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ゲリラ戦のように粘り強く、大阪商人のように泥臭く

メンバー自己紹介
荒川悠次朗(CEO支援室 ジェネラル・セールス・マネージャー)

 
【私の仕事】

 ■現在、CEO支援室で代表の古家さんをサポートしながら、企業様とのアライアンス推進を中心に幅広い営業活動を行っています。古家さんの耳目となり手足となって社内外を縦横無尽に走り回る仕事はエキサイティングで、出会いと発見と学びに満ちています。Arinosは「コンサルティングの民主化」をビジョンに掲げ、創業支援、事業再生、地方創生、そして自ら事業開発にとりくむ企業です。私たちはコンサルティングを誰にとっても身近で使いやすいものに変えながら、日本各地におけるビジネスを支援し、相互に繋ぎ、大きなビジネスに成長させていきます。アドバイスやソリューションを提供するだけではなく、資金需要に合わせた事業出資、そして事業推進のかなめとなる人の提供まで行い、私たちもリスクをとって、お客様の一つ一つの事業に自分ごととして取り組んでいます。

 ■この仕事の醍醐味は、日々向き合う事業領域の圧倒的な幅の広さ、支援をする方々の多様性、そして創業支援とコンサルティングをきっかけに、事業の成長そのものを当事者として担っていけることにあります。その先にはいつも感謝と感動があります。日本全国の地域の人々、その土地と文化を守り、育む仕事を目指しています。現在、弊社が特に力を入れている戦略は、事業支援、アクハイヤー、ファンド組成を組み合わせたユニークなものです。これを推進し、事業領域を広げるために、挑戦心の強い魅力的な経営者の方々を集めたコミュニティーも運営しています。今回は、この場をお借りして、私自身の紹介をさせていただきます。少し長くなりますが、お付き合いくださったら、うれしいです。

 【原風景と生い立ち】

 ■私の原風景は大阪市の東、淀川流域の南にあります。母親は日本生まれの韓国人で、私はそれを20歳になって初めて知りました。今では韓国の血が入っていることを誇りにしていますが、母の思いには意味があったのだと思います。テレビ局の受付として働いていた母は感情が豊かな人で、私はこの人に愛を教わりました。父親は大工で、大手住宅メーカーから委託を受けて家を建てる仕事をしていました。毎朝6時に家を出て、夜中近くに帰ってくる。月曜から週末まで、ずっと働いてる。そういう人でした。「自分の誇れる武器を持て」という父の言葉が子供心にも強く刺さり、今日に至る人生の指針となったと思います。働き者の両親のもとで、子供心にも早く働きたい、手に職をつけたいと思っていました。

 しかし、私は生まれた時からアトピーがひどくて、身体を壊して入院してばかり。関節外れたり、髄膜炎になったり。小さくて弱い子供だったのです。父のように手に職をつけて社会で活躍したい、仕事までの時間を先延ばしにしたくないと思い、淀川工科高校電子情報通信専科に入りました。今になって思うと、中2の時の幼い選択が、その後の社会人キャリアにずっと影響を与えているのだから、恐ろしいものです。

 ■高校時代は軽音楽にのめり込み、そこで恩師と呼ぶべき先生に出会いました。淀工よりも荒れた高校から赴任してきた先生はハングリー精神に満ちている方でした。バイトもやめて本気で打ち込みましたが、選抜メンバーになるためには全部員の前で公開演奏をして投票、上手くてかっこいいやつだけが選ばれます。しくじって恥をかき、後輩にもポジションをとられて、挫折、屈辱を味わいました。負けずに練習して、次こそ勝ち取る。この時に培われたハングリー精神が今の自分の芯になっています。失敗を乗り越え、常にステージに出続けたい。今思えば、これが人生で初めて物事と本気で向き合い、自信に繋がった経験でした。

 【就職して思い知った現実】

 ■工業高校の中では、まだ勉強していたほうだった自分は、大手電機メーカーN社のパートナー企業に就職しました。意気揚々と入ってみるとN社プロパー1,000人中、高卒は2人だけ。ここに来て初めて、自分が社会的少数派だと知りました。製品保守をするエンジニアとして、POSレジやサーバー、ATMの現場に行き、作業しました。製品に何かあれば呼び出しがかかり、クリスマスでも元旦でも駆けつけます。仕事終わりに先輩や上司と居酒屋に行って彼らの愚痴を聞き、相槌を打つことが社会人だと思っていました。しかし、ある時、職場でエースだった、10歳上で家庭も持っている憧れの先輩に給料を聞く機会がありました。さぞ貰っているんだろうな…と思っていたら、手取りで25万円だと。これだけ活躍している人でこの給料とは!高卒の厳しさを思い知らされました。ここを抜け出さないといけない、学歴など関係なく実力ですべてが決まる世界に行かなければ、そう強く決心しました。

