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【プロジェクト紹介】「千年に一度の大災害、ここで何かやらないと絶対に後悔する」〜我々がやるべきだと思うからそれをやる〜

2011年3月11日、東北地方を巨大地震が襲った。とはいえ環境機器は関西にあるため、その被害状況については今ひとつ実感がなかった。ところが3月末、社長の片山が現地の惨状を実際に視察して考えが変わる。できることがあるなら、絶対に何かやらなければならない。全国からボランティアが集まり活動が開始されていた。この善意による活動を結果に着実につなぐためには仕組みが必要であり、その仕組みづくりは環境機器の最も得意とするところだ。それから半年あまりの間に、社業の傍ら8人の社員が延べ約250人・日も現地入りし、ボランティア活動にあたった。

被災地を自分の目で見て、決めた覚悟

ー 2011年3月 ー

震災直後にNICCO(公益社団法人 日本国際民間協力会)が、現地調査に入った。京都に本部を置くNICCOは主に国際協力を行うNGOであり、社長の片山が副理事長を務めている。現地調査の結果、未曾有の大災害を前に明らかになったのは圧倒的な人手不足であり、NICCOはまず民間病院や診療所の支援を始めた。このとき、NICCOスタッフとして現地入りしていた薬剤師が、後に環境機器に入社する武津一輔である。

3月下旬になって、NICCO副理事長として片山も現地に向かった。ただそのときは「援助団体であるNICCOとしては支援するものの、一民間企業である環境機器がやれる余地などないだろう」位の認識しかなかったという。

ところが大津波に襲われた現地の状況を目の当たりにして考えが変わる。「やれることがないどころではない。すぐにでもやらなければならない活動に、支援の手が回っていないのが実態。困っている多くの被災者が目の前にいる。ここですぐに動かなければ、一生後悔する。」

視察から戻った段階で、会社としても全力で取り組む方針が決まった。



仕組みをつくり1000人に炊き出しを提供

ー 4月上旬 ー

視察に入った片山の目に喫緊の課題と映ったのは、現地の食糧事情だった。自衛隊の支援により、おにぎりと味噌汁あるいはパンなどの主食は提供されていたものの、バランスの取れたおかずの供給にまではほとんど手が回っていなかった。こうした栄養の偏りを解決するべく、立ち上げられたのが『炊き出しプロジェクト』である。

国と援助団体が作り上げた補助金の仕組みを使えば、必要な資金は調達できる。そして資金があれば、気仙沼市の市民会館などに避難していた約1000人に副食材を提供する仕組みをつくって回すことが可能。この枠組みを使って環境機器が立ち上げたのがこのプロジェクトであり、立ち上げ要員として指名されたのが田之江崇文だった。

もとより環境機器に炊き出しのノウハウなどあるはずもない。けれども「必要なのは仕組みをつくることであり、田之江なら何とかするだろうと思った。だから本来なら海外出張に出てもらう予定を変更し、急遽現地に行ってもらった」(片山)

田之江は普段から社内で“無茶振り要員”として認められていた。社内Wi-Fiの不調からコピー機の故障まで、何でも困ったことがあれば田之江が何とかしてくれる。そう自他ともに認められていた田之江は現地入りすると直ちに、炊き出しプロジェクトを実現するために必要な人とモノの調達に取りかかった。

「一つひとつ考えていけば、それほど難しいことではありません。料理を作るのだから調理してくれる人が必要、料理ができればそれを運ぶ人もいる。1000人分の料理をつくるとなれば、調理器具も人数に見合ったものが要るでしょう。あとは材料をきちんと調達できればいいわけです」(田之江)

調理人はすぐに見つかった。店を流されてしまった調理人が避難所にいたのを、口コミで探しあてたのだ。彼らも「じっとしているだけでなく、なにか役に立つことをやりたい」という想いを強く持っていた。鉄板や寸胴鍋を手配し、材料調達のルートを確立する。配膳のボランティアは当時NICCO職員であった武津とも協力しながら集めた。

環境機器からも亀本、藤井が週替りで応援に駆けつけ、炊き出しボランティアは順調に回り始めた。ところがしばらくして状況が変化し、調理の場として市民会館を使えなくなることが決まった。これを聞いた田之江は、再びすぐに行動を開始する。

「必要なのは機材と場所です。それならコンテナを使えば何とかできると思いました。震災直後、ボランティアのラーメン屋さんがコンテナキッチンで移動店舗を出しているのを見たことを思い出したのです。そのラーメン屋さんを探しだし、コンテナキッチンを作ったところを聞き出すと、京都の料理学校でした。そこで我々も頼んで特注のコンテナキッチンを作ってもらったのです。」

炊き出しプロジェクトは2週間程度で実働に入り、7月までに提供した温かな食事は、のべ70000食を超えた。炊き出しプロジェクトには、京都の料理人たちも賛同し、有名な料理人が何人も現地入りしてくれている。



防疫作業はプロにしかできない仕事

ー 4月下旬 ー

炊き出しプロジェクトが回り始めると片山から全社員に声がかけられ「休日返上でボランティアに行きたいやつ」が募集された。これに手を上げ派遣された社員の中に、虫を専門にする菅野格朗がいた。彼はゴールデンウィークに気仙沼、陸前高田、大船渡を回った。菅野がそこで目にしたのは、一種異様な光景だった。海岸沿いにあった水産加工工場が建物ごと津波に流され、貯蔵していた魚が町中に散乱していたのだ。菅野から、気温が上がって魚が腐敗してきており、耐えがたい悪臭と共に害虫の大発生の兆候が出ている、早急に動く必要があるとの報告がなされた。

