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【社長インタビュー】自分の置かれた環境に疑問を持ち、泥臭く改善をし続ける。その結果、売上は10倍越えに。

薄井青果で働くメンバーを紹介する企画。第1回は、社長である薄井壮登志社長へインタビュー。3世代目の社長となるまでの道と今の薄井青果を形作るコアに迫ります。

【薄井壮登志社長 プロフィール】

大学3年の年に中退後、ワイン業界で働きたい。という思いから渡仏。数ヶ月後には世界内閣府青年国際交流事業の”世界青年の船”への乗船。世界各地の青年たちと時間を共にした。その後、日本にてワイン関連会社へ就職。2004年に実家である薄井青果に就職するものの、可能性を感じることができずに2006年に退社し、東京の仲卸へ。2年間務めた後の2008年に独立。2011年に薄井青果へ戻り現在に至る。

この環境ではダメだ。面白い人を求め動いた20代前半。

― 社長は大学を中退している。ということでしたが、なぜ中退したのですか?

大学には通っていたのですが、なんのためにやるのかが分からなく、自分は無意味な勉強をしていているのではないか。と考えるようになったことに加えて、周りの同級生が合コンなどの飲み会の話や、ブランド物の高い服を買って、「金がない。金がない。」なんていう日常会話をしているのに「意味ないな。」と感じていました。

一方で、バイトして金を貯めて、夏休みや冬やすみには海外に行っていました。
当時、海外に行こうと考える日本人は面白い人が非常に多く、現地でも面白い人との出会いが沢山ありました。大学へは、これ以上行っても意味がないのだから辞めよう。と思い、3年生に上がるタイミングで中退しました。

― 中退した後は何を?

ワインが好きで、フランス語教室にも通っていたこともあり、フランスへと渡り、目的もなく1ヶ月ほどふらふらとしていました。その後、”世界青年の船”への乗船し、世界中の志高い同世代と一緒に2ヶ月以上を過ごし、日本に戻ってくると同時に東京に住み始めました。

― なぜ実家のある石川県ではなく、東京に住み始めたのですか?
面白い人が集まるのはいつだって東京でした。それが理由です。

金沢にいてもしょうがないし、面白い話をするやつと関わりたいし、話をしたかった。
世界青年の船で出会った仲間たちも石川までは来なくても、東京であればくると言うのも大きかったと思います。

― 東京に来てすぐに仕事につけたのですか?
もちろんお金もない状態で東京に来ているので、先ずは仕事を探さなくては。ということで、すぐに見つけた求人は新宿市場の仲卸の仕事でした。でもここでの仕事は1週間のみでした。ワイン業界に関わりたい。と思う気持ちがやはりあり、面接を受けていたのもあるのですが、辞めたい。と思ったことがいくつかあったんです。

― 具体的にどんなことが辞めたいと思ったことだったのですか?

2000年代の初めということもあり、これからはパソコンを使っていくべき。というタイミングなのに、最初に鉛筆と消しゴムを渡されて、上司から言われるのは、「鉛筆削りをちゃんと使え。」「芯はちゃんと尖った状態で使え。」「HBは使うな。ファックスで写らないから。2Bを使え。」なんていうアナログ過ぎる内容ばかり。

入社してすぐの私は偉そうに「その計算エクセルでやりましょうよ。」「パソコンでこうやって出来ますよ。」と進言していました。結果はもちろん受け入れられず。逆に煙たがれる始末でした。笑




― その後、25歳で薄井青果へと戻られたのですよね。

はい。ただ、2年弱ほど勤めた後に再度東京へと戻りました。

― なぜまた離れられたのですか?
可能性がないな。と感じたんです。原因は、薄井青果の置かれた状況です。

薄井青果の元々は果物屋でして、私が小さい時のお客さんは今、数少なくなってきている町の八百屋ばかりでした。スーパーへの販売なんて言うのは、もちろん考えられない状況でした。

なおかつ、薄井青果は市場の中で最も下層な立場で、他の仲卸が安く買えているが、薄井青果では同じものを高く買わなくてはならない。モノも決して良いものとは言えないモノばかり。

そんな環境を変えようと他の市場からモノを買ってくると、市場関係者から怒られ、父親からは足並みを揃えろ。と言われる始末。この先に未来はない。と思うようになり石川を離れました。



― それは想像するだけでも、どうしようもない状況ですね。それでも今の薄井青果があるのは何故なんでしょうか?

どうしようもないから何かできることを。と考え、取得したのが”野菜ソムリエ”の取得。

ジュニア野菜ソムリエを取得しました。その後、野菜ソムリエ協会の関連職業斡旋会社から仲卸の仕事がある。という紹介を受けました。

その仲卸会社では、今も多くの取引をさせてもらっているオオゼキとの最初の繋がりを作ることになった他、こだわり野菜を扱っていたことからポップやシールなどの販促物を作ることで商品差別化をしていました。

そんな中、働いていた会社の経営状況が悪化し、29歳の春に個人事業主としての独立を決めました。

実家である薄井青果の商品である五郎島金時や加賀れんこんを東京のスーパーで”試食販売”の形で売り続けました。基本は私自身が店頭に立ち、お客様に勧め続けたんです。

結局、薄井青果はどこよりも高く野菜を買うことになる。その状況を打開するためには、
自分達のブランドを作らないといけない。お客に気に入っていただき、固定客を作るしかない。当たり前ですが、自分達より条件良くモノを調達できる人たちから横槍を入れられたら絶対に勝機がない状況で、やるしかない状況でした。



― 言い方が悪いかもしれないですが、”泥臭い”けど大切。と言う感じですね

泥臭さもあるかもしれないが、一つ一つ潰していって、全力集中で伝えていく。それを続けていっていただけです。その結果、2年ほどで今のお客さんとの初期の関係が築けていました。

― 売上は何倍くらいになっているのですか?

当時、1億円くらいしか売上がなく、利益もなかった薄井青果ですが、東京への出荷を始めるようになるなど、これまでやっていないこと。周りがやっていないことをやり続けることで10倍以上になっています。

― これからの薄井青果をどんな会社にしていきたいと思っていらっしゃいますか?

日本は人口が減っていくのが目に見えている中で、新しい切り口を創り出していく必要があるな。と感じています。国外に向けての販売チャネルを作っていき、そこに向けて日本からの物だけではなく、海外で生産したものをブランディングして納品していくようなグルーバル産地連携を実現させることでMade by Japaneseを農産物でも生み出していく。そんな稀有なことができる会社にしていければと思っています。

1時間のインタビューは、薄井青果さんが他の仲卸さんと違う動きをしている理由が社長の人生の中での経験から来ているのだな。と強く感じることができる時間でした。薄井さん、お時間をいただきありがとうございました!

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