「この学校を卒業した人が、21世紀にどんな働き方をするんだろうって考えたときに、きっと会社には属さず、フリーランスになる人が多いだろうなと思いました。でも、フリーランスの人間ひとりで大きな仕事をするのは難しいから、適材適所でチームを組んで、プロジェクトが終わればチームも解散。で、数ヶ月の休みに出るみたいな感じかなと。それって、ハリウッドの映画業界と同じだって気づいたんです」
東京・御茶ノ水にメインキャンパスを置くデジタルハリウッド大学の学長をつとめる杉山知之さんが、94年に社会人向け専門スクールの「デジタルハリウッド」を開校する前、取締役4人で交わした会話だ。
日本の大学なのにハリウッド。筆者も、高校時代に受験生向けの月刊誌でその名を見つけたときのことを今でもおぼえているが、「一体何を学ぶ学校なんだろう?」という疑問が浮かんだこともあわせて記憶している。ハリウッド映画の制作スタイルがその由来だったとは。
杉山さんはハリウッドの映画業界について、こう続ける。
「ハリウッド映画が盛り上がった、1930年代から40年代にかけては、スタジオ・システムという仕組みがあって、メジャーな会社に監督、プロデューサー、俳優まで長期雇用されていたんです。でも、どうしてそれが長く続かなかったかといえば、同じメンバーでいれば、同じ内容の映画ばかりになってしまうから。次第に力のあるプロデューサーが外に出て、事務所を作り、お金を集め、世界中から人を集めるようになっていきました。適したメンバーが集うわけだから、クリエイティビティが失われないですよね。だからこそ、今でも映画においてはハリウッドがトップを走っている。日本の学校なのにハリウッドとつけるなんて恥ずかしいけれど、そのまんま拝借しつつ、我々の世代ではデジタルでそれを実現するのだから、デジタルハリウッドにしよう、となりました」
3DCGとインターネットの夜明け前に
こうして1994年10月にクリエイター職への転職・就職を目指す専門スクールとして、デジタルハリウッドが誕生した。94年といえば、家庭用ゲーム機のセガサターンやPlayStation、ウェブブラウザ Netscape Navigator がまだ登場していなかった頃で、今では当たり前となっている3DCGとインターネットの夜明け前にあたる。「就職先がないのに、趣味で学校を作るなんていかがなものか」と、周りからは杉山さんたちを批判する声も少なくなかった。
「たしかに3DCGとインターネットの夜明けより一瞬速く開校したので、デジハリで学んだ技術を活かせるような就職先は、その時は未だなかったんですよ。それで、他の専門学校の理事長から批判されましたね。僕からしてみれば、『この人たちは何なんだろう』って思いました。『今ある職業に適応するための学校しか作らないのか。こっちはこれから新たに生まれる職があるとわかっているから作るんじゃないか』と違いを感じましたよね。蓋を開けてみれば、95年にWindows 95が出て、Webが大変なことになったし、プレステの大ヒットで3DCGも大変なことになった。初期の受講生は入学して2~3ヶ月で、就職が決まる人も出てきました。採用側が、『Macさえ使えればOKだから!』って。『おいおい!PhotoshopとIllustratorの演習がまだ終わってないよ!』って感じでしたね(笑)」
杉山さんの読みは的中。デジタルハリウッドで学べる技術を企業が求めて、TAITOから、「自社のデザイナーに2ヶ月で3DCGを叩き込んでほしい」と依頼がきたことも。そこで杉山さんが急遽立ち上げたコースが、翌年からは本科のコースとして採用されることもあった。開学2年後の96年にはナムコ(現:(株)バンダイナムコエンターテインメント)が資本参加するなど、順調なスタートを切った。
MITメディアラボの研究員になれたのは、「面接の時にニコニコしていた」から?!
