「どうすれば仕事が面白くなるのだろう?」という問いは、すなわち「なぜ今の仕事が面白くないのだろう?」と考えているから生まれるもの。たとえ小さくても、自分の意志を仕事に反映させ、主体的に取り組める範囲を拡張すると、仕事は楽しく面白くなる──。
NHKで“映像デザイナー“として活躍する、服部竜馬(はっとりりょうま)さんが歩んできた15年間は、まさにデザイナーとしての自らの役割を広げるための道のりでした。10代の自殺者が最も増える9月1日の前夜に、若者へ真摯に向き合いつつ実験的なアプローチでメッセージを届けたEテレ『#8月31日の夜に。』や、平成最後の『第69回NHK紅白歌合戦』をはじめ、「チコちゃんに叱られる!」「ねほりんぱほりん」「コントの日」「バリバラ」など、服部さんが携わってきた番組は“テレビ離れ”の時代に、多くの人が話題にするものばかり。
番組のスタッフロールでは「美術」または「映像デザイン」とクレジットされることの多い服部さんですが、その仕事の本質は、従来の美術の担当領域にとどまりません。服部さんから自らの関わる領域を拡張させた理由を伺う中で、見えてきたのは「美術デザイナーの職務範囲を広げざるを得なかった理由」でした。
田舎で過ごした幼少期、テレビは「社会との接点」だった
「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」(2019年3月放送)は服部さんが企画した番組。最新テクノロジーにより“死者と再会し語り合う”という、新しい地平を切り拓きテレビの新しい可能性を感じさせるものでした。そんな斬新な仕掛けを生み出した服部さんに、テレビと自身との関係性から話を聞きました。
──子どものころから、テレビはよく見ていましたか?
「高校まで、富山県の宇奈月温泉という田舎で過ごして、俗にいうザ・テレビっ子でしたね。今の若い人は驚くかもしれませんが、今から20年くらい前まではテレビは最先端のメディアで、何もない田舎にいると、社会との接点をテレビに預けている感覚があったり、見ていると元気になる。僕の中でテレビは、そんなポジティブな存在でした」
──テレビ好きだった少年時代が、今の仕事に直接結び付いたのでしょうか?
「いえ、動機は”不純”もいいところで。上京後、八王子にある多摩美術大の環境デザイン学科という、建築や都市計画などの空間デザインの学科に通っていたのですが、イームズも安藤忠雄も知らないような学生で、落ちこぼれで成績も最下位……。かつ、実家も経済的に貧しかったので、とにかく就職しようと思って。美大って優秀な人は、学生時代から作品を買われてアトリエに入ったり、作品展で入賞してオファーを受けて仕事したり、作家活動で生きていけたりしますが、自分は裕福でも優秀でもなかったので普通に就職かなと。美大から受けられる業界で、どうせなら給料は高いほうがいいなぁ、みたいな(笑)」
大学で行われた、卒業生による企業紹介の講演に参加した際、テレビ局も美大生の就職先の選択肢だと知った服部さん。民放を含むテレビ局各局へ就活した結果、NHKの「映像デザイナー」として採用されます。「入局当時には“世の中に何かを届けたい!”といった強い思いがあったわけではないのですが、その後、仕事を重ねるうちに不思議と、自分にも世の中に貢献できることはないものだろうか? という思いが湧いてきましたね」と、入局当時の心境を服部さんは振り返ります。
「いい美術」ではなくて「いいものを作りたい」
1年目はあらゆる「雑用」をこなしながら、テレビ美術の仕事になじんでいきました。年数を経るごとに美術デザインのテクニックは増えていきますが、次第に従来の「作り方」そのものに疑問を持つようにもなっていったと言います。
──NHKに入られてからは、どういった仕事を?
「最初は、ずっとドラマの美術です。スタジオの掃除、撮影用の植木を動かしたり、壁に傷があればクレヨンで上から塗ったり。とにかく現場を知るのが1年目。2年目からは台本のト書きをもとに劇中の小道具作りなども受け持つようになりました。自分でしっかり図面を書いて、業者へ発注して、セットの立て込みも監督し、制作陣や技術陣とやりとりして……というフェーズへと至ったのは4年目くらいです。そのころは大河ドラマ『篤姫』の4番手のデザイナーとして参加していました。まぁ、一番下っ端です。細かなロケの美術プランや何週かに一度、番組の美術プランを任せていただくようになりました」
──ドラマの美術を担当する中で、感じたことを教えてください。
「僕は舞台美術のみならず、映像技術的なことも不勉強なまま入局したせいか、“気になること”がたくさんありました。例えば、『なぜテレビ番組は映画みたいなかっこいい質感にならないのだろう?』とか。先輩たちが、スタジオでカメラを覗いて画作りする中で、何層も植木や小道具を重ねたりして奥行きのある画作りをしているのを参考にするのですが、僕が欲しいリッチな質感を出すための方法とは違うなと思って、自分で一から全部調べていきました。技術系のサイトや本を読んでインターレースとプログレッシブの違いを理解したり、プリプロダクション・ポストプロダクションといった制作プロセスで何が行われているかを調べる中でグレーディングという工程があるのかとか、被写界深度やカメラのセンサー構造を理解するために自分で一眼レフを買って練習してみたり」
──「美術」領域にあまりこだわらず、独自のやり方を探したと。もともと撮影のノウハウもお持ちだったのですか?
