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創業の想いと日本教育設計について

心臓病の少年との出会いから始まりました

 いわゆる〝夜の街〟でアルバイトをしながら、26歳まで司法浪人を続けましたが挫折。それが周囲の笑い物になっているような気がして、いたたまれず故郷を逃げ出し、縁もゆかりもない群馬の地で大手進学塾に就職しました。僕は基本的に、逃げてばかりのダメ人間です。笑

 そんな自分が就職先に塾を選んだのは、かつて「教育で人は変わる」喜びを経験していたからです。高1のころ、近所のとある小学生の家庭教師を頼まれたのですが、その子は心臓病を患っており、気も弱く、20歳まで生きられないかもしれないとお医者さんから言われていたそうです。ふさぎこみがちな我が子を心配した母親が、「せめて話し相手に…」と僕と引き合わせてくれました。

 勉強もそれなりに教えましたが、くだらない日常のこと、女の子のこと、ちょっと悪い遊びのこと…まともな学校や塾なら大問題になりそうな話題もたくさん語り合いました。それはお世辞にも上品な「教育」とは言えませんでしたが、そこには血の通った真実がたくさんありました。「臭いものに蓋をしない」―それこそが自分の教育の原点で、その姿勢は40歳を過ぎた今も変わりません。やがてその少年は奇跡的に回復し、明るく元気になったうえに父親の中古車販売会社に就職して精力的に働き、2017年に32歳に急逝するまでは僕の車を探してくれたり車検に出してくれたり、血はつながっていませんでしたが本当の弟のように「アニキアニキ!」と慕ってくれていました。この子との出会いを通じて、僕は「人の成長の手助けをする」という教育の純粋な楽しさに気付きました。

売上だけに追われない塾を作りたい

 しかし、最初に就職した塾は、いわゆる軍隊式で売り上げ至上主義。僕自身は常にトップクラスの成果を出していましたが、どんなに必死に働いても違和感をぬぐえませんでした。後に転職した塾もそれは同じで、他の社員たちがどこか、生徒ではなくて会社のほうを向いて仕事をしているように感じました。子供たちには「生きる力」だ、「夢を持て」だと言いながら、当の先生たちが仕事、ひいては人生を楽しんでいるようには到底見えませんでした。
 「この人たちは、誰のために、何のために塾で働いているのだろう」。そう思ったときに初めて、自分の頭の中に「独立」の二文字が浮かんだように思います。そこで、開業するに当たって重視したのは「みんなが幸せになれる」塾。過剰な営利に走らない塾。教育が売上至上主義の犠牲にならないよう、事業を多角展開してリスクを分散し、子どもだけでなく社員も含めて、誰もが塾を「楽しめる」ようにしたい。この想いは創業して10年が経ちますが今も変わらず、社員も学生講師も生徒たちも、みんなで笑いながら仕事しています。

これまでもこれからも、僕たちが目指すところ

 無理な入塾は迫らない。売上のための追加講座は勧めない。その子のためと心から思ったら転塾・退塾を勧める。不思議なもので、そうすればするほど生徒は増えたし、生徒たちの成績も上がり、何よりみんなの笑顔が増えました。一番最初の塾であるWinStar個別ONEは特にその理念が色濃く残っていて、塾生同士も結束が強くて小学生から高校生まで、まるで家族のような関係性の子達が多いです。個別指導塾では珍しいなぁと自分でも思います。 こんな風に笑顔があふれた塾をもっともっと増やしたい。悩んだり、辛い思いをしてる子たちの心の拠り所になれるような、地域に根差したサードプレイスのような教室をどんどん増やしたい。そんな自分の次なる目標としては、塾でありながらも教育を通じた地域サロンのような場を作っていけたらと考えています。

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