なぜ、杉山さんはデジタル領域が主軸の学校を立ち上げるに至ったのか。すべてはマサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボ客員研究員として過ごした3年間があったからだと語る。
杉山さんは小学生の頃建築に興味をもち、日本大学理工学部で建築を学んでいる。大学4年から専攻した建築音響設計をきっかけに、杉山さん自身も3DCGについて学び、コンピューターでシミュレーションをするように。卒業後は、同大学院理工学研究科を経て、8年間助手を勤めた。
「助手をしていた当時は、理系だったから、大教授がいて、助教授がいて、助手の僕がいて……っていう縦社会におさまってましたね。昼間はお茶汲みをして、夜になると学生を集めて好きな研究をする日々でした。ところが、8年目を終えた頃にはさすがにマンネリを感じるようになったんです。4月に新しい学生が入ってきて、3月に送り出すという流れが毎年繰り返されるわけだから、変化がないなぁって。少しずつはね、研究も進むんですけど、飛躍的に進むわけではないし。そんなときにMITに行けるチャンスがふっとわいて。そこからですね、人生が大きく変わったのは」
日本の研究者がMITで学び、その文化を持ち帰り、新たな研究所を作るというミッションのメンバーに選出されたのだ。大手民間企業が大きな予算を投入したビッグプロジェクトだった。
「実はその話を聞いたときには、すでに某国立大学の助教授になることが決まっていたんです。でも、楽しそうだなってワクワクしましたね。助教授になることに比べたらすごくリスキーだし、なんだかよくわからないけれど、未知な感じに惹かれました」
十数人の研究者が面接を受けたものの、研究員として採用されたのは杉山さんひとり。
「メディアラボに入って半年後、少し英語を話せるようになってから、ラボの創設者で当時所長だったニコラス・ネグロポンテに僕を選んだ理由を聞いてみたんです。そしたら、『すごくつまらない質問をしたな、お前は』という顔をしながら、『面接の時にニコニコしていたのは君だけだったから』って言うんですよ。それを聞いて、笑っちゃいましたね」
杉山さん自身は、自分の研究について一生懸命に話していただけで、ニコニコしていたおぼえはないらしい。
「でもね、僕も年を取ってから考えてみたんです。彼らは合理的にものを考えるじゃないですか。面接を受けにきた人間をメディアラボ風の研究員に仕上げるには、ニコラス・ネグロポンテ自身が普段関わっているメディアラボの教員や院生に馴染めないとだめでしょ。そこの一点を見ていたと思うんですよ。『MITのなかでも、変わり者が多いラボに連れていって、馴染むのかな?馴染まないかな?』って。馴染めたら、その文化を日本に持ち帰れますよね。そういうことだったのかなと思いました。僕はその時も髪が長かったし、『こういうやつ、ラボにもよくいるじゃん。わかる、わかる。どうせロックが好きなんだろ』って思われたなと(笑)。それは見事に当たっていて、すぐに馴染んじゃった。その後、今こんなことをやっているのも、彼の見立てだったのかもなって」
著名な音楽家に学んだ「オファーを断らない」という在り方
こうして3年間をメディアラボで過ごし、帰国したものの、バブル崩壊に伴い、日本に研究所を作るミッションはたち消えてしまった。
「ミッションがなくなったのは、僕のもっと上の人たちが決めたことで、僕のせいではないんだけど、3年弱メディアラボの教員や院生に世話になったのは事実じゃないですか。それ以降の人生を、『俺、MITのメディアラボで研究員をしていた先生なんだぜ』って言い切ることもできたんですけど、それもずるい感じがしたんです。せっかくそういうものを見てきたのに、それだけのキャリアで終わらせちゃうの? 与えてもらったものを日本でカタチにしないといけないんじゃないかって。だって、海外で研究歴のある先生なんていっぱいいますからね。そう思って、まずは学内にベンチャーのCGプロダクション作りました。わいわいやってるうちに人が足りなくなって、でも、外から雇うことはできなくて。『それじゃあ、教えるか』という話になったんですよ。それがデジタルハリウッドを立ち上げるきっかけです。取締役が数人いた中で僕が校長になったのは、そのときのメンバーに『お前がやれよ』って言われたから。そこで、『校長ならできそうだからやるけど、社長はできないよ』って言ったら、『社長になる人は別にいるから』と言われて安心していたところ、その話が頓挫して、ついでに社長もやれってことになりました。それならしょうがないなぁと。それぐらい短い議論で物事が進んじゃった」
「これを受け入れることで、自分の人生がどうなってしまうのか」
多くの人は、将来が不安で、立ち止まったり、リサーチしたり、その選択をする前に何かしらの行動をとるだろう。杉山さんには、そういうところがなく、「やろうよ」と言われたらやる。それはチャレンジするという感覚ではなく、「自分の人生がどうなってしまうのか、ということに対して無頓着」なのだそうだ。
「細かいことを考え出したら足がすくんで前に出ないですよね。だからあんまり吟味しない。『いろいろ考えた結果、これにしました』というふうに進めることはなかったですね。ひとつ何か言えるとすれば、大学時代、ある音楽家の方に『オファーを断らない』という考え方を教わったことがあって。今はもう亡くなられているのですが、作曲家としていろんなお仕事をされていた方で、僕がすごいですねと言ったら、『杉山くん!俺だってね、藝大に行くだけでなんでもできるとは思ってなかった。だから、きたオファーをなんでもできますと引き受けて、家に帰ってから、それについて勉強を始めるんだよ』って。オファーを蹴ったら、次はないかもしれない、とも言ってました。それっていいなと思って。その後、僕は大学院の修了前にちょっと変わった設計事務所に就職することが決まっていたのですが、修士論文も提出した後になって大教授から『助手の口がひとつあいたから助手になれよ』って声をかけてもらえて、『わかりました』と答えて助手になりました。音楽家の方の考えに触れていたからできたことです」
相手の意見や要求を受け入れて、乗り越えていくバイタリティもすごいけれど、MITでの研究を終え、帰国すると、自らの経験を「華やかな経歴」で終わらせず、活かしたところにこそ杉山さんの生き方の核を感じられた気がした。後編では、学長の仕事について掘り下げます。