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私の履歴書 1

こんにちは。まるや商事 代表の宮尾です。

私がこのまるや商事(株)に入社してから21年、そして代表取締役社長に就任してから、18年が経ちます。その間、沢山の出会いのおかげ様で、今現在があると信じています。その中で17年間作成し続けてきた「経営指針書」というものがあり、かなりプレイベートな話もありますが、ぜひ私の等身大を姿をお見せすることにより、私の価値観やこれから会社が進めべき方向性などを少しでも理解を深めていただけると思い、公開決心しました。ちょっと恥ずかしい内容もありますが、ぜひ最後までお付き合い頂ければ幸いです。

以下は、ちょうど15年前、2009年 代表取締役社長に就任し、3年目(33歳)の時に作成し、100名ほどの経営者の方々の前で発表した資料の一部です。現在とは状況や環境は大きく変わっていますが、改めて読み返してみると、基本的な自身の「根っこ」は一切変わっていないことに、びっくりです。

そして33歳の自分に「今は大変だけど、とにかく我武者羅に「冷静に、正確に、丁寧に」やり続ければ、必ず道は開くと伝えてあげたいですね。この時期は本当に病んでいた時期でもあったので(笑)

〜生い立ち〜

昭和51年7月28日生まれ、熊本県熊本市で宮尾家長男として生を受ける。現在33歳。姉は2人と弟が1人の4人兄弟。小学から続けているサッカーに明け暮れる毎日。地元熊本の高校卒業後のオーストラリア国立ウーロンゴン大学商学部に入学。5年間の海外生活後、東京で株式会社サンエスで研修生として3年間働く。研修終了後3ヶ月間、世界一周放浪の旅にでて、8年ぶりに熊本に戻り父親の後継者として、まるや商事株式会社に入社。平成16年に結婚。妻と娘二人の4人家族。平成18年7月に父邦彦が引退し相談役となり、まるや商事株式会社三代目代表取締役社長に就任、現在に至る。

〜家族〜

父親はまるや商事2代目で、仕事の関係上あまり家におらず、とにかく怖い存在だった。特に時間に厳しく「時間を守れ」「人を絶対待たせるな」といった事を口癖のように言っていた。母親は、小さい時から母方の実家がお寺ということもあり、仏教的な言葉を子供達に伝えてくれていた。一番印象に残っている言葉は、「貴方には生まれてきた役目がある」。姉達や弟とはよく喧嘩しながら一緒に遊び、今でもお酒を酌み交わす仲の良い関係である。祖父は、まるや商事の創業者であり、人格者として多くの方から慕われていたとの事。祖父の父の代に、台湾:高尾地区の警察署長として長野から移り住んだと聞いている。祖父は台湾帝国銀行の出のお菓子卸の社長として、戦後動乱の中、持病の胃潰瘍に悩まされながら、自転車1つから新規開拓を始め、近所の人からは「骨皮筋右衛門」とあだ名をつけられ笑われながらも笑顔で挨拶をしながら、命をかけて現在の会社の基礎を創られた。祖母も祖父同様にまるや商事の創業者の1人で、祖父が倒れてからも会社の根幹として働き、特に財務管理を徹底的に行われていた。熊本レディースゴルフ会の発起人だったとの事。現在でもその件で見知らぬ人から声をかけられる事がある。子供の頃、お小遣いをくれる時には、必ず肩たたき15分100円や庭の掃除など、仕事をさせてからお小遣いをくれる祖母がとても新鮮で好きだった。妻、美絵は東京御徒町生まれ、東京での修行時代に出会い、日々自分を支えてくれ、現在2人の娘に恵まれ生活している。

〜子供の頃から〜

なに不自由なく育ち、あまり考えず活発に動き周る子供だった。4歳の時から一人でよく遠く離れた友人宅に自転車で遊びにいき、夕方になってもなかなか帰らなかったのでよく母親に怒られていた。3人目の子供が男ということもあり、とても可愛がってもらったとの事。しかし7歳下の弟が生まれるとその座は弟の物になった。少し寂しかった思い出はあるが、弟はとても可愛く何時も一緒に遊んでいた。幼稚園の卒業アルバムに将来の夢は社長になると書いており、父の背中と実家の横が会社という環境からなんとなく社長になるのかな〜と感じていた。小学校の頃は、色々な役を進んで受けていたが、人前に立つと極度に緊張し、心臓がバクバクする癖が治らず、人によく思われたいという気持ちが人一倍強い幼少期だった。中学校は、地域3つの小学校が集まるマンモス中学校で、生存競争がとても厳しい環境であり、自我を通す難しさに直面することが多々あったが、ここで一生涯の友人達と切磋琢磨した時代であった。

