~GPSSグループ代表 目﨑雅昭 × 予防医学者 石川善樹(東京大学運動会ラクロス部男子OB)~
GPSSグループがスポンサーしているBlue Bullets(東大男子ラクロス部)。
現在、東大ラクロス部の皆さんとは様々な企画が進んでいますが、この対談企画もそのうちのひとつです。ラクロス部はOBの皆さん含めて実に魅力的な人材が豊富!
第二回の対談は、GPSSグループ代表の目﨑雅昭と、現在予防医学者として活躍されている石川善樹さん(東京大学運動会ラクロス部男子OB)。
今回のテーマ『一人ひとりが幸せに生きるとは?』の後編スタートです。
前回(前編)はこちらから
----------------------------------
司会:山口幹生(東京大学運動会ラクロス部男子GM)
文責:宇佐見彰太(東京大学運動会ラクロス部男子Relations Manager)
※名前は敬称略
3. 意識のシンクロ ———ラクロスとは、アルゼンチンタンゴである。
目﨑: アルゼンチンタンゴってご存知ですか?なんとなく聞いたことはあって、薔薇をくわえてくるくる回ってというイメージがあるかもしれませんが、実はそうじゃない (笑)
僕はサロンタンゴというものをやっていますが、これは人に見せるための踊りではなくて、たまたまそこで出会った人と、たまたまかかった3~4曲の音楽と、その日の自分の気分に載せて、男女でハグをした状態で、即興で踊っていきます。そうすると、自分と相手のシンクロもあるし、音楽と自分のシンクロもある。さらに、踊っている人たちも反時計回りに少しずつ周囲に触れないように動いていくので、場の全員がシンクロしていくのです。すごくいろんなレベルでシンクロが起こっていて、自分の身体の境界線が消滅し、世界と一体化している体験ができるのです。だから、踊るときも手でリードしようと思ってリードするのではなくて、まさに自分が手を動かすように相手の足を動かすのです。もう、頭が2つで身体は1つ、手足が4本のひとつの生き物になる感じ。身体は一体化しているのですが、意識レベルでは二人の個がしっかりと保たれているのです。
これが主体性を担保された状態で全体と融合しているということで、先ほど石川さんのお話された経験とすごく似ていると思います。1人1人のプレイヤーの主体性はありながらも、守る人たちがまるで一体の生き物のように感覚を共有しているのと同じ状態ですね。この主体性を保ちながらも、全体と融合したシンクロ度合いが大きいほど、幸福感が大きくなっていくと思っています。
石川: なるほど。ちなみに目﨑さんはどのくらいアルゼンチンタンゴをやられてるんですか?
目﨑: もう10年ほどになります。元々ずっと格闘技をやっていたんですよ。30代半ばくらいまで、「相手をどうやって返り討ちにしてやろうか」なんてアホなことをずっと考えていました(笑)
ある時、旅をしながら、ブラジルではブラジリアン柔術やカポエイラを習い、タイではムエタイを習ったりなんてことをしていたのですが、その延長でたまたまアルゼンチンに行ったときにアルゼンチンタンゴをやってみようとなったのが始まりです。
僕にとってというか、日本人にとっての踊りって、お遊戯とか盆踊りがベースにあって、みんなが強制的にシンクロさせられる構造があまり好きではなくて。だから元々ダンスは嫌いだったんですが、アルゼンチンタンゴに出会ったらもう真逆ですよ。だって全部即興で、そのときの自分の感情や内面に映し出されたものを音楽に乗せて、2人で身体をつかって表現していくのですから。相当高いスキルが必要です。でも、僕がずっとやってきた格闘技の延長線上にあるようにも感じました。格闘技は、つまるところ相手の軸をどうやって壊すかということですが、アルゼンチンタンゴは相手の軸をどうやって守って、自分と相手の軸を交差させていくかというところで、ベクトルは違いますが、使うエネルギーや身体の使い方とその修行という意味ではすごく似ているなと思いました。
それで、見ていても美しいし、これなら俺行けるなと。そこから10年くらい続けていますね。非常に難しいですが、やっとまともに歩けるレベルになったようになった感じがしています。
(目﨑)インドのゴアにて、仲間と格闘技の稽古中
(石川)山口GMとハワイにて
