「この子たちを私から離さなきゃ、いつか殺してしまう」「いくら愛情があると言えども限界がある」――記者会見で訴えた無園児家庭の切実な声
フローレンスが日本総研に委託して行った「無園児家庭の孤独感と定期保育ニーズに関する全国調査」では、「保育園等を利用していない未就園児(無園児)家庭のほうが子育てで孤独を感じている」ことが明らかになりました。
現在の保育制度では、親の就労や疾病などの理由により「保育の必要性」が認められないと入園できません。
調査結果発表の記者会見では、保育の必要性認定の壁に阻まれ保育園を利用できなかった2人の保護者が、当事者としての経験を涙ながらに語り、支援の必要性を訴えました。その全文を紹介します。
「この子たちを私から離さなきゃ、いつか殺してしまう」と、子どもを叩いた手や自分の肩がガタガタ震えた――高濱沙紀さん
最初に、私には5歳の長女と4歳の双子の男児がいます。とてもありがたいことに今は3人とも保育園に通うことができ、私自身も働くことができています。
でも、ここに至るまでにいくつもの困難を乗り越えてきたことを今日お伝えできればと思っています。
大きく分けて3つ話をさせてください。
1つは、保育園に預けたくても預けられなかった1回目の保活
2つは、保育園に預けられるまでの我が家の葛藤と苦悩
最後に、保育園に預けられたことでの我が家の変化
です。
まずは、保育園に預けたくても預けられなかった背景から。
長女を出産した2016年当時、住んでいた区は保育園激戦区でした。当時は私も夫も就労要件にて保育園に申し込みましたが全て落選。当時勤めていた会社から育休は取らないで欲しいと遠回しに言われ退職を余儀なくされました。また、児童館で顔を合わせていた育休中のご家庭もことごとく落選し、育休の延長や地元に引っ越すご家庭もありました。
我が家の葛藤と苦悩はここからが始まりでした。続いて、保育園に預けられるまでのことをお話いたします。
退職後専業主婦となり、保育園入園が絶望的だとわかった頃、私は産後うつになっていました。核家族のため、両家のサポートもなく、里帰り出産も許されずに都心での子育てに奮闘し、気づいたら娘と2人でひたすら泣くような毎日でした。
当時、最寄りの児童館に学生の頃からの友人が務めていたため思い切ってその児童館にSOSを出し、自分が産後うつ状態であることを認識しました。そこから友人や区の担当の保健師さんのおかげで回復していったのを覚えています。
あわせて復職のため就活をはじめていました。しかし、周りからの「3歳まで家でみてあげないとかわいそう」「きょうだいは?いた方がいいよね?」の圧を感じていました。そのため、復職を先送りにしたところ、ありがたいことに第二子を授かることができました。
ところが、驚いたことに、第二子はなんと双子でした。これは絶対に夫婦だけではやっていけないと確信し、急いで保育園入園に向け保活を再スタートさせました。でも専業主婦の私では論外、かつ妊娠中だったため仕事もできず、多胎妊娠はハイリスクかつ経産婦であったため医師からは自宅でも安静に過ごすよう指導を受けました。
自宅でできるものはないかとweb関連の勉強をし、双子の産後はフリーランスとして働こう、そして保育園に通わせようと一念発起しました。また、保育園に入れるため多胎児加点のある区を探し、住居の引っ越しも決意。
準備をしつつ、長女と妊娠生活をなるべく安静に過ごしたものの、多胎妊娠はハイリスクのためすぐに切迫早産で管理入院になってしまいました。その前から管理入院や早産などの「もしも」に備えて長女の保育園を探していましたが、どこも入れず、結局は「緊急保育」という枠で、区立保育園に期間限定で預けることができました。
長期管理入院から緊急帝王切開で双子が生まれましたが、早産となり2人はNICUに。一足先に退院した私は筋力は衰え、とても育児をできる身体ではなくなっていました。
そして期間限定で預けられた長女も、「お母さん退院しましたよね?」と数日後には保育が終了してしまいました。
転出先の区でも、3人預けることは不可能に近いため、それぞれ別の保育園に通わせることを覚悟された方が良いと区の担当者に言われましたが、「誰かの手を借りないと」との思いから、ご迷惑だと思いながらもギャン泣きする3人を連れて保育課に足繁く通い情報収集をしました。
そこで知ったのが歩いて25分くらいのところで一時保育をお願いできるという情報でした。でも、争奪戦で3人を預けるなんて夢のまた夢、、、日々の睡眠時間が細切れで1〜3時間しか取れなかった私はどんどんおかしくなっていきました。
