2015年に日本交通グループのシステム部門「日交データサービス」から社名変更をした「JapanTaxi」。
電話で予約をせずとも、乗車位置にピンを打つだけでタクシーが迎えに来てくれる「全国タクシー」や、出発地と目的地を入力すると料金が検索できる「料金検索アプリ」など、タクシーにまつわる便利なスマホアプリを開発している会社といえば、「知ってる」「使ったことがある」という人も少なくないでしょう。
今回、お話を伺う川鍋一朗さんは、そんなJapanTaxiの社長であり、同社の親会社である日本交通の会長を務めています。
「今日はよろしくお願いします」
インタビューが始まると、早々に自身の仕事論を話し始めた川鍋さん。よく通る声に、くるくると変わる表情。人を惹きつける強いパワーを持った人。
永遠の青い鳥症候群にならないために。
「日本交通では、『徳を残す』をテーマに掲げているのですが、やっぱり仕事を通して人格を磨くことが大切だと思う。仕事は生活をしていくためにするものではなく、生きていくために自分を鍛えていくためのもの。そう考えないと、これだけの時間を仕事に費やすのは本当にもったいないことだし、そう捉えれば、コピー取りやお茶汲みでも工夫の仕方はいくらでもある。『一隅を照らす』という最澄の言葉があるのですが、最近の言葉でいうと『置かれた場所で咲きなさい』というのと近いかな。こんなことを言っちゃうと、誰も転職しなくなっちゃうか(笑)。
多少の向き不向きはあるにせよ、自分に向いているものっていくらでもあると思うんです。スポーツと一緒で、陸の上より水の中の競技の方が得意というのはあるかもしれないけれど、水の中ならクロールも平泳ぎもできるという人はたくさんいる。スイートスポットって1箇所だけじゃなくて、ぼんやりと広いもの。迷ってばかりいると永遠の青い鳥症候群になってしまう。腰が据わらないと絶対に結果も出せませんよ」
川鍋さんは、日本交通の創業者である川鍋秋蔵氏の孫にあたる三代目。生まれた時から、日本交通の後を継ぐ運命にあった人でもある。少しうがった見方になるけれど、職業を選ぶ自由がなかったからこそ、置かれた場所で咲くことを自分に課してきたのでは?
「自分の育った環境と、仕事に対する考え方は非常に色濃く関連していますね。でも、社長になるということを嫌だとか、疑ったりしたことはありませんでした。幼稚園の頃は無邪気に『なんでうちのパパのタクシーに当たらないんだろう』と思っていたし、卒園文集に『タクシーの運転手になりたい』と書いていました。来客があったときには祖父から『うちの三代目です』と紹介されましたし、『俺は三代目の社長になるんだ』と中学時代には完全に刷り込まれていました。ともすると努力もせずに偉そうに振る舞える環境でもありましたが、僕の場合はそんな環境が目線を上げてくれたと思っています」
「他の仕事に就いてみたいな」といった気持ちには一切ならなかったんですか?
「物心がついた頃からそう言われていると、『え!タクシー会社の社長以外にも仕事ってあったの?!』みたいな感じでした。父は外国人としょっちゅう英語で話していたから『社長になると英語を話せなきゃいけないのか。じゃあ、アメリカに行こう』と思ったし、マッキンゼーに入ったのも『社長になるならコンサルが一番役に立つんじゃね?』と。そういうノリですよ(笑)」
船が沈むときに船長だけ逃げ出すわけにはいかない
川鍋さんがマッキンゼーの日本支社を退社し、日本交通に入社したのが2000年。29歳のときでした。会社に1900億円の負債があることを知り、2代目の社長であるお父さんと共に経営再建に乗り出しますが、2005年にお父さんを病気で亡くしてしまいます。たった数年の間に、人生でそう何度も起きないような試練に見舞われた川鍋さん。ときに自分の置かれた状況から逃げ出したいと思うこともあったと振り返ります。
「父親がガンで亡くなって、想定より10年くらい早く社長になったときは、半年間くらいモラトリアムのような感じになりました。『社長になるまではシナリオがあったけど、その後何をなすべきか考えてもなかったな』と。入社して最初の3年間は借金もすごかったですしね。もともとこの紀尾井町のビルに入っていたオフィスも北赤羽の営業所に統合するかたちで移動しました。ちょうどその頃、マッキンゼーの同期が起業をしてね、『うちはこんな状況なのに、みんなは楽しそう。上場するの?羨ましい!』なんて思っていました。『かたや俺はタクシーという泥舟と一緒に沈んでいくのか』って。でも、船が沈むときに船長だけ逃げ出すわけにはいかないじゃないですか。タクシー王子の本(※)を書いたのも、三代目だから。普通だったら『そこまでやらねぇだろ』ってことをやったから結果が出たんです。気が付いたらネットの時代でUber(※)が注目されちゃってるし、最近はネット系ベンチャー起業の会合で偉そうにスピーカーとして登壇しているし。俺ちょっとラッキーって(笑)。