〜高校時代〜

高校時代は、サッカーがすべてだった。休みはほぼなく、たままた時期的に県内の優秀な選手を集めていて、高校2年生の時に、熊本県初の全国大会ベスト8まで登りつめる強豪校となり、部員数も約80名在籍。高校3年間補欠として高校時代を過した。最終的に同学年で残ったのは50名中14名。毎年レギュラークラスの新入生が次々と入部。何とも言えない空虚感に襲われる時期もあったが自分の役目を自ら見出し、レギュラーになれない同級生や後輩達と一緒になってチーム全体を支える役目を見つけた。今考えると、部内の潤滑油を行っていた。この経験は、「相手の立場になって物事を考える」という思考を植え付けてくれ、忍耐という言葉を教えてくれた。この時期に、大学は海外に行くと決め、父親に相談したところ意外にも快く承諾してくれた。平成6年10月1日、全国大会熊本地区大会決勝。0-1で敗れ高校3年間のサッカー人生は終止符が打たれた。終わるとすぐに留学の準備を始め、周りの友人達には一切相談せずにいた。その進路について初めて語ったサッカー部3年生お別れ会の壇上にて、ある保護者から「宮尾、お前遊びに行くとや!」と野次られた時、頭が真っ白になり体が震えた。やっぱり人は結果でしか見てくれないのかと感じ、とても悔しく絶対に見返してやると強く心に刻んだ。しかし今ではこの言葉によって奮起することができ感謝している。

〜オーストラリアへの留学、気づき〜

この時期から会社を継ぐためには海外の大学を卒業するしかないと自分で勝手に思っていた。人と違う経験をしなければ、人の上に立てない、会社を経営できないと感じていた。最大の理解者は父親だった。オーストラリア NSW州 ウーロンゴン市というの地に5年間という時間を過ごし、大学の内外で得た経験は、現在の自己性格の核である。国・言語・文化・習慣・宗教・伝統が全く違う、世界各国の留学生との交流や様々なバックグランドから出てきているオーストラリア人達との共同生活は、毎日が刺激的であり、日本で味わえない緊張感と価値観を経験することにより、なお一層、日本人として心を強く意識することになった。基本的に生活習慣すべてが攻めの姿勢を持っていないと何も得ることができなかった。自発的に考え行動することでしたか価値を生まないという考えた方は、今迄とは180度違った。当初は面喰い悩んだりもしたが、そんな暇はないと言い聞かせ、怖がらずドンドン入り込んでいったおかげで、価値観の観点が他人から自己に変わり始めていた。そんな中、ある気づきと出会った。「心・技・体」の「心」の大切さを。大学でサッカー部に入部することし、60人ほどの部員の中アジア人でたった一人の存在でもあったが、初年度はチーム内において得点王として表彰された。生まれて初めての経験だった。今まで誰かを気にしてやっていたサッカーが、こんなに面白いスポーツであるのかと生まれて初めて知った。いつの間にか周りを気にしオドオドする自分がいなくなっていた。何事においても「精神」というものが重要であり、「手段」「方法」に捕らわれない大切さを理解した。また、この地では「結果」はこれほどまでに尊重してくれるのかと驚きを感じ、結果に対する貪欲さを常日頃から持つ癖がついた。この頃自分というものに初めて出会った感があった(19歳の時)。またこの時期に多くの本を母親から送ってもらい貪りつくように読んでいた。日本語の活字がたまらなく恋しくなった時期であった。その中で出会った印象的な詩が坂村真民先生の「念じれば花ひらく」と相田みつを先生の「やれなかった、やらなかった、どっちかな」。

