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大手とベンチャー企業を交互に渡り歩いてきたクライアント開発リーダーが語る、「エンジニアがお客様に接することが大切な理由」

須山さんが松下電器に入社したのは遡ること28年前、1992年のこと。半導体のプロセス研究開発やパソコンのソフトウェア開発に従事し、7年半務めた同社からベンチャー企業に転職。その時、29歳だった。

須山さんがソフトの企画段階から製品化まで手掛けたセキュリティソフトが多くのユーザーに支持される大ヒット製品に。情報処理推進機構(IPA)が優秀なソフトウェアプロダクツを表彰するソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤーで最優秀賞を受賞した。その後、2015年には大手印刷会社にM&Aされ、100%子会社になった。お世話になった先輩たちはみんな去って行ったが、須山さんだけが残留した。そして専務取締役、営業・サポート担当役員を歴任。開発畑にいたい気持ちが強かったが、それとは裏腹に営業やサポートの担当を任されることになる。

当時を振り返ると、
「営業・サポート担当役員という肩書きってよくわからないでしょ。ここに来るまで、京都から東京への出張の量がすごかったですよ。あまりいい扱いをされないで、いつもやめてやろうと思っていました。顧客に直接ものを言われるのは本当にこたえましたけど、営業としてサポートとしてお客様と直接コミュニケーションを取る経験ができたことは大きかったです。そこに本当にニーズがあるんだ、と。
今でこそテレワーク(在宅勤務)が当たり前になりましたが、オフィスのデスクの前に座っているだけではわからないことがたくさんある。それも振り返ると、新卒で入った松下電器でも似たような体験があったんですよね。」

前編では、須山さんの生い立ちについて迫ります。

中学時代に触れたプログラミングが、1人の少年の世界を広げた

私の父もエンジニアでした。扱うものは工場で使われる製造機器でしたからもっと物理的でメカニカルな機械。Theものづくりって感じです。ビデオゲームはとにかく好きでした。開発者である父の影響を受けたかと言われると微妙ですが、ビデオゲームやっているうちに自分でもプログラムを作りたくなり、その道に進むことになりました。ただ、勉強の支障になるとゲーム機を買ってもらえなくなり、中高とあまりゲームをしていませんね。

中学生になった時、うまくプログラムすれば自分の思い通りに動作できることが大変面白く感じてプログラミングにはまりました。同時に、自然科学の勉強が面白くてたまらず、それこそ”自然”と理系に進む気持ちが固まりました。

エンジニアを目指したきっかけというと、いろんな機会があってだから一概に言えないけれど、あえていうならこれでしょうか。先にいったような比較的早くからのプログラミングへの強い好奇心、興味で自分もそのようなものを作ってみたいと考えるようになったことです。ぼんやりのイメージが触ってみると実際にできるんだ、と。

さかのぼること26年前、技術職として松下電器に就職した私は富山県の砺波(となみ)というところにある工場と京都を、毎週往復していました。

半導体は花形だった


「半導体」って聞いたことはあるでしょうけど、イメージつきますか? あれ、意外と泥臭いんです。水と空気がきれいなところでないといいモノはつくれないから(まあ実際は、土地代が安いことが第一でしょうけど)、富山だったり長野とかに大きな工場を作るんですよね。

1、ファイルを書く(ソフトウェア)
2、実際に作る人(ハードウェア)

と定義すると、私は2から1に移ったんです。先にも言ったように元々ソフトウェアの開発者やりたかったんです。それは別として、半導体って精密機器なので、実際作るのにどうしても最低2週間、長くて1ヶ月はかかります。ですが、ソフトは本当にやろうと思ったら一人で数日(1週間)でできる。その仕組みに憧れはありましたよ。いつかは携わりたいと思っていたんですよね。

ソフトウェアってハードウェアに比べて特別右肩上がりではないけど「常に安定している」印象でした。今は当然主流、トレンドですけど。ソフトウェアの方は極論するとプログラムをかければ、1人でどうにかできる。それが魅力でした。現在でもエンジニアのキャリアを歩んでいるのは、あまり驚きはないかもしれません。

バブルの恩恵を受けた「最後の世代」


就職に困らなかったんです。だって面接に行くだけで1万円がもらえた時代でしたから。これは関西の話で、関東(東京)の企業なら往復で3〜4万円を「はい交通費」って包んで渡されたんですよ(笑)。今じゃ考えられないですよね。いろいろ悩んだ末、結局、松下電器に入りました。
僕の世代までは新入社員が2200人。それでバブルがはじけて、翌年はの新入社員は500人。露骨というか、そんなに変わるのか、と。よく覚えていることといえば創業者の理念を浸透させるために社歌斉唱は毎朝、就業前に必ずでした。私が入社した時は幸之助さんが亡くなって数年で、「戦争中、経営も難しいくらいお金がなかったけど社員の給料を上げた」って逸話がありました。どこまで本当かはわからないけど。

そこでよかったこと…今思えば大きい企業だから、ということありますけど、コンピュータが爆発的に広まる90年代中盤に、いろんな技術やシステムに触れられたことが大きかったかな。



新卒で入社した松下電器の思い出


私は研究職で京都にいました。先にも言ったように全国に何箇所か工場があって、中でも私は富山にある砺波(となみ)というところに1年半通いました。文字通り、月曜日の朝に行って金曜日の夜に帰ってくるんです。当時新幹線は通ってなかったですので、特急列車のサンダーバード号に乗って、毎週毎週、2時間半列車に揺られていました。中には駐在する者もいましたが、私は京都と富山の往復で年200泊するんですよ。後にも先にも、こんな経験ないでしょうね。

いつも特急に乗る時にはウォークマンのMDに入れた音楽をずっと聴いてましたね。その時に人気だったポップスのCDを何枚分か入れてね、それをずっと繰り返し聴いてました。でも、何を聴いてたかって聞かれると、あんまり思い出せないですね。今みたいにネットはないでしょ。あと、そんな極端に本を読む方でもなかったから、今思えば音楽を聴いた以外何をしていたんだろう? 唯一覚えているのは、そのホテルから電車で15分乗って行った高岡という街で映画をみることでした。それ以外、本当に何をしていたんだろう?(笑) 

仮に本社(本部)にいる奴をエリートだとすると、本社の方が工場の人たちに「えばる」構図って思い浮かびませんか? よくドラマとかでもあるじゃないですか。警察モノの「キャリア組」とか。でも私が関わった現場は反対で、本部組が工場の方に気を使わなくちゃいけないんです。現場の方々に動いてもらえないと困るから。なぜか僕も最初はいい気になっていましたが、そこで学んだこと、今でも覚えているのは(人を動かすというとたいそうな聞こえですけれど)人間関係を円滑にして、現場で手を動かしてくれる職人さんたちに本部の要望(意見や製品企画)を理解してもらうことでした。それが25〜6年前だから、1994年のことですね。

でも確実に言えることは、そこに1年半の時間を費やしたことは後悔全くないです。むしろ、現在の糧になっていると思っています。少なくとも自分の業務はまっとうしてやろうと、必死だった気がする。

綺麗事を言いますと、すごいものを開発したというよりも、その多感な時期に、気難しい大人相手に「人間関係を構築する」ことを学びましたね。


後編では、インヴェンティットとの出会い、ジョイン後について触れていく。

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