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食を通してよりよい未来をつくる--日本を代表するシェフがクリエイティブ企業に経営参画したワケ

クリエイティブカンパニーであるBAKERUには、「クリエイター合衆国」を目指すべく様々な分野のプロフェッショナルが所属しています。

今回はそんなクリエイターの中から、BAKERUが手がける宮下パーク最上階のレストラン&バー「SOAK」のEXECUTIVE CHEFで、21年6月にBAKERUの執行役員となった長屋さんにお話を伺いました。

目標を実現するために逆算型で努力を続ける学生時代

--長屋さんのご経歴を拝見すると、ヨーロッパで様々なお店を渡り歩いたのち、Head Chefとし立ち上げた「L’Effervescence」ではミシュランを獲得し、香港へ活躍の場を移したり、世界的にもたいへんご活躍されています。そもそもどんな経緯で料理人を目指されたんでしょうか。

料理人になった原点と言えば、母の影響が大きいです。母は、私が子供の頃からあまり体が強くありませんでした。そんな母の支えになれたらと、幼い頃から料理をつくってあげたりなにかを温めたりするためにキッチンに立つ機会が多くあったんです。結果としてこの経験が、今の仕事にも繋がっていると思います。

ですが、当時の私はなによりサッカーが大好き。サッカー選手になることしか考えていませんでした。サッカー選手として生きていくのか。それとも別の道を選ぶのか。

いつも3年後の自分、10年後の自分、20年後になりたい自分のイメージが明確にあったのでどうやってなれるのかを逆算して必ず実現すべく生きて参りました。

そのとき一番自分の中で引っかかったのは「一生できる仕事かどうか」でした。

サッカー選手はどうしても体力勝負でもあり、不慮の怪我や故障などに悩まされることもあります。様々な選手のキャリアを調べてみると、うまく成功したとしても、30代の後半から40代にはまた違う生き方を考える必要があることに気付きました。そこでふと、一生できる仕事っていいなと思ったんです。そして頭に思い浮かんだのが「料理人になること」でした。

サッカー選手になることも料理人になることも、共通しているのは人に喜んでもらえる仕事であることです。また、油絵が趣味だった父のおかげで様々な海外作品に触れて育ったので、幼少期から海外への関心が高く、どちらの職に就いても世界中を旅できることも魅力的でした。ただ、サッカー選手が生涯現役で活躍することはかなり難易度が高いと感じたので、それなら料理の道に飛び込んでみよう、と思ったんです。また、海外では言葉がつながらなくても、料理がコミュニケーションツールになりうることに可能性を感じたことも決め手でした。

>香港滞在時のバリ島へのアジアツアー

フランスで気付いた日本文化の素晴らしさと自分のアイデンティティ

--目標に向かって常に努力し続ける姿勢、とても素敵ですね。では高校卒業後から料理人になるための勉強をはじめたということでしょうか。

そうですね。簡単に言うと、料理を勉強するには2通りの方法あります。1つめは、フランス料理や日本料理、イタリア料理など、それぞれの分野のいづれかを専門的に学ぶ専門学校に入学すること。2つめは調理師免許をとるために、一般的な料理、例えば日本料理や中華、洋食、製菓といったすべての分野を受講する学校に入学すること。私はせっかくならば調理師免許を取得できる方が良いと思い、後者の調理師国家資格の取得できる2年制の学校へ入学しました。そして2年目にはどのジャンルの料理を選び深めていくかを選ぶ必要があったので、フランス料理を選択しました。

フランス料理を選択したのは、先ほどもお話しした油絵が趣味だった父の影響は大きかったと思います。ピカソをはじめ、ゴッホやセザンヌなどが手がけた様々なアート作品を通して、実際にその人たちが過ごした場所に行ってみたいといった憧れが強くありました。その中でも特にフランスのカルチャーに関心が高かったので、卒業後の進路としてフランス以外の場所は選ぶ余地がなかったですね。25歳でフランスへ修行に行くことを目標にしていたので、卒業後にはそうした場所で修行をされた経験のあるシェフがいるお店で働きながら勉強していました。

