今回は、2016年4月にビジネス職として新卒入社し、現在は、株式会社ビズリーチのビズリーチ事業部所属の竹祐亮さんに「パーソナルヒストリーインタビュー」を行いました。半生を振り返りながら、竹さんが大切にしている価値観や信条に迫りました。
※このストーリーは、2020年9月8日に、企業ブログ「ALL VISIONAL」で公開した記事を転載したものです。
※このストーリーの掲載写真は、在宅勤務への移行前に撮影したものです。
プロフィール
竹 祐亮/Take Yusuke
鹿児島県姶良市出身。首都大学東京都市教養学部法学系を卒業後、2016年4月に新卒で株式会社ビズリーチに入社。キャリトレ事業部の営業担当を経て、2018年8月に福岡オフィスに配属。現在は、支社長として、九州全域の新規顧客開拓や既契約企業様の採用成功支援におけるマネジメント業務に従事。
「脇役」としての自分を受け入れていた野球部時代。
──今回は、竹さんのこれまでの人生を遡りながらお話を聞かせていただきます!
よろしくお願いします!
──まず、幼少期や学生時代のお話から聞かせてください。
鹿児島で生まれて、3兄弟の長男として育ちました。鹿児島の中でも都市部から離れた田舎の町だったので、僕が小さかった頃はボーリング場も映画館もなくて。娯楽と言えば、公園で野球やサッカーをしたり、近所の駄菓子屋に行くくらいでしたね。
父親は地元の商社で都市開発に携わる仕事をしていて、平日も休日も仕事で大忙しでした。また、母は3人の子どもを育てながら自宅でピアノ教室を開いていました。母も忙しかったので、「僕が代わりに妹と弟の面倒を見なければいけない」という意識を子どもながらに持っていました。妹が4つ下、弟が7つ下と歳が離れていたので、余計にそう感じていたのかもしれません。
──小さい頃は、お父さんの都市開発の仕事をどのように見ていましたか?
僕が小学6年生の頃に、家から電車で30分くらいの町で駅ビル周辺の都市開発が行われて、それが父が携わっていたプロジェクトだったんです。映画館などの娯楽施設ができたり、その駅ビルを中心として、次々と新しいお店がオープンしていきました。僕自身も、電車でその街に出かけるようになり、生活や遊び方が大きく変わっていく経験をしました。
その時、父の仕事は、この町に住む人々の生活における選択肢を増やしたり、可能性を広げているんだなと感じました。それまでは父がどのような仕事をしているか大して興味を持っていなかったのですが、その時から、父を尊敬するようになりましたね。
──学生時代、何か打ち込んでいたことはありましたか?
小学4年生から高校までは、ずっと野球に打ち込んでいました。
もともと野球を好きになったのも父の影響でした。父が野球経験者だったので、家のテレビではずっと野球中継が流れていましたね。その流れで少年野球のチームに入り、中学からは野球部に入部しました。
僕が入学した中学はもともと強豪校と言われるような学校ではなかったのですが、たまたま僕たちの代に強い選手がそろっていて、本気で全国大会を目指していました。
──野球に打ち込んでいた時のことを、今から振り返ってみていかがですか?
チームにおいては、4番バッターやエースピッチャーなど、勝負の結果を左右する花形となる役割があると思っていて、そうしたポジションを担う「主役」のメンバーがいる一方で、僕は自分のことを「脇役」だと思っていました。当時の僕のポジションは外野やセカンドで、「チームのためにエラーをしてはいけない」というプレッシャーとずっと闘っていました。
野球はチームのスポーツなので、4番やピッチャーだけでは試合を運ぶことはできませんし、勝つこともできません。誰かがチャンスを作ったり、失点を抑えたりするからこそ、はじめてチームとして勝つことができるスポーツだと思っています。そのことを分かっていたからこそ、僕は与えられた役割を全うすることに集中できていたのだと思います。
──当時は、自分が「主役」になりたいという想いはなかったのでしょうか?
特にありませんでしたね。僕は、昔から「自分は主役ではない」という意識をどこかで持っていたので。もしかしたら、小さい頃から妹や弟の世話をしてきたことも影響しているのかもしれません。
「脇役」を綺麗に言い換えれば、「チームを裏から支える」役割ということになるのかもしれませんね。自分は主役ではない、自分だけが物語の登場人物ではないからこそ、周りの人たちとどう連携していくべきか、時には、自分が動いて欲しいように周りの人たちに動いてもらうために、まずは自分が何をすべきかを考えていました。そういうスタンスでいたからこそ、自責の念、つまり、「あらゆる物事において自分で責任を持つ」と考えるようになり、それは今でも自分の大切な価値観になっています。
もちろん、「主役ではない自分」を引き受け続けることが苦しくなることもあって、野球を続けるか悩んだこともありました。ただやはり、このスポーツや一緒にやっている仲間がどうしても好きだったからこそ、高校を卒業するまで続けていました。
いろいろなことに挑戦した大学時代。
写真は、イギリス留学中に、ロックフェスに行った時の1枚。
初めて主体的に挑戦したからこそ、味わうことができた悔しさ。
──大学時代は、どのように過ごしていたのでしょうか?
