1968年、靴下の卸売り会社として創業し、現在は靴下の企画・販売を手がけるタビオ株式会社。靴下専門店「靴下屋」をはじめ、「Tabio(タビオ)」「chaussettes (ショセット)」など全国で約280店舗展開。2002年以降、イギリス・ロンドンやフランス・パリにもショップを構える。
同社の創業者である越智直正さんは、中学卒業後、15歳で大阪の靴下問屋に丁稚奉公してから靴下一筋の人生を歩んできた。78歳を数える現在は、同社の代表取締役会長として働いている。”靴下の神様”という異名をとる越智さんの話を聞きに大阪の本社を訪ねた。
「こんなやつ、丁稚にやれ!」。父親の一言で、大阪の靴下問屋に入社
愛媛県の瀬戸内海をのぞむ小さな村で、11人兄弟の末っ子として生まれた越智さん。温暖な気候であらゆる果物がなっていたため、それを採って食べるのと釣りが好きな子供だったという。
「わしは、子供がそのまま大きなったようなもん。ある小説家が、わしの幼少の頃について取材をしたいと言ってきたから、田舎でタクシーの運転手をしとる同級生に会ってもらったんやけど、同級生は『幼少の頃なんてなかったですよ。ガキ大将の頃はありましたけど』って言いよった。わしは、昔からこのまんまで、全然変わらんのやって。それで、その小説家は取材を中止したんです。本にならん言うて(笑)。
学校は楽しかったか? 我が世の春よ。やんちゃして先生にどつかれてもね、兄弟がたくさんおってよく叩かれとったから慣れとるやろ(笑)」
11人目の子どもとなると、両親も事細かにかまうわけにもいかず、そんな環境のもと越智さんはのびのびと育った。
「通信簿をもらってくるでしょ。普通なら親が見てくれて、ハンコを押してくれるけれども、うちなんか置きっぱなしで埃かぶっとった。『あそこの引き出しにハンコが入っとるやろが。自分で押して持っていき』って。数のうちにも入ってなかったね。上の姉さんなんか今でもほとんどわからん。姉さんの子ども、つまりわしにとっての甥っ子や姪っ子がわしより年上だったからね。周りはみんな農家で嫁いでいくし、お盆とか法事とかでしか顔を合わせなかったの。実際に関わりがあったのは7人です。今はわしを入れて3人しか残ってない」
親の関心を引くために、悪さをしたことも1度や2度ではない。15歳で大阪に丁稚奉公することを決定づけたのは、越智さんが好奇心にかきたてられてとったある行動が原因だった。
「わしが悪いことばっかりするからね、中学を卒業したら大阪にやろうというのは決まっとったみたい。丁稚奉公することになったのは、赤ちゃんを川に流してしまったからなの。学校で勉強のできる子が『赤ちゃんは水に浮く』って言い出したんよ。それで、『ならついてこい』言うて、うちに戻って、寝かしつけてあった姪っ子の着物を脱がして、川に浮かせたの。そしたら、流れてしまいよってびっくりしたよ!土手から急いで追いかけて、抱き上げて、きれいにタオルでふいて知らんふりして寝かしとったんやけど、それを見ていたおばちゃんがおってね、親父はすごく怒った。『こんなやつ、勉強もせんし、悪いことばっかりするんやから丁稚にやれ!』って」
その一件があった晩、越智さんの父親は脳溢血で倒れ、半月後に他界した。「丁稚にやれ!」という言葉は遺言となり、中学を卒業した越智さんは大阪の靴下問屋・キング靴下鈴鹿商店に入社する。1955年のことだった。
救いをもとめて中国古典に傾倒
「大将をはじめ軍隊から帰ってきた人が多かったから、そら怖かったよ。わしはサンドバック代わりやったの。『人を叩くときはこうやって叩くんや』って、見本にされとった。だから、入社して1週間でついたあだ名は防波堤。上が怒ったらわしが防波堤になるんや。今はそんなことやったらパワハラになるんちゃうか。先輩からすれば、それがコミュニケーションでもあったんやと思う。せやけど、さすがにこのままいったらあかんのうって思ったの」
先輩からのあたりがきついだけでなく、仕事はとてつもなく忙しかった。朝6時前に起床し、仕事が終わるのが0時を過ぎることも少なくなく、繁忙期の12月ともなれば、「1時間寝られるだけでもありがたいと思え」と言われる厳しい生活を送った。月給は1500円、休みは月に半日だけ。どうにかしてこの状況を変えたい。越智さんは、中学時代の教師の言葉を思い出す。