ー 5月上旬 ー

菅野に続いて、害虫の専門家として川端健人が派遣された。5月に入って気温が上昇すると、懸念されていた事態が大きな問題となりつつあった。菅野が予告していた、ハエの大量発生である。あちこちに放置された魚が気温の上昇とともに腐敗し始め、そこにハエが卵を産みつけ、大量発生の温床となりだしたのだ。こうした問題、すなわち害虫の発生監視と駆除作業、いわゆるペストコントロールを担えるのは、専門の知識と機材をもつプロだけである。

環境機器が得意とするのは、問題を見つけて、それを解決する仕組みをつくって動かすことだ。「そこでまず日本ペストコントロール協会の会長や技術顧問らと一緒に現地に入って状況を視察し、問題点を共有。害虫駆除業界として何をできるのかを協議し、会員企業に防疫作業を依頼するプロジェクトを考えた。」(片山)

ハエの大量発生は、現地の自治体としても見過ごせない問題となっていた。現地に入っていた自衛隊が一部で駆除活動を行っていたけれども、彼らは虫の専門家ではない。政府も対策の必要性は認識していたものの、大災害後の広域にわたる害虫の問題に対してどう対処すれば良いのかわからない状態だったのだ。

そこで環境機器が裏方となって立ち上げられたのが、NICCOと日本ペストコントロール協会による共同プロジェクトである。プロジェクトの資金についてはNICCOが国から手当し、協会が全国の会員を動員して防疫作業にあたる。このスキームを組み上げたのは片山であり、現地で采配を振るったのが菅野格朗、川端健人、石川善大だ。

川端は、活動当初の最大の問題を自治体との交渉だったと振り返る。

「ハエの大量発生など前代未聞の出来事であり、市役所としても対応部署さえわかっていませんでした。そこで我々が駆除に当たると話に行ったものの、話が旨すぎて後から巨額の費用請求でもされたらどうしようと二の足を踏んでいる状態です。それも無理はない話ですが、とにかくことは急を要するのです。現地を回り、ハエが発生している状態を写真に収めて問題を指摘すると、とりあえず大船渡市が最初に手をあげてくれました。」

大船渡市がやったのであれば安心して任せられる。そんな話が伝わり、陸前高田、気仙沼等へと活動領域が広がっていった。やがて環境省から「ハエに困ったときは日本ペストコントロール協会に依頼するように。」とのお墨付きも出た。



自分たちにしかできない課題に、仕組みをつくって取り組む

ハエの駆除作業は、最終的に協会から延べ6000人・日を超える専門家の派遣を受け、東北の沿岸部400キロをカバーする大規模な事業となった。協会会員は害虫駆除についての専門家だが、被災地での防疫作業は初めての経験となる。そこで課題となるのは、現地作業での安全確保だ。瓦礫や倒壊した建物の釘などが散乱する場所で、万が一にもケガなどすることがないように、周到な作業マニュアルが用意された。

「当社からは常に3人ぐらいが現地にはりつき、当社にとっての顧客でもある協会員の作業をサポートしました。専門家が毎週50人ぐらい現地入りしてくれましたが、作業中に事故が起こったり誰かがケガをするようなことは、一切ありませんでした。」と、菅野は当時を振り返る。

ー 8月 ー

現地の状況は海外からも関心を集めていた。やがて防疫作業が順調に回り始めた8月には、海外からの専門家の視察も受け入れられるようになった。後に、この視察をきっかけに、「大規模災害後の害虫駆除広域活動」の様子は海外の学会での発表、更には専門家の論文にもまとめられるに至った。

ー 10月 ー

先進国における大災害後の防疫事業は、世界でも前例のないプロジェクトとなった。この経験を広く知ってもらうために、アメリカでの学会発表を無茶振りされたのが、前年に博士号取得後に入社したばかりの石川であった。「それまで海外経験さえなかったのに、いきなり初めて海外に行き、しかも初めての英語での発表でした。なんとか発表はこなしたものの、質問には全く答えられず、同行した社長に助けてもらいました。」と思い出を語る。

このペストコントロールに関するボランティア経験は、翌2012年のタイでの水害支援や2018年の岡山の台風による水害支援などにも生かされている。いずれも東北での経験を生かし、NICCOと連携して現地の害虫駆除協会と協力して活動に当たるというスキームで成果を出すことができた。



現在の活動、今後の展望

2021年現在、環境機器ではケニアでの除虫菊生産プロジェクトを企画している。途上国支援は片山がもともと取り組みたいと考えていたテーマである。現地で天然殺虫剤の原料となる除虫菊を農民に栽培して貰い、それを買い取って所得向上の糧とする。さらに加工した除虫菊を当社の技術とネットワークを駆使して商品販売に繋げようと言うものだ。単なる寄付や援助ではなくて、ビジネスの仕組みを活用して貧しい途上国の人々の生活を支える、これが実現すれば活動を継続できる。専門性を生かして仕組みを作り、プロジェクトを動かしていく。ケニアの農園についても、環境機器の得意なスタイルでの活動が始まっている。

「我々にできるのは総合プロデューサー的な活動。商品を作ってそれを売って利益が出れば、貧しい現地に再投資していく。そうした仕組みをつくるのが得意な当社にとっても、ケニアプロジェクトは規模が大きく、場所も日本から離れているためチャレンジングな取り組みとなる。それでも専門性を持つ我々がやるべきと思うからそれをやる。損得は考えない。それが当社のスタンス。」と片山は語った。



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