高校卒業後、東京の大学に進学して、はじめは大学でも野球を続けながら、サークルやアルバイトなども始めようと思っていました。ただ、ずっと過ごしてきた鹿児島を出て、初めて東京に引っ越したことで環境が大きく変わり、野球以外の新しい選択肢が見えてきて。その時、周りの人たちはいろいろな経験をしていること、一方で自分は野球しか経験してこなかったことに気付いたんです。
大好きな野球を続けないということに葛藤はありましたが、大学では、もっと広い世界を見て、今しかできないことをたくさん体験してみようと思い、いろいろなサークルに参加するようになりました。
──その中でも、特に打ち込んだサークルはありましたか?
大学内のイベントを企画するサークルです。入学当初はいろいろなサークルに顔を出してみましたが、最終的に続けたのがこのサークルでした。「イベントを通して、自分たちの力で大学生活をより良いものにしていこう」という熱量に満ちていたサークルで、誰かと目標を共有して、苦楽を共にするのが好きな自分に合っていたんだと思います。
──「楽しい時間を共にする」ではなく「苦楽を共にする」という言葉が、とても竹さんらしいですね。
結局人生の大半は苦しみだし、だからこそ、その反動で楽しみを深く感じられるのだと思っているので。
──イベント企画サークルにおける「苦しみ」とは、どのようなものだったのでしょうか?
大学1年生の時、学園祭とは別で、大学の生徒が一同に会するような大規模イベントを企画しました。各サークル対抗のオールスター感謝祭のようなイベントで、1,000人の集客目標を立てて、当日に向けて準備を始めました。
ただ、当日の来客数は結局、200名弱。その時は、とても大きなショックを受け、自暴自棄になったことを覚えています。イベント企画サークル内にもどんよりとしたムードが漂っていましたが、それでも、次の日から翌年に向けて企画の練り直しを始めていました。
──その時、次の年へ向けたモチベーションはどこから生まれていたのでしょうか?
本気になって取り組んだにもかかわらず、結果がでなかったからこそ、あの時の僕たちは、心から悔しいと思うことができたんですよね。
野球部時代を振り返ってみると、先ほどもお話ししたように、自分は「脇役」であるという意識がありました。それが悪いほうに転じて、たとえ負けてしまったとしても、どこかでも自分のせいではないと思い込んでいた弱い自分がいました。
でも、イベントを企画した時は、仲間たちと一緒に全力で真正面から勝負を挑んで、負けた。だからこそ、とても悔しかった。心の底から悔しいと思うことができたんです。
──そこから、次の年に向けてどのように企画を立て直していったのでしょうか?
ただ「来て欲しい」とお願いしても、人は何かしらのインセンティブがないと動かないことを知ったので、参加してくれた人数の多いサークルが有利になるようなルールを設計したり、優勝賞品を考え直したり、いろいろな施策を考えては実行に移していきました。同じ目標のために、仲間たちとアイデアを出し合い、一つずつ形にしていく過程は、今から振り返ってもとても楽しかったですね。
そして迎えた2年目、残念ながら目標の集客人数には届かなかったのですが、前年の3倍にあたる約600名の学生に参加してもらえました。何より、一つずつの施策が思い描いたようにワークしたことがとても嬉しくて、達成感も大きかったですね。
──その他に、大学時代に打ち込んでいたことはありましたか?
大学3年生の時に、8ヶ月間、イギリスへ留学しました。英語を学ぶ目的の留学だったのですが、数ある国の中からイギリスを選んだのは、ずっとビートルズの音楽が好きだったからです。
──イギリスに行ってみて、どのような気付きや発見がありましたか?
鹿児島から東京へ引っ越した時も同じことを感じたのですが、僕は、田舎から遠く離れた東京やイギリスのことを美化しすぎていたのだと思いました。もちろん、東京もイギリスも、鹿児島にはない文化や生活習慣があって、はじめはそれらが新鮮に映ります。ただ同時に、その環境に飛び込めばすぐに慣れてしまうものなんですよね。
僕は自分のことを「田舎者」だと決めつけていて、東京やイギリスといった憧れの場所に対して一種のコンプレックスを持っていました。ただ、そうした憧れのために、無理して自分を変える必要はないことに気付きました。むしろ、変わらない自分のまま、新しい環境に挑戦していけることを知り、グッと視界が開けた気がしましたね。「田舎者」というコンプレックスを、あの時に解消できたのだと思います。
イギリス留学だけでなく、様々な国へ旅行に行った大学時代。
写真は、チェコのプラハを訪れた時の1枚。
──留学後に就職活動を始めた時、はじめはどのような業界に興味を持っていたのでしょうか?