--まさに夢を叶えるために逆算して行動し、実現させていったんですね。実際フランスに行ってみていかがでしたか。

本場フランスの文化を目の当たりにしたとき、具体的にはベルサイユ宮殿を目の前にしたとき、素晴らしくて感動したと同時に衝撃を受けました。

というのも、ヨーロッパの文化はシンメトリーの世界だと気が付いてしまったんです。要は真ん中に線を引いたとき、左右対称だということです。当時は料理の世界でも同様で、右にエビがあると左にもエビが置いてある、といった完璧なバランスの世界観のもと食文化も形成されていました。もちろんそれは味の良さにも繋がっていました。とにかく一皿の構成が完璧で、どこから食べてもその味になるんです。これは日本人にはない感覚だと思いました。だからこそフランス料理とその文化だけをこのまま追求してもたどり着けない領域がある事に気付き、 逆にそれこそが日本人の自分にとって世界で戦う武器になる事をフランスで思い知らされたのです。ですから自分のアイデンティティやルーツ、そして日本文化について、改めて理解を深める為に帰国しました。

帰国後は日本の文化、左右非対称のアンバランス感覚、侘び寂びの世界観、光と影の美徳、日本の郷土料理をはじめ、日本の食材の使い方や歴史についてまさに水を得た魚の様にどんどん吸収していきました。

10年間は日本のことを徹底的に勉強すると決め、日本全国の生産者さんや食材の現地に実際に行くことで、雑誌やネットに書いてある知識だけでなく、自らの目や身体で体験する事で感性を磨いていく素晴らしさを体得していくようでした。

百聞は一見にしかず。そして人と違う視点や表現力は海外で生きていく術にもなる。とにかく自分らしさ、人と違う個性を磨くために勉強をしましたね。10年後にアジアで勝負する為に。

日本の食材で挑戦したアジアのマーケット--3年で経た感覚と経験

--現地に行って体験したからこそ得られた経験ですね。アジアで勝負をすると決めてから、その舞台を香港に選んだ理由はなんでしょうか。

これから人口が減っていく日本のマーケットと、爆発的に人口が増えるアジアのマーケットとの違いを意識するようになってからです。そうした社会背景から、これからは必ず、日本だけで収まらず、他国ともより良い関係を構築しながら外貨を稼がなければうまくいかないだろうなと思うようになりました。だったら、私が出会った生産者さんの食材をアジアに持っていく第6次産業をしながら自分の感性と料理の技術を活かせば、アジアの巨大なマーケットの中でも新しい、自分らしい勝負ができるんじゃないかと思いました。

その中でも香港を選んだのは、関税や自給率の低さ、世界トップクラスの経済力を武器にアジアのハブ、つまり世界中から最高の食材が集まる日本から一番近いアジアの国だったからです。桁違いの富裕層が沢山いる場所で日本の食材を使って勝負すべきじゃないか。そうした考えから、3年と期限を決めて香港で挑戦することに決めました。

--結果として2018年には「JAPANESE CUSINE TOP 5 CHEF IN HONG KONG」を受賞。2020年には著 「My Little Journey in HK」の香港で活躍する8人の日本人に選出されるなど目まぐるしいご活躍です。そんな世界的なシェフが帰国後にSOAKに入った理由はなんだったのでしょうか。

フランスも香港も3年と期限を決めて飛び込みました。それ以上在住すると、影響を受け過ぎてしまって自分の料理や感性に偏りが出てしまうと感じていたからです。そうした理由から、目安としていた3年後に予定通り日本へ帰国しました。

帰国後は自分のお店を構えるなどといった様々なプランがありました。ただ、その中でも軸としていたのは料理人としての生き方の「多様性」を体現したいことでした。というのも、料理人のこれまでの生き方、セオリーとでもいうのかもしれませんが、有名な料理人のもとである程度修行を積んだあとオーナーシェフになるしか日本では選択肢がほとんどない。これは海外へ移住したからこそ見えたきたもの、もっと自由にもっと広がる世界を体験したからだと思います。

ですから私自身は食を通して美味しさの先にあるものを実現していくことに興味がありました。シェフとして食の世界と別の世界のクリエイターとの出会い、そこでうまれる新しく化学変化していくもの。

これからの時代の料理人はもっと多様性に溢れたキャリアの積み方があっても良いのではと思ったんです。だからこそ、料理人やシェフの既存の枠にとらわれずに、食を通して新しい価値観をデザインしていく。そのような取り組みに全身全霊をかけていきたいと思ってます。

そうして様々なお店や企業とお話しする中で出会ったのが、BAKERUが運営する「SOAK」(当時は開店前)でした。面白いと思った理由は2つです。渋谷のミヤシタパークという、私が香港へ行く前には全く何もなかったところに突然できた場所であったこと、加えて自分が環境問題や生き方の多様性を食を軸として発信したいと思ったときに、世界に通用する「SHIBUYA」の街から発信していくことに、とても意味があると思ったことでした。