 ■片っ端から求人をあたり、目先の時給のよいテレアポの仕事にアルバイトで飛び込みました。ツテがなかったし、転職の方法もわかりませんでしたから。それでも、初月から以前の給料を上回り、稼働時間も以前より楽だったので、よっしゃ、夜も働こうと、つけ麺屋と黒服をかけ持ちしました。それが自分の成長に繋がると信じていたので、疑問も持たずに毎日朝から晩まで働きました。そうしているうちに、テレアポの会社の役員たちから、社員にならないかと誘っていただきました。3つも4つも掛け持ちをするのをやめて、ここから、営業キャリアが始まりました。この時のご恩は生涯忘れません。この出会いがなかったら、私は今もバイトからバイトを渡り歩いていたかもしれません。

 【買取営業マン】

■会社は、出張買取専門のリユース業でした。当時、クローザーと呼ぶ営業マンが7名、アポインターが30名ほどで、自分が最年少。電話帳(!)から個人宅に電話をかけ、不用品買取のアポイントを取り付けます。営業マンが現地に伺い、お客様が不要になったものの買取を行います。不用品を買取するだけでは何の利益も残らないため、タンスに眠らせている貴金属やブランド品(俗に言う金ブラ)の買取をします。如何に気に入っていただくか、信頼を頂くかがカギとなります。一日で8件ほど個人宅を周り、土曜日まで働くため、年間で2,000件ほどの商談になります。すべてが初対面で、過去に同じような買取業者が5社ほど来てるお客様と対峙して、その場で貴金属等の買取を成立させねばなりません。警戒心が最高レベルの方もいます。自分の商談を録音し、移動中に聞き返し、帰宅して文字起こしする。1日で8時間ほどの商談記録になるため、とんでもない量になります。自分が何を話し、お客様の反応がどの瞬間に変わるのか、成功と失敗の要因を研究し続けました。この圧倒的な量のコミュニケーションを潜り抜けてきたことが、現在の自分の芯になっていると思います。

 ■21歳の高卒にして、年収1000万円を超えました。やっとお金を稼ぐという実感を得て、しかし使い方もわからずにブランド品に身を包みました。次第に会社も大きくなり、営業マンの数も増え、部門を任せて頂くようになりました。優遇して頂き、何の不満もない。頻繁に飲みに連れて行ってもらい、人間関係も良好でした。ただ、何かモヤモヤし始めてもいました。自分の裁量を増やして、もっと大きな仕事がしたい、経験を積むためにもっと挑戦したいという思いが強くなっていました。ある先輩と独立の話題になり、環境を変えたいという思いが先走って独立を決意。今振り返ると、当時の会社の方々のことを全く考えず、身勝手な独立でした。なんて不義理なことをしてしまったんだろうと、いまはお詫びしたい気持ちです。そして、のちにこれは自分自身にも降りかかってくることになります。

 【起業】

 ■最初は、3人だけの個人事業主から始めました。オフィスを借り、テレアポのブースも用意し、着々と拡充していく。何も無かったものが少しずつ形になっていくという、この時の胸の高鳴りは忘れられません。自分達でテレアポして現地に向かいます(自アポ自クロ)。昼も夜も土日もありません。ひたすら売上を作るために、やれることは全部やります。ところがようやく回り始めた時に信頼していた共同経営者の一人が突如離脱、目の前が真っ暗になるという経験をします。すでに10人ほどの組織になっていたため、会社と従業員を守るために悩んでいる暇はなく、気を引き締めてガムシャラに働きました。プレッシャーにつぶされそうになりながらも会社は成長し、年商も1億を超えて、法人成りを遂げました。

 【コロナ、そして離脱】

 ■2020年、コロナは出張買取業の我々にとって、致命的な打撃を与えました。取りためたアポが全てキャンセルになる。万全を期し最大限配慮して訪問しても、お客様から嫌がられてしまう。八方ふさがりの中で何とか売上を立て、試行錯誤しながら他の会社の案件も受けましたが、どうにもならない限界にぶつかり、会社存続のために苦渋の決断に至りました。 長く働いて頂いてた方を個別にお呼びして、雇用の継続が出来ないと伝えたとき、自らの情けなさに潰されそうになりました。 多くの方々の痛みと引き換えに会社は存続、世の中がコロナと共存し始めた頃、会社は25名ほどの組織、年商2億程度になっていました。3人で始めた時を思えば成長し、活気もありましが、これ以上どう拡大をしていいのかが、全く見えません。採用しても定着しないまま、事業モデルはすべて人に依存するため、思うように拡大できない。狭くて暗い、社会の隅っこで藻掻いているような状態で、先輩経営者に相談しても、答えは得られず、現状維持が精いっぱいでした。