シッターさんも3人一緒に預けるには高額すぎたし、ファミサポさんには「双子の経験がないので、、、」と断られました。そんなことを経験するうちに、私の頑張りや親としての愛情が足りないだけだ、そもそも自分で産むと決めた、この子たちが本当に大好きで大切なのに私が甘ったれなだけなんだと自分を責めるようになりました。
そんなことを考え過ごしているうちに、興奮して眠れない日々が続いたり、高額の買い物を突発的にしてしまったり、はたまた「死にたい」という気持ちが自分を支配している感覚に襲われることが交互に起きるようになっていました。
この頃はフリーランスとして仕事も再開しながら、自宅保育の毎日を送っていました。夫の支えの中、年子と双子の3人に平等に愛情を与えたい、それぞれを個々の人間として尊重したいと頑張っている最中でした。
この頃には、私も限界を超えていて、3人同時に泣く子どもたちと一緒に泣き続けた日、汗だくで泣き続ける子どもたちのおしりを叩いてしまったことがありました。殺意に似た感情が湧き上がりふと「愛知県の三つ子虐待死事件」が頭をよぎりました。この子たちを私から離さなきゃ、いつか殺してしまうと、叩いた手や自分の肩のあたりがガタガタガタガタと震えたのを覚えています。
毎日細切れに取れる1〜3時間の睡眠の中で、我が子たちを可愛いと思える余裕のない、そして終わりのない子育てが、出口のないトンネルのように感じて、朝が来るのが本当に怖くてたまりませんでした。
育休をとってくれていた夫が復職したころ、区の保健師さんに「もうこのままでは家族が崩壊してしまう」と泣きながら電話をしました。
保健師さんの進める病院にて診察や検査を受けたところ自分が「双極性障害」を発症していることがわかりました。
時期同じくして、11月の入園申込をし、保育認定を受け、次年度4月から子どもたちが保育園に預けられることが決まりました。
1人だけでも保育園に通えたら、、、と願っていたため、3人の入園通知を見て、膝から崩れ落ちました。何度も何度も入園通知を見直して、間違いじゃないかを確認しました。
子どもたちを死なせずにここまで生かすことで精一杯だった私が、「もう、誰かに頼っていいよ」と自治体から認められたような気持ちでした。トータル2年3ヶ月の自宅保育でした。
最後に、保育園に預けられたことでの我が家の変化をお伝えします。
保育園に預けた当初はGWまで、3人全員が登園できた日は片手で数えられるほどでしたが、今では少しずつ体も強くなり、先生方のおかげで保育園が大好きです。
今でも思い出すと胸がぎゅーっと締め付けられるようなあの日々は、何かのボタンが一つ掛け違っていれば、何かのタイミングが1分1秒ズレていれば、私も虐待死事件の母親となっていたかもしれません。そんな脆い危険な状態と紙一重でした。
子どもを育てる覚悟を持って腹を括って24歳で母親になりましたが、自分の母親が何度も言っていたように「子育てはこんなはずじゃなかったの連続」でした。もちろん後悔はしていませんが、覚悟を持って選んだ道が、想像を絶する道でした。私が妊娠中に思い描いていた・築きたかった家族が「風通しの悪い一つの社会」のようになっていくのがとても怖かったです。
でも、紆余曲折を経て、保育園に通うことができました。子どもたちにとっては、安心して自分の気持ちを話せる場所として、家庭と保育園の2つがあるように思います。家族という社会だけではなくて、保育園という家庭とは違う社会で過ごすことによって、家の他にも安心できる場所があるということを本人たちは知れたのではと思っています。
いろんな感情を知り、言葉を知り、体験をし、ぐんぐんと成長する姿を感じています。
だからこそ、保育が必要なご家庭に対して開かれた保育園であってほしいと強く望みます。我が家を救ってくれたのは間違いなく保育園でした。そのことがみなさんに少しでも伝われば幸いです。
働いていない母親が自分だけで四六時中子どもを見るというのは、いくら愛情があると言えども限界があります――Aさん
関西で3人の子どもを育てています。27歳で第一子の長男を妊娠。当時は新卒で入社した会社に勤めていましたが、『子どもが3歳になるまでは母親は家にいて、自分の手で育てるべき』という考えが私の中に根付いており、またそもそも、仕事と家事・育児の3役は自分には無理だと感じていたこともあって、産休・育休を取らずに退職。出産前は、「専業主婦なんて、仕事のしんどさに比べたら楽勝」、「我が子と過ごす時間はそれはもう愛おしく幸せなものだろう」と、能天気に考えていました。