石川: 日本人って、練習と本番で動きが変わらない競技が強いと言われてますよね。スケートとか体操みたいな。アルゼンチンタンゴは、サッカーとかもそうですけど、状況状況で本番と動きが違う難しさがあるということですね。
目﨑: 確かに競技のタンゴっていうのもありますが、アルゼンチンタンゴは元々見せるためにやるものではなかったのですよ。アルゼンチンが90年代に経済危機になる中で、何とか輸出しようとしたものがワインやビーフでしたが、その中の一つがタンゴで、輸出のために競技化されたという背景があります。だから、当初はタンゴのマエストロと呼ばれる人たちは全然参加してなかったんですね。
本来は、自分の内面的なものを第三者に伝えるための「最小単位のアート」だと思います。「最小単位」というのは、絵でも彫刻でも、自分が1人で「アートだ」といったところでそれはアートにならなくて、不特定多数の人から客観的に承認されれば承認されるほど価値が上がるじゃないですか。でも、タンゴの場合は自分と相手がいるので、この2人がいいと思ったらそれで成立するのです。だから、本来、競争というのがほぼ無いものなんですよ。
石川: ラクロスはアルゼンチンタンゴである、と言ってもいいですね(笑)
目﨑: 競争はないんですか?(笑)
石川: ラクロスって、元々は競争とか争いをやめようってところから始まってるんですよ。アメリカの先住民が、湖の周りの6つの部族で争いをやめようということで始めたのが起源です。
(石川)現役とOBの混成チーム、TOKYO TOWER 2005で大会に出場
(目﨑)ボリビアのウユニ塩湖にて
目﨑: そうなんですか。
石川: それで、持っていた石斧の石の部分を外したのが今のラクロスのスティック。ラクロスのボールは地球を意味してるんです。それで地球を大事に運んでるっていう感覚なんですね。だから、ラクロスも本来は勝利よりも調和を目指したスポーツなので、アルゼンチンタンゴにちょっと似てるなと思いました。
目﨑: なるほど。いろんなスポーツにおいて勝ち負けの部分というのは、あくまでも構造を面白くするための手段の1つであって、目的じゃないんですよね。
武道や格闘技も、身体性を磨くことの延長上での精神的な修行というところにもやっぱり本質があると思います。高校の頃に空手部で、もう毎日死にそうなくらい練習がありましたが、そんな風に肉体と精神をめちゃくちゃ追いつめられると、「七人の侍」みたいな感じで、5mくらい離れた敵の殺気も感じられるようになりました。今はタンゴダンサーになっちゃったので全然ダメですけど(笑) 禅の鈴木大拙先生は、これを一種の悟りの境地として例示しています。
武道じゃなくても、川上哲治が「ボールが止まって見えた」みたいな話もそうですが、身体的な能力が訓練される中で高いスキルに到達することで、一般的に考えている僕らの肉体的な範囲を超えたところでの認知ができるようになるっていうのは、全てのスポーツに共通してある要素だと思います。バスケットボールだって、30mくらい先にゴールがあって、あんなところに放物線を描いてボールを入れるなんて、力学的にはとんでもない複雑な計算をしないと入らないじゃないですか。でもそれをやってしまうのが訓練された人のスキルですよね。
つまり、僕らが通常認識している身体の形が自分の境界じゃないんだっていうことを実際に体感するっていうことですよね。それができるのがスポーツであり、アルゼンチンタンゴなのかなと。
石川: 目﨑さんのお話で思い出したんですが、僕は1999年に東大に入ってるんですけど、その年の東大入試の国語の第一問は「身体とは何か」という問いだったんですね。
自分の身体って、みんなコレを自分の身体だと思っているけど、靴を履いたら靴も自分の身体の一部になる、みたいな。身体感覚というものは拡張するけど、さて身体とは何でしょうか、という問題で。勉強ばかりしてきた身体性とは無縁の東大受験生に第一問で身体について問うってのはめちゃくちゃ面白い大学だなって思った記憶が甦りました。
目﨑: 実際に剣道の達人の脳波を調べると、竹刀の先っぽまで自分の身体の一部として認識しているらしいですよね。
石川: やっぱりそうですか。