 ■再び、このままではだめだという焦燥感の中で、異なる考えが浮かびました。どこかの組織に入って、兵隊からやりなおし、ゼロから学び直すほうがいいのではないかと。まだ24歳、世間で言えば第二新卒として受け入れられる年齢です。もちろん収入は激減するし、小なりといえども経営者の立場を捨てて、見知らぬ会社の一従業員になるということは未知の領域だとわかっていました。しかし、どんなに失敗しても、まだまだやり直しがきくのではないか。「荒川君は一度大きな会社に勤めてみるといい。今まで見えてなかったものが見えてくるよ」と先輩に言われたことが、脳裏にありました。高卒で何もわからず入った会社では単なる歯車でしたが、これからは違う。突如沸き上がった、まだ見ぬ土地で挑戦したいという衝動を抑えることができず、考え抜いた末に、かつて自分がそうされたように、今度は私が共同創業者に頭を下げて、自ら起業した会社に別れを告げました。

 【初めての(ちゃんとした)転職活動】

 ■きちんと転職活動をしたのは、この時が初めてでした。今まではご縁だけに頼って生きてこれたのだと再認識しました。計画もなく場当たり的な生き方をしていたのです。転職サイトに登録し、エージェントと会話して、世の中というものに初めて触れたような感覚でした。人材としての市場価値を丸裸にされます。客観的に評価されたことなどなかったから、怖かったし戸惑いもありながら、少しワクワクしていました。どういう見られ方をするのだろうと、根拠のない期待を持っていました。

 ■しかし、転職エージェントに言われたことは厳しいものでした。「荒川さんは高卒なので、まず厳しい戦いになると覚悟してください。10社に書類を送って、1社通るか通らないかくらいです。頑張りましょう」と。 ショックでした。会社を立ち上げて、ある程度の規模に育て、経験を積んできたことが評価されると思ってばかりいました。大卒の人々含めて、同年代と比較すると、まず負けないと確信していましたが、これが現実かと。世間知らずな自分の甘さを知って激しく落ち込みました。やはり、ここでも学歴が付きまとってくるのかと。中学校時代の未熟な選択によって、その後の人生で苦労する方がどれほどいるのだろうかと思うことが、今でもしばしばあります。必死で職歴書を作成して、多くの企業に応募しました。方針は「大企業の法人営業職(提案型営業)」でした。大企業に絞ったのは大きな組織の仕組みを知りたかったから、法人営業職に絞ったのはきちんと提案ができる営業を身に付けたかったからと言えば、カッコいいですが、素朴な憧れがありました。10社に書類を送り、8社で一次選考を通過…。相手にされないことも覚悟していたので、正直言ってうれしかった。その中には、R社やC社など、名だたる企業もありました。

 ■その頃、偶然出会ったのがArinosでした。登録していたスカウト型の求人媒体で、当時役員だった方からメッセージを頂きましたが、コンサルティング職は自分のケイパビリティではないし、ちがうな…と思っていました。せっかくの機会なので話だけ聞いてみようと思っていたら、結果的に古家さんと会うことになり、ビジョンとその思いの強さに魅了されてしまったのでした。「ちょうど僕の右腕的に動ける方を探してたので、一緒にやりませんか?」と言われたときは、さすがに驚きました。大手に行こうという志との間で逡巡したとき、大阪にいるメンターに意見を聞くと、大手じゃない、Arinos一択だと背中を押して頂きました。

 【代表の右腕って…】

 ■入社後は、早速古家さんベタ付きで動くことになりました。タスクフォース的に各部署の課題解決に動き、足りない部分を補います。テレアポ営業もすれば、社内最適化にも動きます。事業創出プログラムでは資金調達支援のコンサルとしても動きました。なんでもやりましたが、期待されていた動きができませんでした。当時、経営経験があるとはいえ、あまりにも違う内容、業務基準に戸惑ってばかりでした。業界特有の横文字も社内の用語もさっぱり分からない。コミュニケーションはもたつくし、ドキュメンテーションはもってのほか。住んでいた世界が違いすぎる…と思い知らされながら、必死に食らいつきました。それでも、これまで培ってきたものは活きました。支援先の資金調達にも成功し、新たな案件も獲得できました。途方もない実力不足を感じつつも、何とかして成果を上げながら、2年目に入って、デジタルマーケティング部の立ち上げをやることになりました。マーケティングなど、これまた経験したことのない領域だけれど、これもやるしかない。15人ほどの組織になって、案件も取ってきて、組織を形づくることが出来きました。