何よりこの街には自分よりも若い人がたくさん訪れます。そんな場所で、これまで私が学んで感じたことなどを伝え託しながら、次の世代と未来をつくっていくことは面白いだろうな、そうしていかないと明るい未来は切り開かれないのではないだろうかと感じたことがSOAKで働く決め手になりました。

「多様性」を軸に、食を通して新しい未来を描く

--SOAKで提供する食を通して、よりよい未来をつくることまで見据えられているんですね。実際、誰もが当たり前に食を必要とするのに、食がもたらす可能性や未来に起こる問題にまで考えが及ばないことが多いですよね。

料理は食べるだけで終わりではないんですよね。深めていくと、水銀問題やマイクロプラスチック問題など、環境問題に繋がる課題がたくさんあります。反対に、食を通じたコミュニケーションや体験は、いまよりさらに改善の余地があります。

例えば「ポイ捨てはやめよう」なんて単純な教え方では、他人事としてその場で流されてしまう可能性が高いですよね。ですが、食を通じて、例えばその場で食べたものの説明を受けたり理解を深めるたりする方が、ゴミを捨てる人が減ると思うんです。それはやはり、ポイ捨てされたものが口の中に入るなんて想像できないようなことが実際に起きていることを実感できるからですし、最終的にはそうした一部の人による悪習が、自分の大事な人やこどもに戻ってくると知ることに繋がると思います。強制的に強いられるよりも体験することで、これまで以上に気を付けたり注意をしたりと次のアクションにも繋がると思うので、そうした気付きが創出できたらと思っています。
大きくいえばいつか世界平和の実現って食の可能性から解決できるのではとも思ってます。

--そして今回、BAKERUへ執行役員として参画されることになりました。かなり特殊なキャリアかと思いますが、どうして引き受けられたのでしょうか。

基本的には計画型でやりたいことを実現するためにキャリアを積んできました。ただ、同時に直感もすごく大事にしていて、なにかビビっときたことは必ずやるようにしています。BAKERUへの参画もその直感が反応したことが大きいです。

特にBKAERU代表の小林との話で印象に残っているのは「社会実験推進ベンチャーでありたい。明日をもっと素敵な1日にしよう」といった言葉でした。彼の言葉や信念を聞いて、今までにないこと、世の中にあったらいいなを形にしていき、それが世の中の為になるBAKERUっていいなと、とても共感したんです。

近年は新型コロナウイルス感染症が拡大し、マイナスな面も多くあります。ただ、こうした状況をきっかけとして新しく生まれる文化もあると思っています。例えば歴史を調べてみると、ちょうど100年ほど前に発令された禁酒法によって、新しいバーの文化が生まれたと言われているんです。先が予期できない時代だからこそ、新しい変化を起こすことができるはず。そしてこうした時代を楽しく乗り越えたいと思える方達に出会えたいま、ここで面白い仕事をしたいと思えました。

自分の感性を刺激するような試練をどんどん与えてくれる、尊敬する方たちと仲間になれることは本当に嬉しいですし、いまならこの出会いは必然だったのかもしれないと思います。今までも自身の直感は後から振り返ってもいつも後悔することはありませんでした。運命的に出会った仲間ともっとワクワクする世界をつくっていきたい。そして食を通して新しい価値観をデザインできれば。
フードデザイナーとしてもそれが今からとても楽しみです。

長屋英章プロフィール

油画が趣味の父親と華道と茶道の師範の母のもとに生まれ多感な環境で育ち、フランス文化に憧れ本場のフランス料理を求めて、25歳で単身フランスへ。ミシュラン3つ星レストランなどで修行。日本に帰国後は「L’Effervescence」でHead Chefとし立ち上げてミシュラン獲得、アジア50で大ヒットさせる。その後『NARISAWA』でアジアNo.1を経験。未来の為に環境問題やサスティナビリティに取り組みつつ、日本の美意識を世界に伝える独自の料理スタイルを学ぶ。2017香港移住し、香港でイノヴェーティブなレストランをプロデュースする。2018年には「JAPANESE CUSINE TOP 5 CHEF IN HONG KONG」を受賞。2020 著 「My Little Journey in HK」香港で活躍する8人の日本人に選出された。2020年2月日本帰国。Food design by HIDEAKI NAGAYAを立ち上げて『食の新しい価値をデザインする』をコンセプトに、様々な業態のお店をプロデュースする。2020年9月からは、三井不動産の新ブランドホテル「sequence MIYASHITA PARK」で株式会社BAKERUの手がける最上階のレストラン&バー“SOAK”のEXECUTIVE CHEFに就任。

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