目﨑: こういう話って、理解するのは難しくないと思うけれど、体感するってなると別の話になると思っています。だから、先ほど石川さんがおっしゃったラクロスの時に一番幸せを感じた一体感というのも、どれだけ人に話しても共有することはできないですよね。自分が体感しないと無理です。だから、自らがそれを体感するための一つの手段がスポーツだとしたら、すごく重要な活動だと思いますね。
(目﨑)米国コロラドにて
(石川)ハーバード大学院にて
4. 幸せとWell-being ———より深く、永続的な満足感の中を生きる秘訣
山口: 意識のシンクロというのが幸せに通じるというのは、個人的にもすごくよくわかります。一方で、大学の部活でそういったことを「幸せ」って感じたあとに、就職するタイミングになると価値観が逆になっているように思うんです。
例えば、自分と同じ代の学生と比べてちょっといい会社に入るっていうことに幸せを感じたり、それを目指したりする感覚。これって「人と意識がシンクロするとか、一体感というのとは真逆の世界でも幸せを感じる」ということで、そこにすごく違和感を覚えたこともありました。でも世界を見ていると、そういう人たちはたくさんいますし、国と国、地域と地域といったレベルでもそういったことがあると思っています。
この、「他者と比べてちょっといいものが得られたという幸せ」と、今までお話されていた「他者とシンクロする幸せ」というのはどういう関係なんでしょうか?
石川: 僕の人生にすごく影響を与えたエーリッヒ・フロムという人が書いた、「生きるということ」っていう本があります。そこにHaveとBeって話があるんです。Haveというのは人より良いものを持つということで、20世紀はHaveの時代。より強い軍事力を持って、より広い国土を持つっていうHaveが幸せにつながると思っていたけど、もうそうじゃないんだと。これからはBeの時代、まさにWell-being、即ち自分が存在としてただあるということですが、そういう時代に移っていく、みたいなことが書いてあって。それで、そうかHaveじゃなくてBeでいけばいいんだ、ということで若いときにすごい影響を受けましたね。
目﨑: 僕もエーリッヒ・フロムは大好きですよ。「自由からの逃走」が強烈に僕の中に残っています。先ほど山口さんが仰っていた、人と比べるということとシンクロや統合と言ったことは、人類の10万年、20万年の歴史の中の進化のプロセスじゃないかと思っています。人と比べてちょっといいというところで感じられる高揚感は原始的なものではあると思いますが、その感覚をみんな持っているのも事実で、そういう脳の構造やメカニズムがあるっていうことだと思います。でも、それはそれとして、次の段階として人類が進むべき方向を考えたときに、人と比べて得られる満足度って本当の満足度に繋がってるのかというと、違うと思います。
例えばお金。お金っていくらあったらいいですかといった問いに、世界一のお金持ちになったらいいのですか?でも、世界一って世界で1人しかなれないのだから、他の79億人がダメですねって話になっちゃいます。だから結局、人と比べて得られる満足度っていうのは、あくまでも一過性のものですし、他の人と同時に体感できるものでもないですよね。
そこでどうしたらいいのかというと、やっぱり他の人との一体感やシンクロの中で得られる満足感っていうのが、より永続的で、深い満足感なんだと思うんです。今の資本主義をベースにした生活の中で、そうした人と比べることで得られる満足感から完全に抜け出すというのはなかなか難しいと思いますけどね。僕が放浪していたときに周りにいたヒッピーですら、「金なんて本物じゃねぇ!」と口では言いながら、意外とお金に汚かったりしましたから。
山口: なるほどなるほど、興味深いですね。
石川: 目﨑さんのように、資本主義からヒッピー、バンドや格闘技からアルゼンチンタンゴまでいろいろ経験して、やっぱりWell-beingだよねと芯を持って取り組まれている社会人の先輩がいるというのは、学生のみんなにとってとても刺激になる話ですね。そんな目﨑さんが、僕らのラクロス部をサポートしてくださってるのは、改めてすごくありがたい話だなと思いました。
目﨑: 僕はね、自分が体験しないと何も入ってこないんですよ(笑)
だから全部やってみて、やって初めてわかる。みんなそこまでやる必要もないと思うし、もっと優秀な人たちだったら話をきくだけでわかるよということもあると思いますが、そうは言っても身体として体験しなきゃいけないなと。お話してきた高揚感みたいなものを自分で体験した人としてこなかった人っていうのは、人生の深みだったりゴール設定みたいな部分で大きく変わってくるのかなと思います。