今年の5月にようやく北赤羽からここ(紀尾井町)に戻ってきましたが、それこそ清水の舞台から飛び降りるつもりでね。このテーブルを見るたびに『頑張って稼がなきゃ』って思いますし、このビルに入るたびに『ここまで15年かかった。これで満足しちゃいかん!』と毎日思うんです。タクシーにしがみついていたら、いつの間にかタクシーがここまで連れてきてくれた。一隅を照らすっていうのはこういうことを言うのかなと」
※タクシー王子の本
2008年に発売された川鍋さんの著書『タクシー王子、東京を往く。―日本交通・三代目若社長「新人ドライバー日誌」』(文芸春秋社)
※Uber
2009年にアメリカ合衆国で設立された「ウーバー・テクノロジーズ」が運営する自動車配車ウェブサイトおよび配車アプリ。高級ブラックカーを手配できるアプリとして、ごく一部の大都市圏でサービスを開始し、現在は世界507都市で利用されている。
心地よい空間から抜け出せ!
掛かりつけ医や出産予定日などをあらかじめ登録し、出産を控えた妊婦さんをスムーズに病院まで送り届ける「陣痛タクシー」、学校・習い事・自宅間をドアtoドアで送迎する「キッズタクシー」、他にも運転手の仕事をサポートするメーターやドライブレコーダーの開発など、日本交通とJapanTaxiは、タクシー業界の常識を覆すような商品やサービスを企画・提供してきました。世間の注目を集めるユニークなアイデアはどのように生まれてきたのでしょうか。
「この業界に1年もいれば『もっとこうなったらいいのにな』というアイデアは浮かぶものだと思います。やりたいことは1000くらいあっても、やれそうなことは100くらい、でも、やれることにいたっては10もないんですよ。実際にやるとなると人・お金・時間、全部が必要。こっちをやったら、あっちができなくなるといった取捨選択が必要になってくるじゃないですか。アイデアの数で困ったことはないけれど、優先順位やリソースの奪い合いが悩みです」
アイデアを実現するために意識していることはありますか?
「僕の場合は論理型より直感型なので、基本は現場を見て回る、タクシーに乗る、コールセンターに入るといった何気ないところから。普段の生活を送るなかでも、タクシーのフィルターを通して物事を見ているんですよ。『あれ?これ使えるんじゃない?』って。配車アプリを始めたのも、ドミノピザのアプリを見たのがきっかけなんです。住所がない場所、例えば上野公園で花見をしているところにピンを落とせば、そこにピザを届けてくれるというサービスで。『これいいじゃん!』って」
2011年にアプリをリリースしたことが、その後にとっての大きな一歩になったのは間違いないですね。
「『心地よい空間から抜け出せ』というのがその年のテーマだったんですよ。正確にいうと、2010年にCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)の増田宗昭さんに売り上げ利益を上げる取り組みを始めた方がいいよと言われ、そこから企画して2011年に3つの事業を始めたんです。ひとつめはアプリ、そして、現在エキスパートドライバーサービス(EDS)と呼んでいるキッズ・観光・介護タクシー、最後が介護事業です。僕のポリシーで下手な鉄砲数撃ちゃ当たるといいますか、同時にいくつもやってみて当たったものを伸ばすという方法を採ったんです。介護事業はうまくいかなかったので1年で辞めました。あとのふたつは伸びましたが、1年間やってみて明らかな手応えがあったのがアプリで。それで、2012年のはじめにシリコンバレーに視察に行くことにしたんです」
そして、このアメリカ視察が川鍋さんと会社の未来を大きく変えることに。
「最初にUberを認知したのがこのときです。サンフランシスコで見たのですが、『タクシーができていないことを全部成し遂げる装置ができちゃってる』と引きつりましたね。正直、夢であってほしいと思いました。『俺たち、いらねぇじゃん』って」
1900億円の負債を返済し、会社を立て直すところから始まり、次々と新しいプロジェクトを世の中に提案する姿は実に鮮やか。後編では、アメリカ視察で目の当たりにしたUberショックからどのように立ち直ったのか、熟考の末に辿り着いたキーワード「リアル×IT」が意味する戦略と、タクシー業界を牽引するという強い決意について迫ります。