ご飯がおいしい焼肉屋に行きたい。
今網の上で焼いたカルビをたれの海に泳がせたい。肉をたれにつけた瞬間、焦げた部分からジュっと音がする。帯びた熱さが無くなる前にたれから引き揚げ、滴るくらいたれが付いた肉を、まだ湯気が出ているご飯の上にドリブルさせたい。トラベリングだ。
本当にご飯の上でよかったのか?私の心が問いかける。薄ら笑いの顔からサンチェのほうがよかったのではないか?滴る脂はさっぱりしたサンチェに癒してもらったほうがいいと思う。熱い肉を冷たいサンチェに包み込むとカルビを食べているとは思えぬほど爽やかな食事会となるのではと疑問を投げかける。
うるせえ。もうご飯の上で肉は踊ってるんだ。私はその心を息で吹き飛ばした。先に食べてたニンニクホイル焼きの影響で臭かったかもしれない。そんな口臭で吹き飛ばした。残った私は一枚のカルビにかぶりつき、熱々のご飯をかきこむ。たれのついたご飯は私に幸せを与えてくる。白と茶色のグラデーション、脂という光沢がついたご飯は艶やかである。ご飯イズビューティフル。幸せは茶碗と共にある。ご飯は一粒のご飯粒だけでは成立しない。沢山のご飯粒が集まることによりご飯という事象になり、おいしく食べることができる。
一粒のご飯粒が生まれ、育ち、集まり、精米され、炊かれて私と出会うまでたくさんの人たちが愛を持って大事にしてくれる。人は一人ではご飯には出会えない。肉もそうだ。いや、視界に並ぶ食器や網、メガジョッキもそうだ。様々な人たちの努力で食卓が彩られるのだ。その一粒一粒のありがたさの上で肉をドリブルさせるのは感謝の心と、口の中に広がるのは幸福感なのだ。
幸福の向こう側は次の肉をバウンドさせた先にあるのかも。では次は何を頼もうかな。私はメニューに目を通す。
網の下で揺らめく炎が囁く。次はハラミがいいと思う。ふと心を覗いた。この物体は次はホルモンも捨てがたいと言っているようにみえる。私はもう一度吹き飛ばした。
見渡すと換気扇と目が合った。一生懸命に、だが一向に吸い込まれず滞留する煙に難儀する姿にタンの存在が掻き立てられる。
焼肉屋から排出される煙の何mgにあの食欲をそそる焼いた肉の匂いが付着しているのか。
店外に出された匂いは空気中に分散されて消えるまでに何人が吸引し、そのうちの何人の空腹が刺激されることにより焼肉に走ってしまうのか。そのような環境への影響について悩んでいるとキムチが欲しくなる。
上記の焼肉屋で巻き起こる事象と自分の空腹という現象から私は考える。幸福とは何なのか、そして自分はどこに向かうのかに思いを巡らせてると、なぜか茶碗が空になっていた。
かがやきの茶碗の底を、はぎしり燃えておかわりをする。おれはひとりの修羅なのだ。
焼肉に行きませんか?