30歳を過ぎるまで建築家としてキャリアを重ねてきた林のり子さんが、1973年にオープンした洋風惣菜の店「パテ屋」。
前編▶田園調布でレバーパテを作り続けて45年。建築家から転身し、洋風惣菜店を開業するまで。
後編では、パテ屋の成り立ちと、自身の疑問がきっかけとなり立ち上げた<食>研究工房の話を中心に、食、そして自然へと興味が広がっていった過程を聞いた。
「したくない」「できない」ことに逆らわない
そもそもなぜパテだったのか。林さんの実家では、朝食で腸詰めのレバーペーストをよく食べていたため馴染みはあった。しかし、それはハムやソーセージと同じく「工場から出てくる食べもの」という認識だったという。
ときは流れてパテ屋を開く前年の1972年。ニューヨークに暮らす友人宅で、手作りのパテを食べる機会があった。林さんは、パテが手作りできることを知り、衝撃を受けたという。
「帰国後、子どもの離乳食として作っていたレバーパテが評判を呼び、『プレゼントやお見舞いにしたいから、ゆずって』ということで、商品として買っていただくことになりました。友人たちは、『レバーの何かを作っているらしいよ』と、面白がって知人に配ってくださったりして、お蔭さまで広がっていきました。レバーパテがどんなものかを知らない人もいて、『のり子は焼き鳥屋をやるらしい』って噂もまわっていたみたい。それを聞いた建築家の友人が、『女はいいなぁ。焼き鳥屋でもラーメン屋でも転職したら、かっこいいと思われて』っていわれて大笑い。でも男性は不自由だなって思いましたね。今では男性でも転職は多いけれど」
今でこそデパートの惣菜店やレストランがパテを取り扱うことは珍しくなくなったが、当時、パテが多くの人にとってどれほど未知の食べ物だったのかがわかるエピソードだ。そんなある日、たまたま林さんがパテを渡した相手が、厚生労働省で働く女性だったことで、事態は急展開を迎える。
「『あなた、営業許可は取っているの?』と言われて、そうか、許可というものがいるんだって。自分のアンテナが料理に向いていることは自覚していたし、ちょうどここ(現在店を構えている場所)にあった古い建物を建て替える話も出ていた時期だったので、営業許可が取れるように設計しました。もしその女性にパテを差し上げていなかったら、こうしてお店をやっていなかったかもしれないですね」
開店時から現在に至るまで、パテ屋のショーケースには十数種類の惣菜が並ぶ。看板商品のレバーパテをはじめ、豚肉をワインで煮崩したポークリエット、スモークした牡蠣とホウレンソウをミックスした牡蠣ペースト……。そのどれもが素材の味とコクを引き出すことを念頭に調理されている。食材のほか、調理に使うのは基本的に塩とハーブのみ。
「前にお店で働いていた人から、『パテ屋って、塩しか使ってないんですね』と言われて、『そういえばそうね』って答えたことがあったんですけど。素材の甘みとコクをどうやって引き出すかが、私の最大の関心事ですね。
それと、私は管理というものを絶対にしたくないわけ。したくないというか興味がもてない。だから管理の必要な量産もしない。食べ物って目の前でいろんなことがおこるから、『火が強すぎるとこうなるでしょ。だからこうするの』って具体的に説明できる。料理は素材の化学変化、物理変化ですから、そういうのをここで働くみんなに伝えられるのを幸せに思ってます。お嫁さんにそんなこと言ったらただのうるさい姑ですけどね(笑)」
客観性や必然性がある仕事をしたい
こうしてパテ屋の主人となった林さんだったが、早々にあることが気になって仕方なくなってしまう。それは、「日本人の自分が日本でパテを作っているのは、フランス人がフランスでたくあんを漬けているのと同じなのでは?」ということ。その疑問を解決するには、自然条件が似ている地方の食べ物を調べることが手がかりになると考えた林さんは、いてもたってもいられず、日本とフランスの風土や食文化をリサーチすることに。これが<食>研究工房のはじまりだ。
