『100BLG』立ち上げメンバーである前田隆行、徳田雄人、猿渡進平、河野禎之、平田知弘が一堂に会し、『100BLG』の発足についてそれぞれの想いを語りました。
— この回では、猿渡が認知症をめぐる介護の世界に入ったきっかけのお話を中心にお伝えしていきます。
猿渡進平
- 『100BLG』の大応援団長
- 医療法人静光園白川病院 医療連携室長
1980年福岡県大牟田市生まれ。日本福祉大学大学院卒。
同居の祖母が認知症になったことが理由で福祉の道に進む。2002年 医療法人静光園 白川病院に入社。その後大牟田市地域包括支援センター、厚生労働省社会・援護局の出向などを経て現職。
猿渡 僕は福岡県大牟田市の出身です。今日も大牟田からやって来ました。
高校生のとき、大好きな祖母に認知症状が現れました。僕の家族は両親と兄と、父方の祖母と僕の5人でした。僕と兄は学生だったし、父は仕事があるので、母がひとりで祖母を看なければいけない状態だったんです。祖母の状態もだんだん悪くなっていき、家族内や近所間でのトラブルが出現してきました。物忘れやら被害妄想ですね。1997年当時は介護保険のサービスもないようなときなので、母はたったひとりで対応していました。また、近くのディサービスへの通所を勧められたのですが「行きたくない」と拒んでいました。 そのうちに母が病気になって入院してしまったんです。それで祖母も、やむなく施設に入らざるを得なくなりました。
僕は祖母のところに定期的に面会に行きましたが、だんだんと僕の名前もわからなくなりました。だけど、帰ろうとすると「わたしも帰る」って洗面器に歯ブラシやコップを入れてついてくるんですよね。祖母だけじゃない、入所してる多くのおじいちゃんおばあちゃんもです。廊下を歩いてエレベーターホールまでついて来てみんな寂しそうにしているわけです。あっけにとられる、というんでしょうか。認知症ってこういうことか、と実感した瞬間でした。
祖母は、その後、病気があれば病院に行き、そして身体の状態に合わせて幾つかの施設を巡り、最終的には施設で亡くなりました。
数十年住んできた家に帰りたかった祖母。帰らせたかった家族。
「そうせねばならない」という現実があったんですが、そのすべてが家族の誰もが望んでいない方向にあったんですよね。僕は祖母と一緒に暮らしたかった。たったひとりで祖母を看た母も、状況が違っていたら、体調を壊さずにいれたかもしれない。 こういう原体験があって、僕はいまこの世界にいます。