小さい頃から父の都市開発の仕事を見てきたので、はじめはデペロッパー業界を中心に調べていました。ただ、OB/OG訪問でいろいろな方からお話を聞くなかで、少しずつ考えが変わってきました。
デベロッパーの仕事は、開発地の周辺に住む人々の生活を変えることはできるけれど、その影響を与えられる範囲は限定的だなと感じたんです。逆に、インターネットを活用したビジネスであれば、より広範囲の人たちに影響を与えられるのかもしれない。そう考えていた時、たまたまイベント企画サークルの先輩にビズリーチのことを教えてもらって、詳しい話を聞きに行きました。
その時、当時のビズリーチが掲げていた「インターネットの力で、世の中の選択肢と可能性を広げていく」というミッションを知りました。僕自身、鹿児島から東京に出てきて、また、イギリスに留学に行って、自分の人生における選択肢と可能性が広がってきた経験があったので、このミッションを聞いてとても共感しました。そして、ビズリーチについて調べるなかで、インターネットの力を活用して様々な事業を展開している企業であることを知り、この会社への入社を決めました。
支社長として、福岡オフィスの更なる成長を目指す。
──入社当時のことで印象に残っているエピソードはありますか?
入社直後、同期の仲間たちと比べて、自分の能力の至らなさを痛感する出来事が多々ありました。例えば、新卒研修における営業のロールプレイング試験を、いつまで経っても合格できない日々が続いて。先のカリキュラムに進んでいる同期たちとの距離がどんどん開いていくことに焦りと悔しさを感じました。ただ、至らない自分を素直に認められるようになってからは、やるべきことを誰よりもコツコツ積み重ねていくことに集中できましたね。
──竹さんは、その研修を経てキャリトレ事業部へ配属されましたよね。
はい、事業部に配属されてからも、何度も何度も壁にぶつかってきました。それでも、コツコツと努力を積み重ねていけば必ず報われると、チームの仲間や上司が教えてくれました。
──その後、竹さんは、福岡オフィスへ異動となりました。異動が決まった時のことを覚えていますか?
その時は、初めてのビズリーチ事業、初めての福岡オフィス、そして初めてのマネジメントというように、3つの「初めて」が重なって、正直不安な気持ちが大きかったです。本当に(当時)新卒3年目の自分に成し遂げられるのだろうか、と。
ただ、ここで僕が「新卒入社の年次が浅い社員であっても、バリューを発揮することができる」と証明できなかったら、僕の後に続く新卒入社の後輩たちのキャリアの可能性を閉ざしてしまうかもしれないと思いました。特に、マネジメントを担当することについてはプレッシャーを感じていましたが、後輩たちのためにも必ずやってやろうと思いました。
もちろん、はじめは右も左も分からないことだらけでしたが、一緒に働く仲間たちそれぞれの得意領域を理解してからは、一人一人の強みを活かせるよう役割分担をして、少しずつチームとして機能していくようになったと思っています。
福岡オフィスに着任した頃、業務時間後に仲間と談笑していた時の写真。
──現在、竹さんは福岡オフィスの支社長を務められていますよね。マネジメントという仕事を、竹さんはどのように捉えているのでしょうか?
まだまだ至らないことも多いのですがが、マネジメントの仕事は自分に合っていると感じています。それは、野球部時代から、あくまで自身が「主役」ではなく、仲間一人一人がそれぞれの強みを活かして成果を最大化することを当たり前のように考えていたからだと思います。
──これから、竹さんは、ビズリーチ、もしくはVisionalの一員として働くことを通して、どのようなことを成し遂げたいと考えていますか?
働くことを通して、生きている実感を味わい続けたいと思っています。
僕は高校時代まで、自分は「主役」ではないと思いながら生きてきて、それは本質的には今も変わっていません。ただ、社会人になってからの4年半で数々の経験を積んできた中で、自らの意志をもって主体的にやり抜くことで、やりがいや、もっと言えば「生きている」という実感を味わうことができることを学びました。たとえ失敗したとしても、必ず次の結果に繋がると信じているので、これからも恐れることなく、仲間たちとともに打席に立ち続けたいと思います。
そして、福岡オフィスの飛躍、および、「ビズリーチ」サービスの更なる普及を通して、世の中のプロフェッショナルの選択肢と可能性を広げていきたいです。
──本日は、お時間をいただきありがとうございました!
とんでもございません、こちらこそ、ありがとうございました!
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