(目﨑)インドのアーグラにて
(石川)15期同期と海外出発前
5. 現代の学生のみなさんへ ———魂、燃やせ。
山口: 最後になりますが、今の大学生ってすごく大変だなと僕は思っていて。人の価値観が転換期にある中で、従来の「こうすべき」っていう情報と、「それじゃダメな時代になった」っていう情報が混在する中で、どういう指針のもとに何に時間を使っていくべきなのか、組み立てにくい時代になっていますよね。
ラクロス部のメンバーもそういったところで悩んでいるところがしばしば見て取れます。僕自身は、ラクロスをめいっぱいに頑張ればいいと思っているんですけど(笑)
それでも、表面的にでも「いろんな経験を積まないと社会で活躍できない」みたいなことも言われたりする中で、大学生、特に1年生なんかはなかなか時間の使い方や生活のあり方を決めにくい状況だと思います。就職活動をする大学の3~4年生もまた、何を軸に会社を選んだらいいのかわからないとか、そういったこともあると思います。そんな今の大学生が、どう生きるのが将来の幸せに通じるかということで、抽象的で難しいんですがアドバイスがあればいただけたらなと。
石川: 最近の事情はあまりわからないんですが、「何をすればいいですか?」っていう発想になりがちだと思うんですよ。幸せになるために、とか、成功するために何をすればいいですかっていうのは、世界を「こうしたらこうなる」という因果関係として捉えた上で、無駄なく効率的に成功して幸せになりたいっていう発想だと思います。でも、時代が複雑になればなるほど、「何をしたらいいか」という答えは出せなくなるものであって、むしろ発想を変えて、「問い」そのものを考えなければいかなくなっていくんだと思います。あとは目﨑さん、お願いします!(笑)
目﨑: 僕の世代だと、「こうあるべきだ」というものがすごく強い社会で育ちました。それを信じている人も多いから、ある意味でわかりやすかった反面、そこに行かない人というのは徹底的に排除されるような世界観でした。今はその世界観が完全に崩壊していて、いい大学に入って、いい会社に入ったところで潰れてしまうこともあります。「日本は大丈夫なのか?」「日本の社会で『よい』とされるものに乗っかればそれで問題ないのか?」といった不安というのが前提としてあるかもしれない。
でもこれって、いいことでもあると思っています。なぜかというと、あなただけの人生において、「あなたにとってベストな状態って何ですか?」ということを、とことん考えざるを得ない状況に結果的に追い込まれることができたからです。「昔はよかった」なんて言っている人たちの概念に影響を受けて人生の選択をしていたら途方に暮れるしかありません。
就職やキャリアについて考えてみても、僕はやっぱり、自分が本当に何をしたいか、どう生きたいかっていうものは、「資格」だとか「職業」にぴったり当てはまるものでは決してないと思っています。社会の機能のひとつである職業に、それも将来はなくなってしまうかもしれない仕事に、自分の人生の全てを一致させることは、ナンセンスです。そういう思考ではなく、もっと本質的に、自分がどういう状態だったら魂が燃えるのか。そこにフォーカスしながら、いろんなものを体験して、心からの好き嫌いをどんどん体験していくことによって、だんだんと「これ、俺の魂燃えるじゃん」みたいなところに落ち着いていくんじゃないかなと思います。
今日はアルゼンチンタンゴの話もさせてもらいました。今僕はタンゴに完全にハマっていますが、例えば僕が10代の時にアルゼンチンタンゴに出会っていたとしても、絶対にハマってなかったと思います。つまり、その間のいろいろな経験があって、偶然に偶然が重なった複雑な事情の上でハマるところがあった、ということです。こればかりは人それぞれに違うと思います。普遍的なものはないため、皆さん自身が皆さんなりのものをつくっていくことしかないんですよね。
山口: ありがとうございます。コロナが落ち着いたら、是非1度、ちゃんとお会いしたいですね。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!