〜人生においての選択~宿命を受け入れる〜

この大学生活終盤に家業を継ぐことを決断した。当初は周りに流され本気でオーストラリアの国籍取得を考えていた。変わるきっかけは、家族の存在だった。熊本にいる際には、まともに話す機会がなかった父親だったが、オーストラリアで一緒に酒を酌み交す機会があり、色々なことを話しすることができた。その際に将来的に家業を任せたいと始めて伝えてくれた時はすごく感動した。この留学において快く承諾してくれ、資金援助してくれた父親、何時も遠くから色々なサポートをしてくれた母親、そして日本の音楽や色々な心温まるものを送ってくれた姉達と弟。すべて因果の廻っているような気がし、また感謝の念を込めることによって継ぐという二文字が体の中から湧き上がってきた。また、祖母が他界する前に会う機会があり、涙を流しながら久しぶりの一時帰国したことを喜んでくれ「後を頼んだよ、商売は素直にやりなさい」と言ってくれたことが、自分の背中を最終的にポンっと押してくれたような感じがした。家族の有難みを初めて国外に出ることにより強く感じ、本来自分の根っこがどこにあるのかを理解したことが次の人生においての決断の大きなきっかけとなった。

〜継承と新たな出会い〜

父親は、創業者祖父邦男が倒れたことが切欠となり、若干33歳で二代目として、まるや商事の舵取りを任された。大学卒業後、東京の菓子卸業界トップである㈱サンエスへ入社。帰郷後に新規取引先であったパチンコ業界を任された。当時は換金業務を行っており、ほぼ熊本全域のパチンコ店との取引を父親が開拓し、莫大な利益を上げていた。しかし昭和56年に、九州において地場菓子卸の勇であった地場菓子卸が倒産。当時は、大阪にある広域菓子卸の流れを組んでいたが、父親の決断により、社内外の反対を押し切って電撃的に東京足立区に本社がある㈱サンエスと業務提携を行った。数年後、その大阪の広域菓子卸は倒産。この判断により地域において信頼性を高め、この時期に大牟田営業所を開設できたのは、その後のまるや商事とって大きな宝を与えくれた。その父親は、自発的に私が留学をしたいと言ったことが、今後のまるや商事において光を感じていたことを後で知ることとなった。その父親の意を汲み、国立ウーロンゴン大学商学部経済学科を卒業後、㈱サンエスに研修生として入社。首都圏を中心に3拠点に配属され必死に仕事に打ち込んだ。朝から次の日の朝まで仕事をすることが度々あり、とても厳しく指導をしてくれたが、充実感でいっぱいであった。しかし今までのプライドが、はかなくも散り、真っ白の状態からサンエスイズムの習得に専念。今思えばよくもあんなにも責任ある仕事を任せてくれたと感謝の念が絶えない。この時期、多くの良き同期、先輩、上司との出会いは自分をより一層磨くことができた。

〜世界一人旅、帰熊そしてまるや商事入社〜

平成15年3月にサンエスを退社し、その二日後に一人旅に出た。サンエス入社当時から決めていたことを実行。もう一度自分自身の可能性を確認したかった。アジア・ヨーロッパを中心に10ヶ国、28都市、81泊、82日。最小限の衣類、洗面具、パスポートと貯蓄をリュックに詰め、飛行機チケット以外はなにも決まっていない旅。宿泊は世界各国の旅人との相部屋・安宿。夜、地元の人が沢山集まる繁華街に繰り出し、現地の人々と触れ合う空間やそこでしか味わえない景色、空気、料理と音楽。刺激という粒子が充満していた。カンボジア・アンコールワットで見た幻想的な朝日、イタリア・アンマルフィの山の頂上でみた碧い地中海の水平線、アイルランド・ダブリンで体験したケルトミュージック殿堂のバーとギネスビール。今迄生きてきた土台が全く異なる人間同士でも、“人”としての原理原則は、世界共通であると肌で感じることができた。また、日本という恵まれた国で生まれた自分に対して、劣等感さえ感じることもあったが、この旅のおかげで、あらためて日本という国が大好きになり、日本人としての誇りが更に強くなった。帰国して、次の日、平成15年7月にまるや商事に入社。

