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「保険仲立人」を日本に広めたい!業界のパイオニアの挑戦|株式会社日本総険 代表取締役社長 葛石 智

1996年4月、法律が施行され、日本で事業が認可された保険仲立人業。保険仲立人制度の日本への導入から力を尽くし、幾多の苦難を乗り越え、2023年8月、保険仲立人業としては初めて、さらに香川県内で約10年ぶりの上場を果たすまでに成長した日本総険。

しかし、創業者であり社長の葛石 智(かっせき さとし)は「上場企業になることがゴールではありません。私達の理想はまだ先にあります。これからも、社員一丸となって挑戦を続けていきます!」と意気込む。

なぜ葛石は保険仲立人業に全身全霊を尽くし続けるのか。
そして、上場した今でもさらなる高みをめざすのか。

その理由に迫る、葛石社長のストーリー。

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[執筆・校正]株式会社ストーリーテラーズ 平澤歩
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■日本にはなかった「保険仲立人」の存在


「保険仲立人という事業が日本で認可されてから今年で28年経ちますが、その存在はまだまだ定着しているとは言えません。

しかし、現代の日本の企業は、災害・事故・損害賠償責任など、日頃からたくさんのリスクを抱えながら経営を行っています。そんな企業の成長や発展を根本から支える、リスクマネジメントのプロフェッショナルが保険仲立人。

保険仲立人は、もっと日本の企業に活用されるべき存在であり、その価値を世間により広めるため、私達は挑戦を続けなくてはなりません

と語る葛石。

そんな葛石の父親は、元々は一般的な保険代理店を経営していたという。

「私は大学時代から、家業を手伝い始めました。
手伝っていた仕事は、主に満期を迎える保険契約の継続手続でした。

継続手続を行うため、お客様の会社やご自宅まで出向いて、
『継続の手続きにやってまいりました』と慣れない中おそるおそる声をかける日々。

あるお菓子屋のお客様のところでは、そのお店の最後の買い物客が帰られるまで、
2時間以上店先で立って待っていた、なんてこともありました。

『あなた、さっきからずっとここに立ってるけど、何をしに来たの?』と店主から声をかけられ、保険の継続手続に来たと言うと、『そうだったの!?それならそうと声をかけてくれれば良かったのに…!』なんて言われながら、中に通されて(笑)。

しかし、申込書や領収証の記入方法、手続の仕方などについて、何も教わっていなかったので、何度も領収証や申込書の書き損じをしながらも、少しずつ学んでいきました」

そのように現場で保険の知識を一つ一つ身につけていき、少し仕事に慣れてきたころ、東京で開催された損害保険会社と保険代理店の集まる会合に参加することになった葛石。

その会合に参加していた大手損害保険会社の社員との出会いが、葛石の運命を変えることとなる。

「アメリカ在住経験のある、とある損保会社の方が参加されており、『アメリカには保険ブローカーという職業がある』と教えてくれました。

日本では聞いたことのない職業。どんなものなのか興味が湧き、詳しく聞いてみると、保険ブローカーは日本の保険代理店とは全く異なる仕事でした。

車は自動車保険、建物は火災保険、と保険を掛ける対象ごとに、個別に保険商品を提案するスタイルなのが日本の保険代理店。代理店手数料は保険会社によって決定されます。

一方、保険ブローカーは、最初に企業全体に潜むリスクを洗い出し、万が一の事故や災害が起きた際に、それらのリスクから企業を守る補償をオーダーメイドで提案するスタイル。そのサービスの提供価格は自分たちで決定することができます。

『保険ブローカーは、保険代理店とは似て非なるもの。保険販売というものは、本来保険ブローカーのようであるべきではないのだろうのか…』

それまで全く知らなかったブローカーという保険の販売スタイルは、その後もずっと私の心の片隅に残り続けていました」

しかし、その後も、日本に保険ブローカー制度は導入されることなく、20年以上が経過。葛石は代理店手数料を自分たちで決めることができない、いわば自分たちのサービス価値を自分たちで決めることのできない代理店のスタイルに、限界を感じるようになっていた。

「日本もアメリカのように、保険ブローカーが活躍できるようにならないものなのか…」

そんな折、当時の橋本内閣の政策の1つに「保険ブローカー制度の導入」が公約として掲げられたのだった。

「ついに、日本でも保険ブローカーが認められるようになるのか…!