「私は自分がやっていることに客観性、あるいは必然性があるかどうかがすごく気になって、11月のパリに行ったのですが、東日本の初冬と同じ空気感があって、『やはりパテは正解だ』と思いましたね。ただ、真夏の日本は東南アジアと同じ気候で、パテ作りに不向きなので、8月は店を休むことにしました。現在では東日本とフランスは同じ落葉広葉樹帯=ブナ帯つまり同じ自然環境であることが判ってきましたが」
<食>研究工房では、世界の気候や自然環境を徹底的に調べ、地図を起こし、見やすく、わかりやすく分類する。ふと浮かんだ疑問から作業が始まることもあれば、新聞や雑誌の編集部から依頼を受けて執筆したり、日本の地方に赴き、聞き取りをしたりしてきた。これらの取り組みは、「宮城県ブナ帯食ごよみ’92」(タス・デザイン室)、「須玉の食ごよみ」(須玉町教育委員会)、世田谷文化生活情報センター 生活工房で行われた「ブナ帯☆ワンダーランド」展に繋がっていった。
「食は、自然のなかのほんの一部でしかないでしょう?たとえばお米なら、私たちが食べている実のほかに、根も藁も籾もあるわけよね。そこはまるで無いものかのようにして、その粒だけを食べて、おいしいとかなんとか語るのは、全然おもしろくないっていうか」
散らばった情報をかき集め、整理し、それを地図や文章にまとめる作業には相当な時間と労力が必要だ。そこまでして林さんが<食>研究工房の活動をやめないのは、もやもやしていることをきちんと分類しなければ気が済まないという理由がひとつ。そして、もうひとつは、子ども時代を過ごした田舎での暮らしで、さまざまなことを学び、自然によって自分が開かれていく経験をしているからだという。
「私にとって幼少期の田舎での生活はすごく大きなものだったんです。自然に囲まれていると、1日中何も考えずにそこに居られる感じなんですよね。電気しか通っていなかったけれど、井戸があり、カマドがある。そんなところで暮らすことができたことで、何がなくても大丈夫って思えるようになった。もし、東京で生まれて、そのままずっと育っていたら、とは考えられませんね。なんといえばいいかしらね。私は自然を体験していれば、どういう状況でも大丈夫だと思うんです」
自然を体験していれば、大丈夫。
この考え方は、『パテ屋の店先から―かつおは皮がおいしい(新装増補版)』(アノニマ・スタジオ)の巻末に掲載されている「新装増補版によせて」の文章にも共通している。
ここで最後に、若い人々に日常の中の自然現象と遊ぶことをおすすめしたい。一見人工的な都会の一室の外にも内にも、気をつけてみれば自然現象はあふれている。子供たちへのお小遣いを満月の日に、と決めている若い友人がいる。子供たちは「あと何日でお小遣いだ」と、月をよむという。この本が、そんな日常の中の自然のカラクリに気づくお役に立てれば幸せである。
「この前、大雪が降ったときに、靴に藁の縄を巻けば滑らないんだけど、それがなかったからシュロ縄で代用したという話をしたら、『そんなこと、思いつきません』とスタッフに言われたんです。ムリもありませんね。私は田舎で暮らをしていたので、生活の全てに藁が使われていて、雪が降ったら、藁靴を履いたり、長靴の上から藁草履をひっかけたりすることは、当たり前だった、というか子どもの頃の感覚では藁と遊んでいた、という感じですね。いろいろお話ししましたけれど、日々のどんな場面にも、人それぞれ固有の遊びの感覚があると思っています」
話の途中で何度も席を立ち、そのときのテーマに関連する本や資料を見つけてきては、説明してくれた林さん。取材中は「曖昧なものを仕分けないと気が済まない」と林さんが自身について分析した言葉をそのまま受け取っていたが、こうして原稿を書いているうちに、林さんは言葉にしなかったけれど、私たち下の世代が豊かに生きるためのヒントを発し続けてきたのだと思えてならない。