「一から始めたのは、そういう経験が全然なかったからです。映像の質感を変えるものは、使う機材や編集の仕方だと気付けたのは、そのおかげですね。映像作品の印象に影響するのは何かが分かってきたのと同時に、自分の体得した知見と、自分のテレビ局での役割とが地続きになる感覚がありました。『自分のスキルが関与できる領域が、テレビにはもっとある』と思えるようになったのは、そこからです」
──今の仕事にも通底する、広い視野ができあがってきた時期だった。
「当時も今も、やっぱり『いい美術』ではなくて『いいものを作りたい』とは常に思っていて、今っぽい言い方をすると『いいコンテンツ』かもしれませんが。意識しているのは“要素の足し算と引き算”ですね。すてきな振り付けなのに、背景の美術がごってり飾ってあったら魅力が伝わらないし、美術ってお金がすごくかかるんです。少し何か作るだけですぐに何百万円とか。その金額を機材に回せば、REDのDRAGONみたいなハイエンドなシネマカメラを借りたり、ツァイスのオールドレンズが使えたり、大きなクレーンで撮影できたり……。そうすると、映画やCMに張り合える映像にできます。そんなふうに、コストを意識しながら、差別化できる『いいもの』を作ることを、独自に考えていた気がします」
──他メディアとの差別化という点で、テレビだけでなくYouTubeなどの存在も意識されていますか?
「僕が入局して、何となく一人前っぽくなってきた5年目〜6年目くらい、今から10年くらい前は、ネットバブル後の『これからはテレビよりネットだ』と言われているころで、テレビとしての立ち位置を考えざるを得ない時期でした。僕らは、その課題に直面したまさに最初の世代ではないでしょうか。ずっと業界にいる巨匠やベテランは、テレビが王様でいる時代を過ごしてきましたから、レガシーな匠の技だけで心配はいらなかった。でも、僕は安心できなかった。それで自分の部署と業務の中だけで頑張るのを気鬱に感じていて、いろんなところにもっともっと興味をと、手を広げまくっていました」
デザインって、本当は何をしてもいいはず
他メディアの台頭に「テレビ」が巻き込まれていく激動の時代とともに始まった、映像デザイナーの仕事。「今のご時世ではちょっと難しいかもしれませんが(笑)」と語る”企画の1000本ノック”のような、先輩との厳しいやりとりで磨かれた審美眼と思考の深め方。次第に「美術の中だけでは解決できることが少なすぎる」と感じるようになった服部さんは、デザイナーの職務領域を拡張する方向へと動き始めます。
──手を広げていく中で、仕事のスタンスや進め方も変わりましたか?
「映像デザイナーの仕事のほとんどは、番組から『こんなセットを作ってほしい』『ロゴやテロップを作ってほしい』『CGを作ってほしい』といった依頼から始まります。イメージしやすく例えると、テレビ番組って各番組が中小企業みたいな感じなんです。放送局はその集まり。プロデューサーは社長で、みんなライバル。片や映像デザイナーがいるセクションは一つしかないので、おのずと複数の番組を抱えることになります。そんな煩雑で大量の業務を効率よく進めるために、コミュニケーションコストの減らし方を考えました。やっていく中で気付いたのが『早い段階でアイデアの“フック”や“売り”をプロデューサーへ提示する』こと。例えば『ラーメン屋のセットが欲しい』と依頼がきたとき、ドラマの構成などを読み込みつつ、現在のラーメン屋のトレンドを踏まえて、『ラーメン屋であるべきか?』も含めて考えます。その上で『おいしいと評判の、バーの間借りラーメンという設定は?』とか、『台本的にはオムライス屋が面白いのでは?』とか、オーダーに対して先回りしてアイデアを1つ乗っけるんです。それが番組の目玉になるだけでなく、広報展開時にパロディーの元ネタとして使うところまでイメージして立体的に設計します。最初は大変ですけど、そうすることでコンテンツを作る過程での上流に入れます。結果的にコミュニケーションコストが安くなるんですよ」
──言われた通りのものを「社内下請け」として作るのではなく、発注された内容を踏まえてアイデアを盛り込むことで、デザイナーの貢献範囲が広がっていくのですね。
「鍛えてくれた先輩も、そういうやり方をしていました。ちゃんと自分で審美眼を持ち、ステークホルダーともバランスを取っていく意味で、いい番組を作るときにデザイナーは絶対に必要なんだと思います。僕の居る部署「映像デザイン」っていうんですけど、デザインって本来的には、よくなるように何をしてもいいじゃないですか。やりづらいな、問題あるなと思ったら、解決のために何でもしちゃったほうがいい。『番組ってもっと違う作り方をしたほうが、もっと面白くできる』と考えると、別に“美術”の範疇で区切って考えなくてもよいのかなと。そのあとは関われることを増やしていき、担当した番組を通じて信用してもらえる立ち位置を作ることで、考えを実現してきたんです」
制作現場のあらゆる領域から「課題」を拾い集めつつ、それに対する解決を自ら考え、自ら実行する。それはテレビ表現の可能性を広げることにもつながりました。服部さんの仕事はますます越境し、企画、撮影、音楽、編集といった全体のデザインにも及んでいきます。
ふと、インタビュー中に机に置いた服部さんの名刺に視線を落とすと、名前の横には「デザインセンター 映像デザイン部」と部署だけで肩書がありません。偶然かもしれませんが、服部さんの“仕事の流儀”が小さな名刺一枚から伝わってくるように感じられました。
後編では、服部さんが「興味の幅を広げまくった先」に行き着いた番組を振り返りながら、「これからのテレビ」について伺います。