企業に潜むリスクを調べ上げ、企業ごとに最適な保険プランを総合的に提案する。そして、そのサービス提供に見合った価格を自分たちで決定することができる。

まさに自分が行いたいと思い続けてきた保険販売のスタイルだ。ブローカー制度が施行されるまでに、ブローカーの仕事について徹底的に勉強し、来たるべき時のために万全の準備をしておこう」

そこで葛石は、保険ブローカーについて知識を身に付けるべく、同じ意志を持つ仲間を集め、ジャパン・インシュランス・ブローカーという会社を設立。アメリカ・イギリス・スイスなど、世界でも大手の保険ブローカー会社が多数存在する国に何度も通い、保険ブローカーについて学んでいった。

さらに、日本での保険仲立人業の法整備に向け、大蔵省の審議委員として尽力。「ブローカー」という言葉にあまりなじみのない日本国内において、その価値が伝わる言い方はないかと考え、「保険仲立人」という業種名にすることなどを提案した。

そして、1996年4月、ついに日本で保険仲立人の事業を認可する法律が施行された。

葛石が保険ブローカーの存在を知ったあの日から、実に約30年が経過した1996年12月。中国・四国地方初の保険仲立人業として、葛石は50歳で株式会社日本総険を創業したのだった。

■全く受け入れられなかった保険仲立人

日本総険創業後、葛石は世界各地での学びを生かし、保険仲立人として、日本に新しい保険サービスを提供していこうと意気込んだが、その壁は想像以上に高かった。

「保険代理店は保険のみを取り扱いますが、保険仲立人はリスクと保険を取り扱う仕事です。

しかし、『リスク』という言葉すら一般的には認識されていない時代だったので、保険代理店と保険仲立人の違いを必死に説明してもなかなか理解されず、お客様から全く受け入れてもらえませんでした

顧客が見つからないまま3年が経ち、ついに資金が底を突きそうになったその時。葛石の必死の努力を見ていた知人の紹介で、火災保険の見直しを検討している企業に契約してもらうことができた。

「倒産寸前まで追い込まれていましたが、この契約によって、なんとか事業を続けることができました。人とのご縁に救われましたし、正直私は運が良かったと思います」

その後、家族経営だった状態から新卒や中途社員を採用して組織を強化し、東京でも新規のお客様獲得に向けた営業を行うなど、四国にとどまらず全国に保険仲立人のサービスを届けるべく努力を重ねた結果、ついに2023年8月上場を果たすまでに成長した。

「ここまでの道のり、数え切れないほどの壁や試練がありました。もう事業を続けられないと追い詰められた時もありました。

それでも、保険仲立人の事業を諦めなかったのは、『保険仲立人業は絶対に日本に必要な存在だ』という揺るぎない信念があったからです。

企業には様々なリスクが存在しています。しかし、自社に果たしてどのようなリスクが潜んでいるのか、もし災害や事故が発生した時にどの程度の補償が必要なのか、自分たちで判断するのは難しいもの。

だからといって、全てのリスクに保険をかけることは、莫大な保険料が発生するため、現実的に不可能です。

そのような企業のリスクマネジメントにおける課題を解決し、安心して事業を行うことができるようにサポートするために、保険仲立人の存在が必要なのです」

■日本に保険仲立人を広めるため、挑戦を続ける

2023年8月には保険仲立人業としては初めての上場を果たし、保険仲立人業のパイオニアとして走り続ける日本総険。しかし、その挑戦はまだまだ道半ば。

創業から28年が経ちましたが、保険仲立人の存在は日本でまだまだ定着しているとは言い難い状況です。しかし、災害や損害賠償など、備えるべきリスクがますます増えている日本において、保険仲立人はもっと当たり前の存在へと広く知れ渡る必要があります。

当社は歴史を重ね、組織も整ってはきましたが、完成形ではありません。基盤はありながら、様々なことにチャレンジできる、今まさに会社として面白い局面に入っています」

そう希望に満ちた笑顔で語る葛石。日本総険のこれからの飛躍がますます楽しみだ。




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