でも現実は当然そんなに甘くはなく。長男は、夜泣きと授乳がとにかく頻回で、日中も抱っこしていないと寝てくれない子でした。夫と、すぐ近くに住んでいる実の母はフルタイムで働いていたため、日中は私1人で長男を見る日々。とにかく、眠たい。化粧や掃除をする気力もなく、常にイライラかボーッとしていて、産後うつ状態だったと思います。
結局夜泣きは3歳直前まで、授乳は2歳半まで続きました。さらに長男はアレルギー持ちで通院ばかり。2歳をすぎるまで発語もなく、ひたすら私1人で喋りたおす毎日。近所にママ友が皆無だった私は、誰でもいいから大人と話したい、この子と2人きりじゃない空間で時間を潰したい、と、地域の子育てセンターや親子のつどいに行ってみたりもしましたが、初対面のママたちと何を話したらいいかも分からず、長男は長男で、極度の人見知りと場所見知りで大泣き。結局2人で泣きながら帰ったこともしばしば…。
これ以上1人で見るのは限界だと、一時預かり保育をしてくれる保育園などを探してみましたが、うちの子の特性上、単発で預けるのはハードルが高すぎてやっぱり無理かと諦め、さらに途方に暮れました。こんなとき、どんな家庭でも定期的に子どもを預けられる場所がありさえすればと、どれだけ願ったことでしょう。
二人目の妊娠中に切迫流産で自宅安静となったことがきっかけで、本気で長男の預け先を探し始めました。でも住んでいる地域は激戦区な上に、専業主婦が預けられる場所は限りなく少なく、空きがないといくつも断られ、くじ引きでも落ちました。もう高額のインターナショナルスクールくらいしか選択肢はないのかと思ったとき、隣の区の認定こども園の未就園児クラスに空きが見つかり、2歳半にしてようやく、週3回預けられることに。
生まれて初めて家族と離れ、外の世界に出た長男でしたが、同じ場所、同じ曜日、同じ時間に同じ先生と会うことを繰り返すうち、次第に馴染んでいってくれました。
そこに至る以前の私は、『子どもが小さいうちは家にいて自分で育てるのが良い母親』だとか、『母乳育児に優るものはない』という考えから抜け出せずにいました。
でもその考えから解放されて、長男を預けたとき、自分で自分を苦しめていたことに気づきました。そして、私が苦しんでいることがこどもにも伝わって、子どもにまで息苦しい思いをさせてしまっていたと反省しました。
閉鎖的だった私と長男の世界はここから大きく開き、ギスギスしていた家の中がいっきに明るくなったことを覚えています。
働いていない母親がどこにも預けず自分だけで四六時中子どもを見るというのは、いくら愛情があると言えども限界があります。私のように、実母や夫の両親が近くに住んでいたとしても、親たちには親たちの生活があって、まだ現役で働いていることも普通にあり、そんな中で孫の世話や家事手伝いの協力を仰ぐのには限界があります。
だからこそ、誰もが定期的に、子どもを預けられる場所を作ってもらいたい。それは保護者にとってだけでなく、子どもにとっても、新しい出会いや刺激に触れられるという大きなメリットがあるからです。
今まさにこの瞬間、お子さんと孤立してしまっている親御さんたち。社会から断絶され、先の見えない長く真っ暗なトンネルの中で、今日一日をどうやり過ごそうかと、毎日必死なのではないでしょうか。
つらい、しんどい、消えて無くなりたい、子どもと居ても全然幸せを感じられない…そんな方が一日でも早く笑顔を取り戻せるよう、お子さんを預けられる場所や頼れる場所、サポートしてくれる存在と出会えることを、願って止みません。
【働く親のための保育園から、全ての子どものための保育園へ。全国調査結果を発表しました!】
現在の保育制度では、親の就労や疾病など「保育の必要性」が認められないと入園できません。
私たちは、希望する全ての家庭が保育園を利用できるよう提言していきます。
<フローレンスの政策提言活動について>
フローレンスは、支援現場を自分たちの手で運営しながら、そこから日々得られる親子の生の声や、事業ノウハウを社会に広げ、国や地域の制度に具体的施策を提言をすることで、日本の子どもを取り巻く環境、綱渡りを強いられているハードな子育て環境を、アップデートしていきます。
今回、2022月6月15日におこなった、記者会見、全国調査、広報活動についても全て皆さんからの寄付により実現しています。
いつも応援してくださる寄付者の皆さん、参加・協働してくださっている多くの皆さんに心から御礼申し上げます。
日本中のすべての親子の笑顔のために、フローレンスはこれからも皆さんと共に「新しいあたりまえ」を形にしていきます。