「先輩と夜店に行ったことがありました。先輩はミルクセーキを『くぅ〜』ってうまそうに飲みよった。それをじーっと見よってもいやらしいやろ。せやから、2、3軒離れたところで待っとったの。ちょうどそこが古本屋で、中学時代の先生が『大阪に丁稚に出ても勉強を続けろ。中国の古典を読め』って言ってたのを思い出してね。『中国の古典』ちゅうタイトルの本があると思っとったから、お店のおっさんにどこにあるか聞いたらね、おっさんが指差したところに『まごこ(孫子)』と書かれた本があって、『このおっさん、わしをなめやがって。まごこってどういうこっちゃ』と思ったよ。でも、安かったし、中身も何も見いひんで買ったんです。本を買ったことが先輩に見つかったら大変なことになるから服の中に隠してね」
それまでより1時間就寝時間を遅らせ、越智さんはその時間を読書にあてた。越智さんが人生と経営について語った本『靴下バカ一代 奇天烈経営者の人生訓』(日経BP)によると、最初はトイレに行く振りをして、階下の帳場で。「店の電気を使うとは何事や」と怒られてからは、近所で買った布をかぶり、懐中電灯で本を照らして読むようになったとある。そんな越智さんの姿を見て、部屋長は「そこまでするなら下で1時間だけ読んでいい」と許してくれたそうだ。3年が経ち、18歳になる頃には『孫子』の内容を暗誦できるようになっていた。しかし、状況は変わらず先輩たちの「サンドバッグ」のまま。
「『孫子』には、将軍の戦い方は書いてあるんやけど、将軍になる方法は書いてないの。大きな欠落や(笑)」
それに気づいてからは、どうやったら将軍になれるかを説いた『史記』『三国志』などの中国の古典を読み漁った。
「勉強するゆとりはなかったんです。せやから覚えるのも早いの。学校で時間をいっぱいかけて勉強して、身に付ける人はよっぽど頭がいいと思うよ。わしはいろんな本に救いを求めたから必死や。それがよかった。なんでそんなにハマったか?中国の古典いうのはね、2000年以上前に人間の問題を解決しとるから。わしの考え方は、中国の古典と自分の経験で形成されとるの」
靴下の良し悪しは、噛めばわかる?!
越智さんといえば、靴下の品質の良し悪しを噛んで確かめるという独自の方法論を持つ人でもある。噛むと言っても力いっぱい噛んだところで何もわからない。「赤ちゃんのほっぺたを噛むように、すーっと優しく噛む」と、いい靴下は1分30秒かけてすーっと押し上がってきてもとの形状に戻るのだそうだ。商品サンプルを買えるだけの所持金がない丁稚奉公時代に編み出した苦肉の策だった。
「休みの日に百貨店を見に行くやろ。その頃、靴下はガラスケースに入っていて、対面販売やったんよ。勉強のために買いたくても、ゼニがないから買われへん。店員さんに『これとこれを見せてください』って言うて、出してもらったら、ぽっと後ろを向いて噛むの。五感で覚えるしかないからね。店員はね、『イカれた子や』と思ったんちゃう?(笑)。噛むための練習もしました。洗面器に水を張って、1分間息をとめてね。人間って困ったら努力するもの。全力でやると思いますねん」
1968年、大将との行き違いをきっかけにキング靴下鈴鹿商店を退職した越智さんは、それまで一緒に働いていた部下2人と一緒に独立することになる。商号はダンにした。男一匹だからという理由で、「男」にしようと思ったが、「ブランドなのに男の一文字だとおかしい」と反対され、ダンに落ち着いたのだそうだ。創業期には、問屋時代の経験から、メーカーが工場で作った靴下を買い集めて販売する卸売専門会社だったが、経費を削っても利益を出すのが難しく、独自に企画した商品を手がけるようになる。1982年には三愛三宮店でタビオ初となる小売店を、84年には、福岡県久留米市に靴下屋1号店をオープンした。
「独立と同じ頃に結婚もしていたけれど、嫁はんのことは眼中になかったくらいにとにかく走り回りよったからね。借金に走らなあかんし、商品づくりもせないかん。名を残す人ほどアホばかりやろ。ベートーベンは音楽、アインシュタインは物理学、みんなひとつのことしかできひんやん(笑)。一生一事一貫っていう言葉がある。一生を通じてひとつのことを貫きなさいって意味や。わしみたいなアホが何かをものにしようとするとそれしかないんや」
越智さんは、タバコ片手に、ときにこちらが困惑してしまうほどの勢いで冗談を言う人だ。そして、名刺を見るなり名前を覚え、話のなかで何度も呼びかけてくれる人でもあった。なんの後ろ盾もない状態から、国内有数の売り上げを誇る靴下総合企業を築けた背景には、越智さんの目の前にいる人間の心をほぐし、訴えかける力が作用してきた場面がいくつもあったのだろうと想像できる。後編では、仕事、そして靴下に対する越智さん独自の考えを掘り下げます。