している人と話すことで解決策を探る、という方法で乗り越えてきました。平日は日付が変わるくらいまで働き、土日も生徒のために補講をするような忙しい毎日でしたが、楽しかったです。

人のマネジメントには、当初は苦労しました。年上でシンガポールでの専門経験が10年以上もあるメンバーなどもいましたから。でも人って、自分を大切にしてくれる人だとわかれば、その人と上手くやりたいと思ってくれますよね。働く仲間に「自分と同じくらい大切に思っているよ」という気持ちで接することで上手くいくようになりました。また、田村さんともぶつかることもありましたが、誰かとぶつかったり嫌な思いをした後でも、「その一点でその人を判断したらいけないな」という思いで働いていましたね。

(写真:日本語学校ドリームジョブアカデミーの生徒たちと一緒に。中央やや右、黒い服がパウサさん。)

(田村)
パウサのライフワークとも言える、地方の農村への支援、教育活動についても、教えてもらえますか。私も微力ながら参加させてもらっていますが、本当に素敵な活動を長期にわたり続け、その輪が益々広がっています。ある時など、知人の経営者を紹介したら、その場で学校建設が決まってびっくりしたこともありましたね。笑

(パウサ)
最初にボランティア活動に参加したのは、2008年、23歳の時でした。ナルギスという巨大な台風がミャンマーを襲い、10万人の死者を出す大災害になりました。私自身も、自宅の屋根が吹き飛ばされて近所の家に避難しましたが、親族や友人たちの助けで乗り越えることができました。被災から数日後、知り合いのトラックが支援物資を積んで被災地に行く、というので同行することにしたのが、ボランティア活動のきっかけですね。

ヤンゴンの外に出て初めて、自分よりも辛い境遇の人たちがこんなにたくさんいる、ということを知りました。困っている時に誰かが助けてくれると嬉しい、そういうことを幼少期の辛い経験から感じていたので、自分よりも恵まれない環境にいる人の助けになりたい。みんなで助け合えばより良く生きていける、と思いました。

日本留学後もその思いは強くなり、早朝アルバイトの1ヶ月分の給与(数万円)を寄付することにしました。ようやく役にたてたという充足感はありましたが、一人でずっと寄付を続けることはできないので、みんなの力も借りて活動していこう、と思うようになりました。徐々に日本にいる同じ思いを持つミャンマー人の仲間探しを広げたり、ミャンマーで資金の受け皿となってくれる信頼できる団体を探していきました。そこで出会ったのが、今も活動を続けているForevre Volunteer Group(以下、FVG)とその代表のAungさんでした。

少しずつ信頼関係を築いていきました。最初は毎月の子供達への教育支援、その後は洪水などの災害援助や日本の古着を送ったりしました。そして2016年には、ミャンマーに学校を建設したいと思うようになりました。政府の教育支援が及ばず、ボロボロの校舎で勉強している子供達がたくさんいました。教育が受けられなければ貧困と犯罪が増加しますから、村で教育が受けられるようになってほしいと思ったのです。(※ミャンマーでは、校舎を民間の資金で作り寄付することで文科省に登録され、教師が税金で派遣される制度がある。)

1校目は、私が半分出して、残りを仲間が出してくれました。その後、色々なご縁で日本のロータリークラブの方々から支援を受けて4校、日本の経営者の方が名乗り出て頂き2校、ミャンマー人の支援の輪も広がり、これまでに11校を建設することができました。この活動によって数百人の子供たちが毎日勉強する環境が整い、それが毎年続くのだから、将来的には数千人や数万人となり、その中から数百人くらい人生で成功する人が出てきてくれたら、意味のある人生だな、と思ったりしています。

(写真:建設中の校舎を背景に村の子供たちと。パウサさんは前列左側、青色のキャップ。)

(田村)
はぁ、パウサの思いと活動には頭が下がります。本当はまだまだ聞きたいことがたくさんあるのですが、相当なボリュームになってきましたので、そろそろ終わりにしたいと思います。最近は日本とミャンマー両方で働きながら、Facebook上で日本語教育や日本で暮らすミャンマー人へ向けのインフルエンサーとして活躍していますよね。先月投稿した海ほたるの動画は、83万ライク、13万シェア、6千コメント、と森崎ウィンさんもびっくり(のはず!)のバズり様でした。笑 どんな思いで活動しているのか、教えてください。また最後に、この記事を見てくれている人にメッセージをお願いします。

(パウサ)
最近始めた動画は、コロナで大変な時期ですし、経済的にも旅行にいけないミャンマーの人たちに、ちょっとでも楽しんで欲しい、幸せになって欲しい、一緒に旅行しているみたいに感じて欲しいという思いで始めたものでした。

日本語教育や日本での生活情報を発信するようになって、もう何年にもなりますが、きっかけは自分の体験ですね。日本に来て、日本で働いて、知らないことや分からないことが多くてとても苦労しました。留学、日本語学習、アルバイト、就職活動、日本での仕事、日々の生活など、情報がなくて本当に困ったので、これから日本に来るミャンマー人には困って欲しくないのです。また、不十分な情報や甘い覚悟で日本に来ると、そのギャップで本人も、またその家族も困ることになります。またそのことでミャンマー人が日本の人たちから嫌われたりすることも残念です。そうならないように、できるだけ厳しい情報も含めて情報発信をしていきたいと思っています。

将来については、欲張らないようにしています。楽しく健康で、食べるものがあり、もしもの時の医療費があれば十分です。家族や周りの好きな人たちに、必要なモノ、例えば教育だったり、知識やスキル、お金などを配れる人生でありたいな、と思っています。

メッセージですね。自分の夢だったり自分でやりたいことは、辛くても我慢して頑張り続ければチャンスがくる、人生とはそういうモノだと思っています。

(田村)
数々の困難を乗り越えてきたパウサの言葉だからこその、重みがありますね。今日は、本当にありがとうございました。

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