 ■と、思った途端、次は営業部門立ち上げというお題を与えられました。軸となるのは、スタートアップ向けの資金調達支援です。元々営業会社を経営していたから、営業の仕組み化については解像度が高い。どうすればアポが取れるか、どのやり方が正しいのか、とにかく仮説と検証を回し続け、勝ちパターンを探しました。サービスプランの見直し等も行い、何が最適かを議論しました。3ヶ月後には月30件の契約を取れる組織になり、ここが顧客基盤となってArinosのバリューチェーンを繋いでいくことになります。そしてまた、新たなミッションが与えられる…一難去ってまた一難…ありがたいことに、ですが。

 【CEO支援室設立】

 ■今度は古家さんをダイレクトに支援する部署の立ち上げです。入社当初は覚えることで精一杯、周りが見えていなかったし、右腕と期待されても、指一本分くらいの動きしかできなかったと思います。ただ、今度は違う。古家さんの戦略、事業に対しての理解は深くなりました。会社について誰よりも話せる自信がある。そうでないとCEO支援室は務まりません。経営戦略を執行し、事業を拡大させるため、外部との提携を進め、案件を創出します。新規事業を次々と法人化していくArinos HDの拡大に向けた事業選定、設立手続き、営業推進。組織を横断的に動き、各所の連携を促し、組織最適化を目指します。刺激的で、学び続けられる環境だからこそ、私はいまを全力で生きています。若手を抜擢するArinosですが、多くの有識者の方々に助力をいただいてます。大手企業へのバイアウト経験を持つ方、地方企業の事業を全国展開させた方、大手メディア企業のエグゼクティブ経験者、普通に生きていたら出会えないであろうレジェンドの方々といつも、一対一で壁打ちをさせていただけるのも、ここにいるおかげです。

【誰と働くか】

 ■何をするか、どこで働くかも大事ですが、やはり誰と働くかだと思っています。私たちは地方創生や事業再生にチャレンジしていますが、その達成は困難を極めます。だからこそ、大手にはできないゲリラ戦のような粘り強い戦いを、泥臭い挑戦を。それがArinosです。その想いに対し、こんなにも素敵な方々が応援してくださっているからこそ、我々も日々学び、成長し続けなければならないのです。

 ■私は学ぶことが大好きです。それが人生のテーマだと言っても過言ではありません。学歴コンプレックスは克服しました。読書を通じて、先人の叡智に触れる。素敵な人々と出会い、新たな知識や気づきを得る。それらを血肉にし、成長し続けたいです。もし、別の人生があったならば、哲学を学ぶために大学受験をしていたかもしれません。一流の大学院に進学して、思想と文化の探究をしていたかもしれない…と妄想します。想いに耽るほど、哲学とともに生きていたい。おのれの人生を全うしながら、人様の人生に思いを至らせる、そういう人間になりたいと思います。

 【これから、そしてずっと先へ】

 ■突っ走るだけの20代はもうすぐ終わります。今年、私生活では自分にはもったいないほどの素晴らしい伴侶を得ました。30代はひたすらにArinosの事業拡大、ビジョン実現に尽力します。そして、数百人以上の組織をまとめられる存在となります。大規模な組織設計に携わり、大勢の人々と大きな仕事をして、質の高い経験を積みます。40代では、一流企業の代表に就任できるほどの能力と器を持ちます。50代を過ぎたら、私を育て、励ましてくれるメンターの方々と肩を並べられるように、人を導く知恵と力を身に付けていたいと思います。

 ■会社が15期に入る今年後半、コンサルティング機能とファンディング機能を融合した、新たな事業再生モデルを展開します。資金調達支援、事業創出のコンサルを愚直に行なってきたArinosだからこそ、ファンドの限界とコンサルの限界を突破して、小さな会社の力を集めて大きな地方創生を実現します。Arinosは、その活動エリアを日本全国に広げ続け、各地方のNo1カンパニーを目指します。この仕事を通して、会社の成長に自らの成長を懸けてみたい方は、ぜひ、私にコンタクトをしてください。そして、一緒に考え、動き、成長していきましょう。お待ちしております。

 

END

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