〜新たな自分との出会い〜

入社してからは、とにかく実績を上げるため、サンエスで培ったノウハウと思いの強さで我武者羅に働いた。しかし、業績をなかなか好転させることができず、空回りしている状態が続いた。私が帰郷する前年の平成14年に新本社を建設。高速インターがすぐ近くで敷地面積3300坪、センター敷地1200坪の大型センター。父親は自分が継ぐといった瞬間からこの計画をスタートしたとの事。しかし、売上は増えるが利益がなかなか残せない、構造不況に陥り始めた。平成14年度を最後に利益額が減り続け、平成17年度決算期において営業赤字を計上。この時期に多くの社員が定年と自己都合ということで会社から去っていった。平成18年の年始に父親から社長交代する旨を聞かされた。旧本社の土地の売却のめどが立ち、今後の起爆剤として就任して欲しいとの事だった。初めて聞かされた時は、父親に猛反発をしたが「まるや商事の今後の存続をかけた世代交代である」という一言が決心する引き金となり、平成18年7月、若干29歳で3代目代表取締役社長に就任し、まるや丸の舵取りを任せれた。遅かれ早かれ社長になるのだからと自分自身に言い聞かせることにより、少し浮ついた気持ちが自分の中で出始め、目標を見失うことが多々あった。また、就任以来、目に見えないプレッシャーを受け、社長業としての決断の重さを実感し、並大抵なものではないと初めて痛感し、父親の偉大さを改めて知った。この3代目として節目の代において、祖父・祖母、父親・母親から受け継いだ“まるや丸”をいかにして前進させることが出来るか日々念仏のようになっていたが、答えが出るはずもなく、心身ともになかなか前に進めない状況になった。何のため人生、人生の目的が見えない時期であった。

しかし、平成18年11月11日、絶妙のタイミングで自己成長の場と出会えた。それは、岡山での豊友会の全国大会参加だった。そこで全国各地の沢山の中小企業経営者と出会えたことが、自分一人で悩んでいることに対しての甘えに気づかされた。そして岡山豊友会に入会。そこで運命的な出会いが待っていた。甲斐顧問との出会い。当初は何も知らない自分であったので、お酒の力を借り生意気にも反論していたが、甲斐顧問始め、岡山会員皆さん暖かい叱咤激励に毎回毎回涙していた。何時しか、岡山に行く事が唯一の楽しみとなり、あるとき岡山行き道中の新幹線の中で気づいたことがあった。

・ 自信のない自分を隠そうとしている自分

・ 父親ときちんと向き合っていない自分

・ 当社役員・社員さんと真正面から向き合っていない自分

・ 家族を犠牲にしている自分

この豊友会の場で学ぶことにより、まずはすべてを受け入れることから始めた。そしてあるべき姿を描き、人生にロマンを掲げることにした。受け入れる事で不思議と余裕が生まれギスギスした対人関係がなくなった。また、あるべき姿とロマンを決めたことで、ポジティブシンキングが自分の心の中で定着した。ポジティブシンキングは絶妙なタイミングで多くの新しい出会いを運んで来てくれロマンへの活力源となった。

〜これから〜

今年11月、国は国内経済においてデフレに突入し、国の借金は09年9月現在で約864兆円と発表した。人口一人当たりの金額に直すと約678万円と過去最大を更新したとの事。仮に国債10年もの国債水準を約1.5%と仮定した場合に、国債の利払いだけで、864兆円×0.015=12兆9千億円。毎月約1兆円(人口一人当たり約8000円/月)の金利を払わなければならない。更に09年度予算において約50兆円もの国債を発行する。GDP比で約10%である。そして、円高が進み外需依存企業において打撃を受け、本年度の財政状況は過去最低となり、国の根幹である人口においても少子高齢化が猛烈なスピードで進み、なかなか出口の見えない状況が続いている昨今である。

それに伴い、流通業界は怒涛の再編の波が押し寄せる。時流に合わない企業、変化に乏しい企業は次々とその波に呑まれる時代であり、当社の業界内においても今後地方卸としての進化を実現しなければ市場から退場しなければならない。しかし、この乱世の時代だからこそ多くのチャンスがあると確信している。そして、厳しい経済状況だからこそ、そこにロマンがあり、今後人間性と行動力が問われる時代となる。しかし、地方だから、卸だからと出来ないこと・足りない理由を並べてもしょうがない。出来ないこと・足りないものを理解し、新しい価値をこの熊本・九州で創造しこの乱世の時代において当社の存在意義を社会に発信する。

まるや商事創業の精神は人との和と縁である。社名である「まるや」には、人の和をもって幸福の追求を目指すという思いが詰まっている。また「商事」には1つの事に執着せず、人との縁により、時代に合わせて変化するよう付け加えられている。モノ・カネは過去と現実を作るが、ヒトは未来を創造する。今まで数多くの出会いによって、成長の糧としてきた。今後もその出会いを大切し、不易流行を念頭におきながら、この乱世の時代において輝ける企業となり、社員さんにとってやりがい、働きがいを持てる会社を目指し精進していく。



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